54.繰り返す回帰の原因7
鐘の音が鳴っている間、フィオラはぎゅっと目を閉じていた。聖杯を持つ手に、イースランの手が重なる。そのぬくもりだけが頼りで、ただただ祈っていた。
そうして、音が鳴りやむのを待って、おそるおそるとその双眸を開く。
目の前には、同じように不安な色を目に滲ませたイースランがいた。
イースランはポケットから懐中時計を取り出し、開く。
「八時を過ぎている……」
イースランの声と一緒に、パーティ会場からダンスの音楽が聞こえてきた。
風に乗って届く音は小さいが、だけれどフィオラの耳は一音も逃さずをそれを拾い取る。
「回帰、していません……」
「……時が戻っていない」
ふたり顔を見合わせると、次の瞬間両手を広げお互いを強く抱きしめた。
「イースラン様! 回帰していません! 私、ここにいます!!」
「あぁ。すべて覚えている。フィオラ、全部終わったんだ。いや、これから始まるんだ」
フィオラの身体から、安堵で力が抜ける。
へなへなと座り込むフィオラを抱えるよう、イースランもその場にしゃがみ込んだ。
「夢、ではありませんよね。信じられなくて手が震えています」
フィオラが左手をイースランに差し出す。細い指が小刻みに揺れていた。
その手をイースランがぎゅっと握る。
「夢ではない。よかった、間に合った」
そのまま俯くイースランの額が、フィオラの手の甲に当たる。
月明かりで揺れる黒髪が、少しくすぐったい。
落ち着いて見えたイースランも緊張と不安を抱えていたのだと改めて知って、フィオラの胸に急激に愛おしさがこみ上げてくる。
イースランに握られている手と違う方の手で、その黒髪をそっと撫でた。
「ありがとうございます。イースラン様が一緒でなければ、私は混乱するだけで何もできませんでした」
よしよしと動かす手の指の隙間で、黒髪が揺れる。
イースランが俯いた姿勢のまま、目だけ上にしてフィオラを見る。
「フィオラが傍にいてくれたから、頑張れた」
「では、すべて私のおかげですね」
ふふっと笑うと、イースランの目が柔らかく細まる。そのままフィオラの手を口へと持っていき、指先に誓いのキスをした。
「そうだ。フィオラが俺を好きだと言ってくれたからだ」
「もし言わなかったら?」
「もちろん、時を戻して再びフィオラを口説き落としていた」
クツクツと笑うイースランに、フィオラは吹きだす。
「悪どい考えですね。イースラン様が言うと冗談に聞こえませんよ」
「本気だからな」
当然だろうと言わんばかりに、イースランが片眉を上げる。その仕草がわざとらしくてフィオラはまた笑ってしまう。
緊張から放たれ、心がふわふわとした。それと同時に大きな喜びが内側から波のように押し寄せる。
「ほっとしすぎて、今は何を言われても面白いです。なんでも許してしまいます」
下手な冗談ですら、新鮮なものに聞こえる。そういう意味で言ったのだが、イースランがその言葉を聞き逃すはずがなかった。
「なんでも許してくれるんだ」
「どんな冗談でも笑ってあげます」
「では、キスをしていいだろうか?」
「えっ?」
フィオラが笑い顔のまま動きを止める。
今、イースランはなんと言っただろうか? 反芻して理解したフィオラは、すぐに顔を真っ赤にした。
「えっ、えっ!? そんな話をしていましたっけ?」
「なんでも許すという話をしていた。ということで、許可が出たと判断する」
ちょっと待ってと言おうとしたが、真剣な青色の瞳に見つめられ、フィオラはその言葉を飲み込んだ。
そうして、戸惑うように視線を動かしたあと、瞼をそっと閉じた。
イースランが近づく気配がして、唇に柔らかなものが触れる。
数秒触れたのち離れたのが名残惜しく目を開ければ、熱の籠った視線がフィオラを捉えた。
その視線に応えるように、フィオラはゆっくりと睫毛を下にする。
