29.学園祭1
イースランと一緒にフェンリルの世話を始めて一ヶ月が過ぎた。
あれから、ほぼ毎日イースランはフェンリルの飼育小屋を訪れ、フィオラと一緒に世話をしている。カイとラブもすっかりイースランに慣れ、容赦なく体当たりしてじゃれるほどになった。
「ふぅ、なかなかうまくいったんじゃないかしら」
畑の隅に建てられた温室で、フィオラは満足そうに額の汗を拭う。
四ヶ月前にイースランに提出した企画書に書いた、ハエトリソウとレジハメンの改良は順調に進んでいる。
フィオラは手にしていたメープルの木の枝をハエトリソウに近づける。
枝は昨日フェンリルと遊ぶときに使ったもので、遠くへ投げ取りに行くを何度も繰り返したから、フェンリルの毛が付き涎が染み込んでいる。
メープルの木の枝がハエトリソウの棘に触れた瞬間、二枚の葉はすばやくガチリと閉じた。その状態で枝を振ってみたが、ハエトリソウは枝を挟んだまま離さない。
そこで両足をふんばり力いっぱい引っ張ったところ、スポンと抜けてしまった。
「もう少し威力が必要ね」
うーんと思案しながら、枝の表面を手で撫でる。
大きな傷はないので、フェンリルを傷つけることはなさそうだ。
今度は指でレジハメンに触れると、高く澄み通った音がリンと響いた。近くだと、ちょっと耳が痛いほどの音量だ。
魔獣生態研究室の建物には多くの研究員がいるが、それより少し離れた場所にあるフェンリルの飼育小屋のあたりは人が少ない。
とはいえ、まったくいないわけではない。
もし万が一、誰かがハエトリソウやレジハメンに気がついて触れたり抜いたりしてはいけないので、どちらもフェンリル脱走の当日に仕掛ける予定だ。
「そのためには、三十鉢ぐらいは育てたいところよね」
おおよその脱走する位置は分かっている。
それでも、その付近一帯に仕掛けようと思えば、それなりの数は必要だ。
まだ少し痛む耳に手を当てながら考えていると、突然背後からイースランがぬっと顔を出した。
「随分と沢山の数を育てるのですね」
「ひゃ、ひゃぁ!!」
いきなり耳元で聞こえた声にフィオラは軽く飛び上がる。
声だけで、振り返らずとも誰がうしろにいるかは分かる。フィオラはさっと距離を取ると、その整った顔を睨み上げた。
「急に現れないでください!」
「すみません。大きな音がしたから気になって来てしまいました。それで、フィオラがいたので、つい」
つい、何だというのだ。
距離感がおかしいだろうとフィオラは目を眇める。
その反応が面白いのか、イースランはクツクツと喉を鳴らして笑った。
「このふたつは、俺が研究室に来てすぐに渡された企画書の植物ですね?」
「そうです。レジハメンは完成しました。ハエトリソウはもう少し改良したいですね。あっ、薬学研究室から依頼のあった植物の改良は先月で終わらせています」
自分の研究ばかりをしていたわけではない。依頼された仕事もきちんとこなしたと主張したが、イースランはそれについては興味なさそうに相槌を打つだけで詳しく聞いてこない。
そのかわり、興味深々と人差し指でレジハメンをつつく。再び大きな音が響いた。
「すごい音ですね」
「これでまだ一分咲きです。十分咲きになれば学園の敷地のどこで鳴っても分かるほどの音量になる予定です」
「それは随分と大きな音ですね。でも、そこまで必要でしょうか?」
イースランに問われ、フィオラは言葉を詰まらせる。
理由はある。
大きな音がすればフェンリルが驚いて動きを止めるかもしれないし、騎士科の生徒が駆け付けてくれる可能性もある。
「防犯のためにも、音は大きいほどいいと思いまして」
耳の痛みに気を取られていたせいだろう、フィオラは深く考えずそのまま答えてしまった。だけれど、イースランは納得したように、顎を引く。
「たしかに女性に不埒なことをしようと企む男も、この音を聞けば逃げそうですね」
「不埒?」
「ええ。だって、一人暮らしの女性の防犯のために作るって言ってましたよね?」
(……!! そうだった)
そんな理由をでっち上げた覚えがある。すっかり忘れていた。
「は、はい。そうなんです」
やや上ずった声で答えれば、イースランは一瞬怪訝そうに眉を寄せたが、納得したようだ。
ほっとしていると、それでとイースランが言葉を続けた。
「それで、フィオラはこの花を学園祭に展示するつもりなのですか?」
えっ? とフィオラは二度瞬きをする。そんなこと考えてもいなかった。
学園祭は主に学生のためのイベントで、学生時代の成果を発表する場だ。
ただ、研究員も希望すれば参加は可能で、回帰のたびにダリアが改良したまどろみ草を展示していた覚えがあった。
「特に考えてはいません」
「そうですか。ハエトリソウはともかく、レジハメンは鉢で育てるのですよね。それなら持ち運びも簡単ですし、ぜひ展示しましょう」
「えっ、私は別にそんなつもりでは……」
「いいではないですか。人気のないマイナー研究室のためだと思って協力してください。日頃の研究の成果を発表しないと、予算もなかなか降りないんですよ」
イースランが深刻そうにため息を洩らす。
「予算?」
「はい。これでも室長なので、予算書を提出したり来期の予算会議に出席しているんですよ?」
そんな仕事があったのか。当たり前といえばそうなのだが、前室長が学園長の友人だったこともあり予算書なんて書いている姿を見たことはなかった。
フィオラの肩に大きな手がポンと置かれた。
「当然、協力してくれますよね?」
(え、ええぇ?)
