第1話「元魔王、雑巾を握る」
ビル風が、頬を切り裂くように吹き抜けた。
アマリエ・ヴァル=グリム──
見た目18歳の少女、実年齢800歳。
かつて“魔王”と呼ばれ、魔族を束ねていた存在は、いまや高層ビルの窓拭き作業員として、地上四十階の外壁に吊るされていた。
片手に雑巾、もう一方にはバケツ。命綱が揺れるたびに、細い体が不安定にきしむ。
腰にはベルト。足元には鉄製のゴンドラ。街の喧騒が遠く響く中、彼女はただ、黙って窓を拭き続けていた。
「……ワシは……世界を征服した魔王だったんじゃぞ……」
震える声で呟く。だが返ってくるのは、濡れたガラスが軋む音だけ。
天然モシャモシャくせっ毛の銀髪が風に舞い、ヘルメットの下から覗く山羊のような角がカチカチとぶつかる。神竜族の血を引く彼女の自慢の尻尾は、力なく垂れていた。
誰も見ていない。誰も覚えていない。かつての魔王など、いまの社会では“魔族という労働力”に過ぎない。
人間に敗れた二十年前の大戦。和平条約。魔力封印。
あの日すべてを奪われたアマリエは──今、雑巾を握っていた。
「アマちゃん、まだ終わってないよー。下の角、ムラになってるって苦情来てるー」
下から拡声器の声が飛ぶ。人間の現場監督。
「は、はいっ! いま拭くぞい!」
ヘルメットの中で、かつての威厳ある声が震えていた。
ゴンドラが揺れる。バケツの水が跳ねて靴を濡らす。
「うぐぅ……冷たい……これは拷問か……?」
彼女の一人称「ワシ」は、もはや誰にも通じない。天然だの、古風だのと笑われるだけ。
数字も苦手。報告書も読めない。
数日前など、作業日報に「本日、敵の陣地を攻略した」と書いて提出し、真顔で人事部に呼び出された。
──バカにされた。
でも。
笑われても。罵られても。生きるしか、なかった。
その夜。
六畳一間のボロアパート。台所も風呂もなく、ポット一つで生活する。
アマリエは、カップ麺のふたを開けることさえ、しばらくできなかった。
「……こんなものが……食事……? これが人類の主食なのか……」
かつてはドラゴンの心臓を丸焼きにしていた。いまは……乾燥わかめと粉末スープ。
部屋の隅、畳の上には黒猫が座っている。
『それでも……魔王様、今日は落ちずに帰ってこられましたニャ』
「落ちたら終わりじゃからのう……ワシの人生、最終フロア行きじゃ……」
ヴォルフガング。
かつての魔王筆頭女性補佐官。今は呪いのおかげで黒いメス猫の姿、ただ一人、彼女の傍にいてくれる存在。
アマリエとだけテレパシーで会話ができ、その他からは猫の鳴き声にしか聞こえない。
「明日は……どこじゃったかの。清掃現場」
『東第二ビルの地下駐車場ですニャ。湿気とカビと悪臭の三連コンボですニャ』
「ま、またか……」
尻尾がしおれる音が聞こえそうだった。
だが、アマリエは笑わなかった。
笑う余裕など、どこにもなかった。
深夜、アパートの屋上にて。
アマリエは一人、月を見上げていた。
かつて、あの光は戦の合図だった。
いまはただ、孤独を照らす。
「……ワシは、もう……魔王じゃないんじゃのう……」
ヴォルフガングが、そっと隣に座る。
『魔王様。いまのあなたは“資本主義社会の初心者”ですニャ。でも……それは、学べる力ですニャ』
「……学べる……かのう……?」
『はいニャ。いま、魔力はありません。でも、“仕組み”ならば、誰にでも使えますニャ』
アマリエは、しばらく沈黙していた。
そして──小さく呟いた。
「……ワシな……いつか、“微笑み”を広めたいんじゃ……」
それは、かつて無双の軍勢を率いた魔王が、雑巾を握りしめて吐いた、世界で一番ちいさな野望だった。
