第2話「定年魔族、老後の終焉」
朝の清掃現場。濡れた床をモップで磨きながら、アマリエは昨日から痛む背筋をさすっていた。
角の根元がズキリと痛む。湿気のせいだろうか。あるいは年齢のせい(見た目は18歳)だろうか。
そのとき、背後から派遣会社の担当者が近づいてきた。
「アマちゃん、お疲れー。でさ、悪いけど、来月で契約終了ね」
モップの動きが止まった。
「……終了……とは?」
「ほら、定年。魔族は20年で労働資格が切れるって法律になったの。うちも法令順守ってことで、よろしく」
「て、てーねん……?」
アマリエは小首を傾げた。
「……それは、何かの“殿堂入り”のようなものかの? 優れた労働者だけが受ける称号……?」
「……いや、普通に仕事終わりって意味ね。再雇用もなし」
「再……?」
「もう働けないってこと。以上」
彼は書類を差し出した。
『契約終了通知』
赤いハンコが、冷たく押されていた。
アマリエは目を見開いた。
「ワシ……殿堂入りでは……ない……?」
団地に戻ったアマリエは、床に正座してヴォルフガングに尋ねた。
「ガンちゃんよ……ワシは……追放されたのか? 再び?」
『“追放”というより、今度は“法により静かに排除された”感じですニャ』
「な、なんという静音設計……」
『魔族は年金制度にも入れませんし、退職後の再雇用も原則禁止。おまけに、自己破産も申請不可ですニャ』
「にゃ、にゃんと……!? 破産が、できんのか……!? ワシは何を破壊すれば許されるんじゃ……?」
『破産は“壊すこと”ではありません。経済用語ですニャ』
「なんと! して、年金とは……“老いた者に黄金を分け与える祭典”ではないのか?」
『違います。働いた分を積み立て、老後に支給される社会制度ですニャ。あなたは、積立なし・対象外・登録不可の三重苦ですニャ』
「…………」
アマリエは、手のひらを見つめた。かつてはその手を翳すだけで大地は割れ、海は荒れ狂う魔物と化した……
今はただ、見えない未来を恐れ震えるだけ。
「老いとは……知らぬ間に、すべてを奪うものなのじゃな……」
翌朝。アマリエはヴォルフガングと共に役所の窓口に並んでいた。
その姿は、いつもの制服に小さなリュック、折りたたみ傘を肩に引っ掛けた“ただの市民”のようだった。
「次の方、どうぞー」
「魔族のアマリエ・ヴァル=グリムと申す。自己破産、または年金受給の件で……」
職員は笑顔で言った。
「失礼ですが……魔族の方ですね?」
「うむ、そうじゃ。今は小市民として働いておるが、かつては魔王じゃったぞ」
「はあ……ええと、魔族の方は現在、法的にすべての保障制度の適用外となっております。申し訳ありませんが、どちらもお手続きできません」
「な、なに? 年金も、破産も、受け取れぬのか……?」
「はい。というより、“提出する資格がありません”という方が正確かと」
「……では、ワシの“老後”は……どこへ?」
「……申し訳ありません。はい、次の方」
その返事を聞いて、アマリエは窓口の前で小さくうなだれた。
かつての魔王が、申請窓口で絶句するという、奇妙な光景。
その帰り道。
路地裏で、ふとゴミ箱を漁る気配に気づいた。
アマリエが足を止める。
ボロを纏ったリザード族の魔族の老人が、腐った惣菜パンを手にしていた。
牙は折れ、目は落ちくぼみ、肌はカラカラに干からびていた。
その魔族が、ゆっくりとアマリエに視線を向ける。
二人の目が、交差した。
言葉はなかった。
だが、確かに通じ合ったものがあった。
──これが、未来のワシ。
その瞬間、足が震えた。
団地の部屋。
アマリエは、契約終了通知や申請書類を並べて、じっと見つめていた。
「年金は……どこからも届かぬ……郵送ミスなのか?」
『……違いますニャ』
ヴォルフガングが、そっと隣で言った。
『あなたは、もはや制度上の“存在”ではありません。“記録されない者”には、書類すら届かないのですニャ』
アマリエは、書類をひとまとめにして、団地の小さなガスコンロの上に置いた。
「うう……せめて、これだけでも燃やしてやるのじゃ……」
しかし、湿気を吸った紙は燃えず、くしゃりと折れて、火種はすぐに消えた。
「……ワシの終わりは……紙にも……拒まれるのか……」
ぽつりと呟いて、アマリエは床に崩れ落ちた。
天井を見上げる。水染みの形が、涙のように見えた。
「ワシの未来は……どこへ……」
ヴォルフガングは、何も言わなかった。
ただ、その場に静かに佇んでいた。
朝の光が差し込んでいた。だがその光は、アマリエの布団の中には届かなかった。
団地の六畳一間、干からびたカーペットと破れかけたカーテンの間で、アマリエは丸くなっていた。魔王だった体は痩せこけ、布団の中でさらに小さくなっている。
「今日も……息をしてしまったか……」
誰に向けた言葉でもない。自分自身にすら届かぬほど、かすれた声だった。
カーテンの隙間から光が差し込む。その光は、何も変わらない日常と、取り残された自分を思い知らせるものだった。
