48.繰り返す回帰の原因1
フェンリルが脱走してから三日後、夕暮れの中フィオラとイースランはフェンリルに会いに飼育小屋へ来た。
脱走してすぐは、再び興奮状態に陥る可能性もあるので鐘塔の下にある地下牢で鎖につながれていたが、二匹は大人しく怪我の手当を受けたと聞いている。
そのため、鉄格子の修復が終わると同時に飼育小屋へと戻されたのだ。
フィオラが芝生に足を踏み入れた途端、林の奥から二匹が駆けてきた。ものすごい勢いに身構えると同時に、あっけなく地面に押し倒される。
そのまま体中を分厚い舌で舐められた。両手を振って助けを求めるも、クロセットもイースランも笑うばかりで助けてくれない。薄情者め、とフィオラのくぐもった声がした。
なんとか上体を起こすと、フィオラは恨めしそうにイースランを睨む。
「助けてくれてもいいと思います」
「フィオラ不足でしたから、堪能しているのでしょう。気持ちは分かります」
「どうして分かるのですか? ……いえ、説明しなくていいです」
クロセットが二匹を小屋の中へと誘う。餌の時間だ。
食後、また遊ぶつもりのフィオラは、エプロンからハンカチを取り出し顔を拭いた。
「イースラン様も久しぶりな気がします」
フェンリルが脱走したあの夜ぶりだ。
イースランが演技ぶった仕草で両腕を広げる。
「俺もフェンリルたちのようにフィオラを抱きしめてもいいだろうか?」
「駄目に決まっています」
フィオラが目を眇めれば、イースランはそんな反応をも楽しむようにクツクツと笑った。
それから真面目な顔をして、「ちょっと話をしよう」と鉄格子の外を指差す。
ふたりは飼育小屋に入ると、食事中のフェンリルの脇を通り、台所にあったタオルを手にして井戸へと向かった。
フィオラは、イースランが汲んだ水にタオルを浸し、ぎゅっと絞る。
それからエプロンを取って顔や首、腕を拭いた。
一通り拭き終わったところでイースランが手を差し出してきた。「タオルを貸してください」と言われ渡せば、再び水に浸し絞る。
そうして、フィオラにベンチへ座るよう促した。
言われるがまま座ると、イースランは隣ではなく後ろへ回り、フィオラの髪を拭き出す。
「い、イースラン様、自分でできます」
ステンラー帝国の侯爵令息、しかも王族の血を引く人にそんなことはさせられない。
慌てて立ち上がろうとしたのだが、肩を押さえられ再びベンチに戻されてしまった。
「フィオラ不足を補っているんです。それとも他の方法がいいですか?」
後ろからぬっと覗き込まれ、首筋に息がかかる。
「ひやぁ」と変な声が出て、フィオラは焦って口を押さえた。
「うーん。その可愛い声をもっと聞きたいのですが、歯止めが利かなくなるのでやめましょう」
「……ふざけるのもいい加減にしてください。心臓に悪いです」
前を向いたまま、フィオラは抗議する。顔が真っ赤で振り返ってイースランを見ることができない。
イースランはククッと笑うと、再びフィオラの髪をタオルで拭く。
フィオラも今度は抵抗することなく、されるがままになっていた。
三日前の夜、脱走したフェンリルは教師が呼んだ騎士によって鐘塔へと連れていかれた。
知らせを聞いたクロセットが駆け付けるまでは、フィオラが二匹に付き添った。
入れ替わるようにしてクロセットに世話を頼んだあとは騎士の事情聴取に応じ、帰宅したのは明け方だ。
しかしイースランは、事件の全貌を明らかにするために騎士に協力をしていたので、学園にくるのは三日ぶりとなる。当然、その間フィオラに会っていない。
「三日間、騎士団に拘束されていましたからね。むさくるしいことこの上ありません」
「カルロさんも一緒ですか?」
「ええ。とはいっても、カルロは帰宅を許されていましたけれどね。差し入れを持ってきてくれたのはありがたかったが、俺も帰りたかったです」
イースランがシャツの胸ポケットに手をやる。
何か入っているのだろうか。取り出すような仕草をして、しかし手を止め再びフィオラの髪を拭く。
「……それで、妹や実家のジネヴィラ商会はどうなるのでしょう。教えていただけますか?」
覚悟を決めたかのようにフィオラが切り出すと、イースランは小さく「はい」と答えた。
「フィオラがジネヴィラ商会を離れてから、経営は悪化の一途を辿っていました。ジネヴィラ伯爵は商会に関心がなく、ダリオンに丸投げ。夫人は散財を続け、一年足らずで赤字となっていたそうです。ダリオンが怪しい商人の取引に乗ったのも、商会を立て直そうと考えたからだと言っていました」
