23.フェンリルの飼育5
なんとしてでも犠牲者を出さない、そう考えていたから、「フェンリル」という言葉が聞こえたとき、うっかり心の声を口にしてしまったのかと焦った。
でもそうではない。声は低く、隣から聞こえる。
「この鐘塔には地下へ続く隠し階段があって、そこにはフェンリルのような魔獣を捉えておけるだけの丈夫な地下牢があるのを知っていますか?」
突然の質問に、フィオラの頭はついていかない。「フェンリル」「地下牢」と言葉をなぞるように唇を動かしたあと、緩慢な仕草で頭を横に振った。
「初めて聞きました」
「知っている人は少ないでしょうね。その昔、この学園が建てられる前、ここは城だったのです」
時代としては、西の空き地に離宮があった頃らしい。城の移転に大きな理由はなく、単なる老朽化が原因だった。
ここから五キロ南に行った場所に新たに王城が作られ、それに伴い離宮も場所を変えた。
唯一、この鐘塔だけが残されたのは、その高さから街のシンボルのようになっていたからだ。
そうして、城の跡地には学園が作られ、空いたスペースに研究所が追加された。
「言われてみれば、鐘塔だけ他の建物より古いように思います」
「修繕は行われていますが、内装は手をつけていないようですね」
どうしてイースランが突然こんな話をしだしたか分からない。
噂で聞いていた鐘塔に入って思い出した程度で、それほど深い理由はないとも考えられるが、それにしては口調が重かった。
フィオラはゆっくりと外回廊を周る。
回帰前、フィオラはいつもここにいた。この場所から卒業パーティが開かれている建物をひとりで眺めていたのだ。
四回目の人生以外、フィオラはフェンリルによって負傷し、手当を受けていた。
フェンリルの爪によってつけられた顔の傷は深く、特に右のこめかみから頬にまで及ぶ傷は跡が残るだけでなく失明の可能性もあると言われた。
喪失感に襲われ鐘塔に来たのだが、もしかしてその時、フェンリルもこの場所にいたかもしれない。
ほぼ半周回ったところで、フィオラは足を止めた。
視界の向こうには、卒業パーティが開かれる建物がある。
過去数回の記憶では、建物からは煌々と灯が漏れていた。
四回目の人生のときもこの場所へ来たのは、もはや習慣のようなものだった。
卒業式前日、記念バッチを学園長に渡したあと、フィオラがいる商隊は学園内にある客室に案内され宿泊した。
卒業式の翌日までの滞在予定だったから、こっそり抜けだしこの場所に来たところ、それまでと同じように胸の痛みと眩暈を感じ回帰したのだ。
黙ったままのフィオラの視線を、イースランが辿る。
「あれが卒業パーティの会場となる建物ですか。俺はここの卒業生ではないので、パーティがどういうものか知りませんが、華やかなのでしょうね」
「そうですね。皆、楽しんだのではないでしょうか」
フィオラの声が沈んでいたからか、イースランが遠慮がちに「どうかしましたか?」と問いかけてくる。
フィオラは苦笑いをしながら、できるだけ明るい声で答えた。
「私はパーティに出席しませんでしたから」
「卒業式なのに、ですか?」
「卒業式は、校舎内にある広間で午前中に行われるんです。でも、両親は出席してくれず、ダリオン様からバッチもいただけませんでした」
「バッチ?」
「卒業式で渡される卒業記念品です。婚約者のいる男子生徒は自分の婚約者に、婚約者のいない男子生徒は想い人にそのバッチを差し出しながら求婚するのがイベントになっているのです。渡すタイミングは卒業式後から、夜に開かれるパーティまでの間が一般的ですね」
バッチには、この国の象徴でもあるグリフィンの瞳と同じ色のルビーの宝石があしらわれている。
ダリオンのバッチを受け取ったのはミレッラだった。
あの時はショックだったけれど、今はもう何も感じない。フィオラにとって、ダリオンとのことは全て終わった過去の話なのだ。
でもそんなフィオラの胸中を知らないイースランは、なんと声をかければよいか窮しているように見えた。
「俺がその場にいたら、間違いなくフィオラにバッチを渡し、つまらない婚約者からかっさらっています」
「ありがとうございます。ついでに、そのつまらない男を殴ってくださいますか?」
「ええ、もちろん。こう見えても実家は武闘派ですから、腕には自信があります」
イースランの実家のカンダル侯爵家といえば、騎士団の団長や副団長も輩出している名家だ。
「では、風魔法も交え、おもいっきりフッとばしてください」
「フェンリルのいる北の林まで飛ばしましょう。あとのことはフェンリルに任せます」
「涎だらけになってもらいますか」
「それはいい。ところでこの匂い、本当に風呂に入っただけでとれますか?」
イースランが服の袖に鼻を近づけて嗅ぐ。
いつもの気取った態度が抜け落ちたその姿は、親しみがもてた。
(思えばこの数時間で、イースラン様のいろんな姿を見れたわ)
胡散臭い笑顔の下は、意外にも親近感が沸くものだった。
しかも、フェンリルと戯れる笑顔は可愛くさえある。
「明日、お薦めの石鹸と洗剤をお持ちしましょう」
「ぜひお願いします。これから毎日こうだと考えると、必要でしょうから」
「毎日?」
「ええ、毎日」
にこりと微笑む顔は、フィオラが良く見知ったものだ。
腹の底で何を考えているのか分からない笑顔に、フィオラはぎゅっと拳を握る。
(可愛いなんてほだされた数秒前の自分を叱責したい!)
それなのに、明日からイースランと一緒にフェンリルの世話をすると考えると、なんだか胸の奥がむずむずとする。
フィオラは無意識に緩む頬を引き締めたのだった
明日からダリオン→セレナ→イースランと視点が変わっていきます。計五話かな。
外枠とそれぞれの立ち位置がこれではっきりするはずです。
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