45.フェンリル脱走2
ふたりは夜食のサンドイッチを摘まみながら、鉄格子を観察する。
夏とはいえ、夜は冷える。フィオラが身を縮め腕をさすると、イースランがさっと上着を脱いだ。
「風邪をひいてはいけない。これを着てください」
「そんな、イースラン様が風邪をひいてしまいます」
「フィオラ、寒そうにしている女性をそのままにしては、俺は紳士失格です」
そう言いきかせながら、イースランはフィオラの肩に上着をかける。
ムスクの香りが全身を包み、フィオラの鼓動が急に速まった。
(まるでイースラン様に抱きしめられているような……)
変に意識しすぎて、上着なんていらないほど身体が火照ってしまう。
赤い顔を誤魔化すように大きな口でサンドイッチを頬張ったが、味がまったく分からない。
「こんなときまで紳士でいる必要はないと思いますよ?」
ばくばく鳴る心音を無視しながら早口で言えば、イースランがサンドイッチに伸ばした手を止めた。
そうしてじっとフィオラを見てくる。食べにくいことこの上ない。
フィオラはコホンと咳をしたあと、非難を込めてその視線を睨み返す。
「そんなに見られていると、食べにくいです」
「紳士らしくしなくていいんですか?」
「えっ」
「それなら、朝まで随分と楽しめるんですが」
急に艶のある声で言われ、フィオラは意味が分からずぽかんとする。そして数秒後、言わんとしていることに気がついて「ひゃぁ」と叫んだ。
その反応を待っていたとばかりにイースランが片手を地面に着き、もう片方の手でフィオラの髪を掬い上げる。
腰のすぐ横に手を置かれたせいで、フィオラは動くことができない。
「イースラン様?」
「さて、何をしましょうか? たとえば、この髪にキスをしてもいいですか?」
フィオラが返事をする前に、イースランが髪に唇を落とす。
そうして真っ赤な顔で硬直しているフィオラの手からサンドイッチを取り上げると、それをぽかんと半開きになっている口元へ持ってきた。
「あーん」
「……」
「あれ、いらないですか? ではこれは俺がもらって……」
「いえ! た、食べます!」
自分の食べかけをイースランに食べさせるわけにはいかない。
だから思わず言ったのだが、イースランはにんまりと笑うと、サンドイッチでフィオラの唇に触れた。
「では、食べましょう」
「……自分で食べます」
「うーん、紳士ならその願いを叶えるのでしょうが、今夜は紳士の仮面を取っ払ってもいいそうなので、どうぞ遠慮なく」
うっ、とフィオラは言葉を詰まらせる。
(多分、ここで私が本気で嫌がれば、イースラン様はやめてくれる)
それは分かっている。「いい加減にしてください」と怒ればいいんだ。
だけれど、なぜかそれができない。
フィオラがゆっくりと口を開ければ、イースランが驚いたように切れ長の目を丸くさせた。少し躊躇うように、サンドイッチがそっと口に入れられる。
はむっと噛めば、挟まっていたトマトの果汁が口内に広がった。それをサンドイッチと一緒にごくんと飲み込む。
フィオラの細い喉が動くさまに、イースランの目が釘付けとなった。
次にイースランの身体がゆっくり傾き、その額がフィオラの肩に覆いかぶさる。
「えっ? ええっ? どうしました?」
「どうして食べるんだ?」
「はい?」
のそりとイースランは身体を起こすと、地面から手を離し元の場所に座りなおす。
立てた片膝に肘を置き、はぁ、と項垂れた。
どうしたのかとフィオラが不思議そうに見守る中、イースランは暫くその姿勢でいたあと、やっと顔を上げた。
「普通、食べないぞ」
「えっ?」
「冗談だと流されると思っていた」
照れ隠しのように髪を掻く様子から、フィオラがやめてと言うと思っていたらしい。
耳を赤くするイースランに、焦ったのはフィオラだ。
「だ、だって。食べろって言ったじゃないですか!」
「それはそうなんだが。夜だぞ、人気のない庭だぞ、無防備にもほどがあるだろう」
「知りません。イースラン様から仕掛けてきたのですから、私に怒られても困ります」
こちらも赤い顔で膨れて見せれば、イースランはううっと唸ったあと「そうだな」と納得する。
それから、なが~い息を吐き出し、サンドイッチに手を伸ばした。
「……食事の続きをしよう」
「はい。そうですね」
ちょっと気まずそうに、二人は揃ってサンドイッチを頬張ったのだ。
食べ終えても、まだ少し時間がある。
夜なので本を読むこともできず、正直暇だ。
イースランがたいくつしのぎに話題を振ってきた。
「そういえば、初めにフェンリルが脱走したとき、フィオラはどこにいたんですか?」
聞かれたフィオラは一度目の人生を思い出す。
あのときは植物研究室に在籍していた。ダリオンに婚約破棄されミレッラとダリオンが婚約し、周りから妹を虐めていた悪女だと言われ散々だった。
寮に帰っても寮生からの視線は冷たく、扉に酷いことを書かれた紙が貼られるのはまだましで、直接「悪女」「最低」なんて書かれたこともある。
だから、寮に帰りたくなかった。
「研究室にいました。今回は寮生の皆さんも優しくしてくれるのですが、あのときは悪女だと思われていましたから。寮にいると息が詰まってしまうので、残っていたんです」
「えっ? でも、薬学研究室に残っていたのは、俺だけでしたよ?」
イースランが驚いた声を出す。フィオラは小さく首を振った。
「それは前々回の人生のときですよね?」
フィオラが薬学研究室に在籍していたのは、前々回の人生――三回目の人生だ。
「あのときはフェンリルが脱走するのを知っていましたから、こうして見張っていました」
「フェンリルが脱走するのを知っていた? それはどうして……」
言いかけた言葉をイースランは途中で切る。
どうかしましたかと聞こうとしたフィオラに、しっ、と人差し指を立てた。
「足音がする」
やはりフェンリル脱走には人的要因が関わっていたらしい。
闇に隠れるようにして鉄格子に近付くふたりの影を、フィオラとイースランは息を潜め凝視した。
会話が中途半端に終わりましたが、奴らが来たので仕方ありません。
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