大切な人
——記憶が、抜けてる。
思い返す。今日、風月堂から出たあと。
タカと別れたあと、車に乗った記憶。
陽翔の声。道中の空。けれど、どこかが曖昧だ。
「……思い出せない……」
呟いたとき、自分の声がこんなにも響くことに驚いた。
誰もいない空間に、自分の言葉だけがぽつんと残る。
こんなことは、分裂してから一度もなかった。
——あの、本屋の女性。
いつも静かに笑っていた。
何かを勧めてくれた。
それが詩集だったか、小説だったかも、今となってはもう曖昧だった。
思い出せるのは、手の甲に触れた紙の感触、
カップの中の温度、
あたたかな空気の揺れ、
そして——そこに誰かが“いた”という確信。
なのに、その顔が、声が、名前が。
何ひとつ浮かんでこない。
「……誰、だったっけ……?」
その一言が口からこぼれた瞬間、喉の奥からえぐるような痛みが込み上げた。
彼女のことを、忘れてはいけない気がした。
忘れたら二度と取り戻せない気がした。
けれど、どうしても“その人”が誰なのか、思い出すことができなかった。
「誰なんだよ……俺、何を……忘れたんだよ……っ!」
鏡の中の自分にそう叫ぶ。
けれど返ってくるのは、沈黙と、目の奥に浮かんだ涙だけだった。
——忘れたくなんて、なかった。
——たったひとり、自分のことを受け入れてくれた“誰か”を。
その喪失が、偶然ではないことも、分かっていた。
あのとき自分とタカが距離を取り、リンクを断った。
その“代償”が、これだとしたら——
「そんなの、酷すぎる……」
どれだけ脳を振っても、戻ってくるものはなかった。
記憶は、そこにない。
自分が、確かに“感じたはずの温度”を、今の自分は知ることができない。
あの人の声も、笑い方も、何より名前を——忘れた。
その事実が、カシを静かに、深く、えぐった。
そこへ、ノックもなく陽翔がそっと入ってきた。
ドアを閉める音すら、空間に吸い込まれて消えた。
「顔色、悪いぞ」
カシは振り返らずに言った。
「俺……誰か、大切な人を……忘れた」
陽翔は一瞬だけ言葉に詰まったが、すぐ静かに頷いた。
「……それは、おそらく距離制限外へ移動したからだ。
距離が離れている間、その記憶はタカの方に割り振られているんだと思う。
だから、今の君には——その記憶がまったく残っていない」
カシの肩が、わずかに震えた。
「……」
涙が出なかった。
誰より深く、壊れたような哀しみが、そこにこもっていた。
—
タカはベッドに座ったまま、ぼんやりと毛布を握っていた。
静かな部屋の中、ドアがノックされる音が響く。
「入るぞ」
如月が入ってきて、タブレットと数枚の紙資料をテーブルに広げた。
「……何か、分かったのか?」
タカの問いに、如月は頷いた。
「陽翔から、さっき連絡があった。……カシが、森田のことを覚えていなかった。
顔や声の記憶も曖昧で、彼自身、何か大切なものを忘れている気がする、と強い不安を抱えていたそうだ」
タカの眉がわずかに動いた。
「……それって……」
「お前たちは今、制限距離外にいる。
その状態では、五感も記憶も感情も、共有は完全に切断される」
如月は説明を続ける。
「君たちの記憶はもともと、脳に50%ずつランダムに割り振られているんだろう。
制限距離内にいるときは“リアルタイムで同期”されるこで、双方が常に100%の記憶を保持している状態になっている。
つまり“共有”されているんだ」
タカは小さく頷く。
「……でも、距離制限外に出ると、そのリアルタイム共有が切れる。
それぞれが、割り振られた50%の記憶しか持てなくなる。
つまり――」
如月が頷く。
「“分裂時にどちら側に割り振られたか”で、その記憶の所在が決まる。
そして、距離が離れている間に得た記憶は、相手には一切届かない。
視界も、声も、手触りも、空気の温度すら。すべて断絶される」
「じゃあ……俺が風月堂で森田と話していた時、カシが森田のこと覚えていなかったのは――」
如月は静かに言った。
「その時間、君だけが風月堂を体験していた。
カシにとって、森田は“初めから存在しなかった”ことになっている。
彼の中には、その出来事は一秒たりとも記録されていない」
タカは沈黙し、握っていた毛布に力が入る。
「……けど……記憶は戻せるんだろ?
リンクを戻せば、俺の記憶はカシにも流れる。
そしたら――」
如月は一拍置いて、慎重に言った。
「“再統合“は行われる。
だが、そのときに精神的拒絶が起こる可能性がある」
「拒絶……?」
「記憶が強すぎる場合だ。
喪失や後悔、トラウマを伴う記憶は、脳が“受け入れると危険”と判断し、 意識にまで上げることを拒む。
結果として、届いているのに思い出せないという状態になる」
タカは息を吐いた。
「……それでも、俺の中には、全部残ってる。
あいつには、それがない。……あの時間が、なかったんだ」
如月はうなずく。
「そして戻れば戻るほど痛いという矛盾が、これから待っている」