そんなことを考える日々が続く。何日も、何日も……
アマリエは今日も、都心の高層ビルの隅で窓を磨いていた。
地上二十階、風の強い足場の上。命綱もつけず、無造作に外に身を乗り出している。
「アマリエさん、おいおい、またそんなに乗り出して! 落ちたら自己責任じゃ済まないんだから!」
下から声が飛ぶ。アマリエは振り返り、真顔で答えた。
「うむ、安心するがよい! 万が一落ちた場合、ワシは不死身……ではなかったな。すまぬ、気をつけるぞ」
黒猫のヴォルフガングが、アマリエの肩で小さくため息をついた。
『魔力封印されてからもう20年ですニャ。何度言えばわかるんですニャ……』
アマリエは笑って、ゴム手袋のまま頭をぽりぽりと掻いた。
手には、しぼりすぎてぼろぼろになった雑巾。その手はかつて、数千の兵を薙ぎ払った破滅の右手だった。
今では、その手が清掃という労働に従事していることを、本人はどこかまだ完全に理解していないようだった。
「ガンちゃんよ、のう。ワシは一体、いつから“魔王ではない”のじゃ?」
『ええと、雇用契約書に“清掃員”と明記されてからですニャ』
「……ふむ、契約書は強いな……」
昼休み、アマリエは団地に戻り、階段の踊り場に腰を下ろしていた。
目の前には、小さな包み。中身は、塩むすびが一つ。
「今日は豪華じゃぞ、ガンちゃん。塩が……おお、三箇所についておる! これは……三段階覚醒ではないか?」
『そんな現象は存在しませんニャ……』
アマリエはむすびを手にとると、うやうやしく持ち上げ、真剣な面持ちで祈りを捧げた。
「塩よ……そのしょっぱさで、我がこの命、再び戦場へ導かんことを……」
『どこの戦場に向かう気なんですニャ』
「ビルの廊下じゃ」
その帰り道だった。
アマリエは、ふと見慣れぬ看板に足を止めた。
【癒やしのしずく亭 〜疲れたあなたに、一滴のやすらぎを〜】
「ふむ、“やすらぎ”とは……強力な回復呪文か?」
『いや、そういう意味ではないと思いますニャ』
ガラス越しに並ぶポーションの瓶。アマリエは目を丸くした。
「おお……これは、なんとも神々しい……!」
その輝きは、かつて自らが戦場に投げ込んだ即席ポーションとは明らかに異なっていた。
「あの瓶は……味方を鼓舞し、敵を動揺させる“魔道具”ではないのか?」
『違いますニャ。あれは癒やしのための品物ですニャ』
「……癒やし、とは……叩くことでも、爆発でも、ないのか……」
『ないですニャ』
その夜。
団地の部屋に戻ったアマリエは、床に横たわりながら呟いた。
「ガンちゃん……ワシ、あの瓶を見て、なぜか涙が出そうになったんじゃ……」
『それは、“やさしさ”を思い出したからですニャ』
「……魔王たるもの、やさしさなど必要ないと思っておったが……」
『あなたはもう、魔王ではありませんニャ』
アマリエはしばらく沈黙した。
やがて、そっと布団に潜り込む。
「……ガンちゃん……ワシ、明日……あの店の前を、もう一度通ってみてもよいかの……?」
『構いませんニャ。見るだけならタダですニャ』
「そうか……見るだけで癒やされるとは……魔法よりもすごいのう……」
『それが“商い”というものですニャ』
雨の音が、静かに窓を打ち始めた。
アマリエは、ふと枕を濡らす感覚に気づく。
「……む? ガンちゃん、枕が……濡れておるぞ?」
『それはあなたの涙ですニャ』
「……そうか……そうか……そうじゃな……」
溢れ出る涙を拭うことなくアマリエは小さくつぶやき、そのまま目を閉じた。
胸の奥で、まだ名もない感情が、静かに膨らんでいく。
もしそれが“希望”と呼べるものであるならば。
──アマリエは、まだ終わってなどいない。