「その怪しい商人が、違法商品の売買を牛耳っていたのですね」
「そうです。十数人の組織で、学園祭に来た商人はそのうちのひとりです。フェンリルの毛皮を売ればいいと言い出したのは、ミレッラだったみたいですね」
「ミレッラが、ですか」
思わずフィオラが振り返る。イースランは顎を引いて答えた。その仕草にフィオラは視線を落とすと、再び前を向く。
「良くも悪くもミレッラは商会の仕事に興味を持っていなかったので、意外です」
「商品を自分たちで手に入れれば、仕入れ価格がタダになる。儲かれば、豪華な結婚式が挙げられると思ったそうです」
フィオラが長い息を吐く。
短絡的な考えはミレッラらしいと言えるが、だからと言ってフェンリルを盗もうとするなんて無謀すぎる。
「ミレッラからフェンリルを盗めばいいと言われたダリオンは、商人に相談したそうです。そこで商人は、学園祭で見たまどろみ草を使うことを思いついた」
「まどろみ草はどこで手に入れたのでしょうか?」
「高利貸しに騙され金を借りていた貴族の一人が、ダリアの婚約者であるヘンリーの友人だったらしく、まどろみ草は彼から入手したそうです。ただ、どうやらきちんと説明を聞いていなかったようで、フェンリルも眠らせられると勘違いしていたようです」
まず、ミレッラとダリオンが学園内に入り、フェンリルを眠らせる。
もし誰かに姿を見られても、忘れ物を取りに来たと言えば誤魔化すことが可能だ。夜なので、婚約者のダリオンが付き添っていても違和感はない、と考えたらしい。
「でも、眠らせたあと、どうやってフェンリルを学園の外に運ぶつもりだったのですか?」
身体が大きく体重もかなりある。台車に載せたとしても容易に動かせないし、そもそも目立つ。
「……北の壁の向こうに数人の商人が待機していて、ダリオンの合図で壁をよじ登って侵入する予定だったそうです」
フィオラはフェンリルにつきっきりだったので知らなかったが、あの場でザークに詰め寄られたダリオンが、あっさりと白状したらしい。
待機していた商人は全員捕まり、数珠つなぎに組織全員が捕縛された。
「そうだったのですか。でも人が増えても、北にある飼育小屋から南門まで移動するのが目立つことに変わりはありません……あっ!」
そこまで言って、フィオラは口に手を当て顔色を悪くさせる。
イースランが髪から手を離し、フィオラの肩にそっと置いた。
「想像通りです。あいつらは北の林の中でフェンリルを解体し、毛皮だけを奪い、再び壁をよじ登って逃亡するつもりだったようです。商人と言いましたが、そういう仕事もしていたようですね」
法で禁じられた植物を自ら栽培したり、魔獣の解体作業も行っていたとイースランは重い口調で付け加える。
フィオラがぎゅっとスカートを握った。
「許せません」
「あぁ、同感です」
それでなくても人気のない北の林は、夜には真っ暗になる。
一晩かけ作業をすれば、朝には……とそこまで考えたところで、背後からふわりと抱きしめられた。
イースランが、優しく亜麻色の髪を撫でる。
「考える必要はありません。すべて終わった。フェンリルたちは無事だし、誰も負傷しませんでした」
「……そうですね。よかったです」
「フィオラも無事でよかったです」
イースランが髪から手を離し、フィオラのこめかみから頬へと指を滑らせた。
「怪我をしなくて、本当によかった」
心底安堵した声音に、フィオラの心がビクンと跳ねた。
どくんどくんと鼓動が早くなり、その音が背後にいるイースランにまで響いてしまいそうに感じる。
それと同時に、ずっとこうしていたいとも思う。
イースランに触れられると胸がざわざわと落ち着かなく、それでいて喜びが身体を駆け巡る。
頬が赤くなり、全身が熱い。
(あぁ、きっと私はとっくに、恋をしていたんだ)
傷つくのが怖くて自分の気持ちに無頓着でいた。
でも、この切なさと幸福感は、気づかない振りができないほど大きい。
スカートを握り締めていたフィオラの指が解け、自分に回されているイースランの腕に触れる。
逞しい腕が一瞬驚いたかのようにビクンとなった。
「このまま、明日が来て欲しいです」
「……あぁ。そうだな」
頷くイースランの頬が、フィオラの髪に当たる。
この瞬間が愛おしい。だからこそ、足元からじわじわと恐怖が迫ってくる。
――どうして、私は何度も回帰しているのだろう。
その原因はどこにあるのか。
フェンリル脱走未遂事件の結末です。
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