第4話「たとえ魔力がゼロだとも」
――その本に書かれていたことは、まるで禁呪のように難しかった。
だが、アマリエの胸の内に灯った火は、たとえ言葉が理解できずとも、決して消えることはなかった。
ポーションジュースの店を出てから三日。
アマリエは一つの迷いを抱えていた。
「のう、ガンちゃん……やっぱりワシにも必要かのう? “勉強”というやつ……」
その言葉に、黒猫――ヴォルフガングは、ぴくりと耳を揺らした。
『今さらですニャ? でも、気づけたのなら上出来ですニャ』
「いやな、あの店じゃ……あの清掃の流れも、在庫補充も、客への声かけも……全部が“術式”に見えたんじゃ」
『そうですニャ。現代の“術”は“仕組み”として運用されているのですニャ』
アマリエは「うーん」と唸った。
「仕組み……?」
『魔王軍で言えば、補給線、連携陣形、交代のルーチン。そういうものですニャ』
「ふむふむ……言われてみれば……うん、確かに魔王軍も“仕組み”で動いておった!」
アマリエは得意げに胸を張った。
その顔は、「何かを思い出した子供」のような笑顔だった。
その日の夕方、アマリエは町の古書店を訪れていた。
店は狭く、看板も色あせており、書棚は無造作に積み重なっていた。
けれどそこには、膨大な“人類の知”が眠っていた。
「……すごいのう……知識が、棚に刺さっておる……!」
『本というのはそういうものですニャ。物理攻撃では抜けませんニャ』
冗談めいたヴォルフガングのツッコミにも、アマリエは感動のまま応えた。
「……知の刃、であるな」
『そう言えなくもないですニャ』
アマリエは真剣な顔で、ビジネス書コーナーに向かった。やがて、銀色の表紙が目を引いた一冊を手に取る。
【経営戦略とはなにか】
「……表紙が強そうじゃ。これが“禁呪”の一つか?」
『いえ、それは新書ですニャ。軽量呪文のようなものですニャ』
アマリエは恐る恐るページをめくった。
――途端に、その眉間がぴくりと歪んだ。
「“ロジック”……“スキーム”……な、なんじゃこの呪文は……」
『ご安心を。逐一翻訳しますニャ』
「頼むぞ、ガンちゃん! ワシ一人では爆発しそうじゃ……!」
その後、アマリエはヴォルフガングのナビゲートを受けながら、ビジネス用語と格闘した。
『“ロジック”とは、理屈や筋道。魔王軍で言えば“作戦の全体図”ですニャ』
「ふむふむ、なるほど……魔将たちの連携図のようなものか!」
『“スキーム”は戦略の流れ。計画→配置→実行、のような工程を表す言葉ですニャ』
「それは“召喚手順”に近いのう!」
『“キャッシュフロー”は資金の流れ。魔王軍で言えば“魔力供給”の動線管理ですニャ』
「つまり、補給線じゃな! ふふふ、ワシの得意分野じゃ!!」
気がつけば、アマリエは“理解”というより“感覚”で覚えていた。
文字の意味は追いつかずとも、かつての経験と直感で――心だけは、追いかけていた。
「……ワシには難しすぎるのう……。けれど……わからぬのに、胸が熱くなるのじゃ」
『それが“情熱”というものですニャ』
「ワシ……魔力も、家も、財も失ってしもうた。だが、“この火”だけは残っておる気がするんじゃ」
アマリエの手は、小さく震えていた。
経営戦略、ロジック、仕組み、構造。
それらが何かは、正確にはわからない。
だが――「これは“力”だ」と、本能で察していた。
「……ガンちゃん。ワシ、この“経営”というやつ……もっと学びたい……!」
『ならば、私が付き添いますニャ。あなたには“理解しようとする意志”がある。それがすべての始まりですニャ』
「うむ!」
アマリエは、輝く目で言った。
その夜、アマリエはボロアパートの一室で、本を膝に開きながら震えていた。
全然読めない。ページが進まない。だが、それでも嬉しい。
「わからないこと」が、希望になるなんて、かつての魔王は思いもしなかった。
元魔王、人生初の「勉強する夜」が、静かに更けていった。