制限距離
午前9時。
俺たちは、はじめて“距離を取る”という選択をした。
理由は単純だった。陽翔に言われた一言。
「お前ら、ちゃんと生活できてるか?」
講義もバイトも、スケジュールも――すべてが“重なって”いた。
自分がどこまでを体験したのか、どこまでが“あっち”の感覚なのか、境界はすでに曖昧だった。
「一日、別々に動いてみようぜ」
その提案に、俺は静かに頷いた。
タカも同時に、無言で頷いたのを感じた。
感情は共有されない。
だが、確かにあいつと同じ気持ちだった。
なんでもいい。何かが変わる予感がした。
⸻
午前10時過ぎ、俺は代々木方面の電車に揺られていた。
車内は混んでいたが、不思議なほど孤独だった。
誰の視線でもない、“もうひとりの視界”が感じられないだけで、こんなにも世界が狭くなる。
周囲の人々の会話やスマホの通知音が、やけに耳に残る。
自分の脳内で反響しているかのように。
目を閉じる。
いつもなら、どこかで“もう一つの景色”が流れ込んでくる――はずだった。
けれど今は、まるでノイズの後の無音。
心臓の鼓動が“自分だけのもの”として響くのを意識した。
——沈黙だった。
静かすぎて、逆に怖い。
「……タカ?」
心の中で呼んでみても、何も返ってこない。
俺だけがここにいる。この視界は、俺だけのものだ。
そんな当たり前が、異常に思えた。
⸻
俺は自室でパソコンを開いていた。
画面には講義の課題フォルダ。だが目は虚空を見つめている。
「来ないな……視界」
声に出すと、ようやくその現実が実感として落ちてくる。
思えば、これまであまりにも自然だった。
ふたつの視界、ふたつの感覚。それらを“自分のもの”として受け止める日常が。
——今、それは完全に途切れていた。
自分しかいない部屋。
感じるのは手元のマグカップの重さと、スピーカーから漏れる環境音のみ。
思考の外側に、カシの気配が存在しない。
それは、空気の密度が変わるほどの違和感だった。
⸻
午後1時すぎ。
俺は代々木の裏路地を彷徨っていた。
この辺はあまり来たことがなかった。
けれどどこかにたどり着く気がして、足の向くまま歩いていた。
ふと、古びた木製の看板が目に入る。
『風月堂』。
妙に引っかかる名前だった。
扉を開けた瞬間、鼻をくすぐったのは紙と木の香り。
空気の温度が外より少し低く、ゆるやかだった。
「こんにちは」
奥から現れたのは、白いニットを羽織った女性――
彼女は少し目を細めて俺を見たあと、こう言った。
「少し前にも、来られてましたよね?」
「いえ、初めてです」
言葉に迷いは無かった。
店内の本棚、並んだ背表紙、紙の匂い。
どれも知らない、指先が勝手に詩集を選んでいく。
でも、ページをめくる感覚が、どこか懐かしかった。
“初めて“だと言う言葉に、彼女は顔を顰めていた。
⸻
俺は駅前の喫茶店で一息ついていた。
コーヒーをすするたび、思考が深くなる。
自分の中にしかないこの感覚。いまや“半分の世界”が、どこにも見当たらない。
スマホを開くと、地図アプリに表示されたとある書店が目に入った。
『風月堂』
その文字を見た瞬間、脳がざわめいた。
行ったこともない場所なのに、景色が浮かぶ。
本棚、木の床、女性の声。
その断片は、まるで夢の続きを思い出したかのようだった。
「……カシが行ってた本屋か」
誰にも聞こえないように呟き、立ち上がる。
足が勝手に、地図の目的地へと向かっていた。
風月堂の扉を開けた瞬間、香りとともに既視感が押し寄せてきた。
「いらっしゃいませ」
そう言った彼女は、微笑んだあとこう続けた。
「今日は2回目ですね」
俺はすぐに察した。
「たぶん、俺じゃない方の“俺”です」
彼女は不思議そうに俺を見ていた。
⸻
夜。
俺たちは駅前で合流した。
再接近のその瞬間、世界がわずかに“揺れた”。
耳鳴り、視界のズレ、息苦しさ。
数秒遅れて、視界の奥に“嵐”のような感覚が押し寄せてきた。
「っ……!」
カシが額を押さえ、タカもまたよろめく。
十数秒。
すべての“共有されなかった記憶“が、洪水のように脳へ流れ込む。
古書の匂い、彼女の声、詩集の感触、すれ違う人々の顔――
“自分の記憶”として脳に焼き付く。
だが、理由はわからない。
「なんで……こんなに、苦しいんだ」
タカが絞り出す。カシは顔をしかめながら、首を横に振った。
ふたりは知った。
この現象は、ただの記憶共有ではない。
負荷がある。制限がある。危険性がある。
けれど、理解するにはまだ遠かった。
——だが、答えが分かる人物がいた。