曖昧な追憶
翌朝、俺は妙な疲労感とともに目を覚ました。
頭が重いわけでも、身体がだるいわけでもない。
部屋はいつものはずだった。
ベッドの位置、カーテンの隙間から入る朝の光、天井の照明のフレーム、机の上のペン立て。
全部、自分のもの、自分の空間、自分の朝——そう思えるはずなのに、それがどこか借り物みたいに感じられた。
「……変だな」
誰に言うでもなく口に出したその声で、自分の鼓膜が軽く震える。
“自分の声”すら、わずかに他人行儀だった。
昨日のことは覚えている。すべて鮮明に。
書店の名前は風月堂。入り口の引き戸は少し重く、開けたときには微かに鈴の音が鳴った。
階段は三段目だけが少し低くて、その段差に靴が引っかかりかけたのも覚えている。
棚の間で立ち止まったとき、どこか懐かしいような詩集の背表紙に見入った——。
どの記憶にもノイズはなく、確かに“俺のもの”として頭の中に並んでいる。
だというのに、“あのときの俺”が、どうしてもそこに“いた”という実感がなかった。
まるで、昨日の自分をどこか別の場所から覗いていたような。
あるいは、誰かの記憶を借りてなぞっているような、不自然な同一感。
そう感じている自分に、逆に違和感を抱く。
記憶もある、感覚もある、再現もできる。
なのに“なぜか”自分がその記憶に属していない——。
意味のない思考が、脳の内側で何度もぐるぐる回った。
そのとき、スマホが震えた。
ロック画面に表示された名前は、タカ。
《今日、喫茶シュルツに来れるか? 話しておきたいことがある》
それだけだった。妙に整った文面だった。
いつものタカなら、もっと崩した書き方をするはずなのに。
俺は少しだけ画面を見つめ、それからため息をついた。
——ああ、そうか。
昨日、俺は風月堂に行った。
そして、あのあとタカと会って——。
その記憶も、全部“ある”。
だが、その“ある”という確かさが、どうにも信用できないのだった。
⸻
午後、喫茶シュルツ。
ガラス戸を開けて店内に入ると、コーヒーと焦がしキャラメルの香りが混じった空気が流れてきた。
視線を奥に向けると、すぐにタカの姿が見つかった。その向かいに、もうひとり。
如月 理人——間違いない。
大学で何度か見かけたことがある。
講義室の隅でノートも取らずに教授に突っ込みを入れていた、あの風変わりな男。
タカが強く影響を受けた人物。
そして俺の中にも、確かに“記憶として残っている”存在。
「来たか」
タカが手を挙げて言う。如月は何も言わず、目線だけで俺を迎えた。
無精髭に近いあご、整ってるようで歪な眉。
そして、目の奥だけが異様に冷静で——どこか“外側から人間を見ている”ような印象。
「先に全部、話したよ。昨日のことも、風月堂でのすれ違いも」
「君たちのような構造の物体を、僕はまだ研究論文でしか見たことがない。
まさか実物に会えるとは思ってもいなかった」
如月が言ったその言葉には、驚きも興奮もなかった。
ただ淡々と、まるで数式を読み上げるような口調。
俺は席についた。タカはコップの水を一口飲んでから、目だけで如月に合図した。
「昨日、俺は大学の研究所にいた。お前は?」
「風月堂。商店街の奥。普段よりかなり遠くにいたと思う」
「その間、まったく何も見えなかった。お前の視界も、声も、何も。まるで……存在ごと、消えてたみたいだった」
「俺も同じだ。あのとき、“お前がいなかった”としか言いようがない」
如月が水のグラスを持ち上げ、揺らしながら言った。
「おそらく“制限距離”だよ。君たちのような双方向共有型の存在は、ある一定の距離を越えると、情報の伝達機構そのものが遮断されるのかもしれない」
「それはなんの情報が遮断されるんだ?」
「只の憶測でしかないが、おそらく、すべて。記憶の分配も止まる。共有される情報は、物理的に運べないわけじゃない。
ただ、“伝えられるルート”が失われる。だから遮断されるんだろう」
タカと俺は顔を見合わせた。
「それが戻ったとき、昨日の記憶が一気に押し寄せてきた。
風月堂の匂いも、棚の手触りも、昨日は知らなかったはずなのに——」
「遮断中に蓄積された全記憶と感覚が、わずかな時間で脳に同期された。
本来なら一日という長い時間をかけて処理する情報を、数秒で押し込まれたんだ。脳が耐えられるはずがない。
パソコンが”オーバーヒートする”のと同じだ」
「……再発の可能性は?」
如月はゆっくりと、けれどはっきりと答えた。
「高い。
このまま無自覚に距離を離し、再接続すれば、何度でも起こる。繰り返せば、蓄積疲労が起きるだろう」
「記憶の抜けやすれ違いも?」
「いずれは、同期ミスや誤差が出始める。“同じ自分”であることすら、不確かになっていく」
俺は喉の奥がひりつくような不安を覚えた。
「……それ、どうすれば防げる?」
「方法はふたつ。距離を管理するか、“再接続の負荷”を下げる仕組みを見つけるかだ。
ただし、後者は実験と検証が必要だ。現時点では推奨できない」
しばらく沈黙が続いた。
「じゃあ俺たち、これから……」
如月は珍しく、ほんのわずかに微笑んだ。
「壊れない距離を学ぶところから、始めるんだよ。
君たちはまだ、“ふたり”としてさ、未成熟なんだから」
——そのとき、自分の胸に言いようのない重さが残った。