展示するつもりなんて、これっぽっちもなかった。
だけれど、有無を言わさぬ口調で聞かれたら、否とは言えない。
フェンリルにだけ反応するように作ったハエトリソウを展示するのは抵抗があるが、レジハメンだけなら特に問題ないだろう。
「分かりました。展示用ならひと鉢でいいですよね?」
「ええ、充分です。そうと決まったら、ドレスも用意しなくてはいけませんね」
「はい?」
思わず声がひっくり返った。どうしてそこでドレスが出てくるのか。研究結果を発表する場にドレスは不要だ。
「イースラン様は隣国から来たのでご存知ないと思いますが、学園祭は二部構成となっています。日頃の研究結果が発表されるのは昼の部。ドレスが必要なのは後夜祭で開かれるダンスパーティだけです」
「知っています。そのダンスパーティで文官や騎士が学生をスカウトするのですよね。だから、昼の部に参加した人は必然的にダンスパーティにも出席すると聞きました」
フィオラは小さく頭を振る。やはりイースランは学園祭について詳しくないようだ。
「それは学生の話です、私はスカウトして欲しいと思っていません。ダンスパーティは強制ではないので、出席しません」
「しかし、ダンスパーティでさらに研究結果をアピールすることもできます」
「だから出席しろと?」
「すべては来期の予算のためです」
そうきたか、とフィオラがむっと口を尖らせる。
正論なだけに、拒む言葉が浮かばない。返事に窮していると、イースランがさらに畳かけてきた。
「植物研究室の研究員は三人しかいません。ですから、必ずひとつは発表してもらい、後夜祭のダンスパーティにも出席してもらいます。これは業務命令です」
そう断言されると、頷くしかない。
ただ、問題がひとつ。手持ちのドレスがない。
「ダリアさんにドレスを借りられるかしら?」
ドレスを借してと頼めるぐらい親しいのはダリアだけだ。しかし、小柄なダリアのドレスが入るとは思えなかった。
フィオラがひとりごとのように洩らした言葉を、イースランが素早く拾う。
「ドレスなら俺が用意するので、心配ありません」
「そんな! イースラン様にご用意してもらうのはおかしいです」
「おかしくありません。予算のためにダンスパーティへの出席を頼んだのは俺です。ただ、一からドレスを仕立てるとなると、そう時間はありません。ということで、次の休みに寮の前で待ち合わせということでいいですね?」
「つ、次の?」
次の休みといえば、二日後だ。特に用事はないが、あまりにも急すぎる。
驚くフィオラを横目に、イースランは植物市に行くときに待ち合わせをした門の前を指定すると、「では、俺は会食がありますので」と足早に立ち去っていった。
反論する間もなく、フィオラはただそのうしろ姿を見送る。
前室長より仕事をしてくれるのはありがたいが、どうしてこうなってしまったのだろう。完全にイースランの姿が見えなくなると、フィオラは頭を抱えその場にしゃがみ込んだ。
「ダンスパーティかぁ」
夜会には、嫌な思い出しかない。
だけれど業務命令と言われると、いち研究員としては引き受けるしかないだろう。
フィオラは盛大なため息を吐くと、自分を鼓舞するかのように「やるしかない」と声を出し立ち上がった。
だけれど、その足取りはどこまでも重い。
ここでほぼ折り返しです。6/20ごろ完結予定になります。
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