睫毛の向こうに、再び近づいてくるイースランがしっかりと見えた。
二度目の口づけは一度目より熱い。
さらに深くなるキスに、フィオラが逃げないようにイースランの手が後頭部に当てられた。
抱きしめられ、息がうまくできず、熱に浮かされたように頭がぼんやりとしてくる。
やっと唇が離れたときには、フィオラは肩で息をしていた。
「あ、あの。これは、初心者向きのキスでしょうか?」
「少々、違うかもしれない」
まだ半開きとなっているフィオラの口元を、イースランが柔く微笑みながら親指でなぞる。フィオラは羞恥で頬を染めながら、されるがままになっていた。
「……ちょっとは手加減をしてください」
「これだけ盛り上がった状態でそれは無理だ。俺だって、常に紳士ではいれないんだ」
「紳士でいたことが、ありましたでしょうか?」
「ほぉ、そうくるか。では、フィオラの前では紳士の仮面は不要ということで……」
再び近づいてきたイースランの胸を、フィオラが全力で押す。
「仮面と言っている時点で、本当の紳士ではないですよね?」
「そんな男がこの世にいると思っているのか?」
「います! 絶対にいるはずです」
もう、と睨めば、イースランはやっと諦めたようで両手を顔の位置に上げた。
「分かった。今夜はこれぐらいにするよ。ところで下からセレナの悲鳴が聞こえてきたが、どうする?」
時間が戻っていないことに気がついたのだろう。
荒々しく鐘塔の扉が開く音がして、階段を駆け上がる足音が響いてきた。
ふたりは揃って、うんざりだと眉を顰めた。
「面倒です」
「そうだな、逃げるか」
イースランがフィオラを抱きかかえ、立ち上がる。
「風魔法で何かを持ち上げたり移動させるのは、力加減が難しいんだ」
「はい?」
「だから空中浮遊はできないが、落下スピードを落とすぐらい問題ない」
何を言っているのだと問いかける間もなく、フィオラの身体は宙に浮かんだ。
「きゃぁ!!?」
真下に鐘塔を囲む花壇が見えた。恐怖でイースランの首にしがみつくと「大丈夫だ」の声と一緒に腕の力が強まる。
そうして悲鳴が終わると同時に、イースランの足が地面に着いた。
「……事前説明をしてから飛び降りてくれませんか?」
「可愛い悲鳴が聞きたかったんだ。では、お姫様、このままどこへ行きましょうか? お薦めは俺の邸です」
「とりあえず、降ろしてください。それから……」
フィオラは夜空を見上げる。夏の風が心地よく頬を撫でた。
「時が進んだことを実感しながら、散歩をしませんか?」
「それは妙案だ。フェンリルたちが飼育小屋に戻ったかも確認したいしな」
「あの二匹なら、誰かさんと違ってお利口ですから大丈夫です」
イースランに地面に降ろしてもらいながら、フィオラが悪態をつく。イースランは「ふーん」と片眉を上げた。
「その『お利口さんでない誰か』と夜の散歩とは、随分と無防備だな」
「そ、それは……」
しまったとフィオラが焦る。何を言ってもイースランに勝てる気がしない。
「そうやって慌てる姿まで可愛く思えるのだから、俺は随分とフィオラに惚れ込んでいるようだ」
イースランの唇が頬に近付くと、ふわりと口づけが落とされた。
また頬を染めるフィオラを、愛おしそうにイースランが見つめる。
「さぁ、行こう」
差し出された手に、フィオラの手が重なる。
そうしてふたりは、夜の散歩に繰り出したのだった。
ここまでお付き合いいただきありがとうございます。
夕方はエピローグ×2話を投稿いたします。諸々の後始末とふたりのその後です。
本日から、「婚約破棄された私、目覚めたら隣に婚約破棄された侯爵様が眠っていた」を投稿しました。
https://ncode.syosetu.com/n5405kp/
不器用な二人が心を通わせる、ほわんとした世界観の物語です。