「ワシは、まだ……ここにおるのか……」
ため息すら出ない朝だった。
「夜勤歓迎!即日現金払い!未経験OK!」
団地の郵便受けに放り込まれていた求人チラシを、アマリエはまるで聖典でも読むように見つめていた。
「即金……金が……即に……手に入るとな……!」
乾いた唇を舐めるようにして、その文面を追う。魔王の頃、金など欲しければ兵を向かわせればよかった。今は、千円札すら自力で手にできない。
すでに通帳は残高が数百円。家賃の督促状、年金の不支給通知、魔族の生活支援打ち切り……何もかも、魔王であることを理由に切られていた。
「このままでは……飢え死にか……」
そんなときだった。近くにいた若者たちの声が耳に入った。
「やば〜~!昨日パパ活で三万稼いだし〜~、しばらくバイト行かんでいいかも」
「マジ!? 三万!? それマッチングで?!」
パパ活──。その言葉がアマリエの脳裏に突き刺さった。
「……ぱぱ活、か……」
一度は聞いたことがある。その意味も、ちょっとは理解していた。
「……もう……これしか……もう……」
呪文の如く呟きながら、アマリエは団地の部屋に戻った。
そして、全裸になり鏡の前に立つ。
「ワシの体、は……」
800歳超え。歴代魔王の寿命で言えば老年……といえど、鏡に映るのは年齢でいえば十八、十九。魔王の肉体は不老。肌に張りがあり、瞳もまだ澄んでいた。
「……いけるのでは、ないか……?」
唇が震える。目をそらしそうになる自分を、魔王の意地で押さえ込む。
「三万……いや、一万でも、今日を乗り切れる……。ワシが、ワシを売ることで、生きられるのなら……」
部屋に転がる段ボール箱を開けた。20年前の和平前に使っていた、戦闘用衣装が数枚。胸元の大きくあいた黒ドレスを手に取る。
しかし、袖に手を通しかけたそのとき――
『……何をしてるんですニャ?』
ヴォルフガングが、野太く低い声で問いかけていた。
黒猫のその目は、いつになく鋭かった。
「ガンちゃん……ワシ……ワシは……この衣を……ただ試してみようと……」
『あなたは、誇りまで捨てようとしてましたニャ』
「……生きねばならんのじゃ!!どんな手を使っても。ワシは……誇りなど、もう捨てたんじゃ!!!」
『それは違いますニャ』
ヴォルフガングは歩み寄ると、アマリエの足元に座った。
『誇りを“捨てる”のと、“諦める”のは、まったく違う意味ですニャ。あなたは、まだ諦めてないからこそ、これを“恥”だと思ってるんですニャ』
「……じゃが、腹は減る。家賃も払わねば。生きるには、何かを差し出さねばならんのじゃ!」
『その“差し出す”対象が、自分自身であってはなりませんニャ』
アマリエは、言葉を失って立ち尽くした。
そして、気づけば手にしたドレスをそっと畳んでいた。
その夜、アマリエは団地の屋上にいた。
コンクリの床。錆びついたフェンス。無人の空。誰もいない世界のような風景。
「これで……終わりにできるなら……楽になれるのう……」
風が天然パーマのもしゃもしゃヘアーを揺らす。静かだった。誰にも気づかれず、誰にも見送られず、ただ消えていける場所。
足を一歩、踏み出す。
フェンスの向こう、夜景が広がる。その光のどこにも、自分の存在が関わっていないことに気づいてしまう。
「ワシなど……いなくても、なーんも困らぬ世界じゃ」
そのときだった。
肩に、温もり。
『やめてくださいニャ』
ヴォルフガングがそこにいた。
いつもと同じ、しかし今は震えるような声で。
『それは、“誰にも見つからずに死ぬ”ことですニャ。あなたは、誰かに見つけてほしいはずですニャ』
「……ワシは……ただ、楽になりたいだけ……」
『楽になるために、命を投げ出すなんて……そんなのは、生きてきた証まで否定することですニャ』
「……ワシは、何もできんかった!!魔王でありながら、魔族すら救えんかった!!今は、金も、家も、役割もない。あるのは……空っぽの明日だけじゃ……」
『空っぽなら、これから何か入れられますニャ』
アマリエの目に、涙がにじんだ。
やがて大粒の珠になり、冷たいコンクリの床に染みを作る。
「……ガンちゃん。ワシは、もう、魔王ではないのじゃな……?」
『はい。何度でもお答えしますニャ。あなたは、今はただのアマリエですニャ。でも、それでいいんですニャ』
膝から崩れ落ちる。座り込んで、フェンスに寄りかかる。
「ワシは……弱い。情けなくて、恥ずかしくて、アンポンタンで……でも、死ねんかった……」
『それでいいんですニャ』
風が吹く。温かい風だった。
朝日が昇っていた。
団地の屋上で、アマリエは膝を抱えて座っていた。
ヴォルフガングが、その隣にちょこんと座っている。
「ガンちゃん……今日も、生きてしまったのう」
『はい。それが、とても大切なことですニャ』
アマリエは、微かに笑った。
「……ほんの少し、だけのう。昔より、強くなった気がするのじゃ」
その微笑は、誰にも見せるものではなかった。
ただ一匹の黒猫だけが、それを見ていた。