ラグ
それから三日が経った。
分裂からちょうど一週間。
俺たちは日常を取り戻そうとしたが、実際には、目に見えないひずみがじわじわと生活を蝕んでいた。
感覚の共有は当たり前になりつつある。けれど、すべてが“順調”だったわけではない。
その日の午後、大学キャンパス。
講義が終わったあと、俺――タカは、図書館脇のベンチへ向かった。
そこには、いつも通りの顔があった。
「藤崎さん」
俺が声をかけると、藤崎陽翔は専門書を閉じてこちらを見た。
「よお。……顔、疲れてるな。寝不足?」
「まあ、そうですね。ちょっと変な夢が続いてて」
軽く笑うと、陽翔はベンチの背にもたれながら言った。
「夢っていうかさ、最近――視界が妙に重なったりしてない?」
その言葉に、思わず身体が硬直した。
「……え?」
「たとえばさ。違う場所にいるはずの“もうひとりの自分”の目線が、同時に流れ込んでくるような感じ。
お前、話してるとき、視線がずっとズレてるって言われてるよ」
俺は返事をし損ねた。
陽翔はそれを気にした様子もなく、静かに言葉を続けた。
「でも俺はね、お前が何かを“重ねて”見てるようにしか思えなかった。
目の前の人間と、どこかにいる別の誰かを同時に見てる……そんな目だった」
言葉が、胸の奥に刺さる。
そうだ。俺には、もう一つの視界がある。カシの目線が、常に流れ込んでいる。
俺はスマホを取り出し、カシに通話をかけた。
「……今、少し話せるか?」
⸻
そのころ、代々木駅近くの古い喫茶店の前。
カシは、道端のベンチに腰を下ろしていた。
その直前、彼は突然、ふらつくような軽い頭痛に襲われていた。
「……またか」
ほんの数秒間、目の前の視界が、ぐにゃりと歪んだ。
タカの見ているキャンパスの景色と、自分の周囲が、ずれた立体映像のように重なってしまう。
さっきまでは聴こえていたタカの声が、まるでラジオのチューニングが合っていないように遠ざかっていく。
(距離が……関係してるのか?)
タカとは今、電車で三駅ほど離れている。
その距離になってから、こうした“軽いノイズ”が何度か起きている。
そのとき、スマホが震えた。
《今、少し話せるか?》
カシは頷き、通話をつなぐ。
「さっき……立ちくらみがあった。多分、視界の共有がうまくいかなかったせいだ」
「こっちも。講義中に、文字が一瞬だけダブって見えた。お前の視界が、急に“合成”されたみたいに流れ込んできた」
「やっぱり……距離、かもな」
「それって……俺たちの共有には、“制限”があるってこと?」
「今のところ、そうとしか思えない。明日、陽翔さんに話してみよう」
⸻
翌日、キャンパスの中庭。
タカとカシ、そして陽翔の三人は、周囲の目を避けて静かな場所に腰を下ろしていた。
カシが昨日起きた“頭痛と視界の混濁”について話すと、陽翔はじっと耳を傾けていた。
タカがそれに続いて、自分の体験も詳しく語った。
「視界だけじゃない。音もだ。お前の周囲の音が急に消えたかと思えば、今度はこっちの音が遅れて届く感じ。
共有が、“同時”じゃなくなるんだ」
陽翔は深く息を吐いてから、静かに言った。
「感覚の共有って、まるでWi-Fiだな。距離が離れすぎると、ラグが生まれる」
「……ラグだけならいい。でも、昨日のカシみたいに、身体が拒絶しはじめる」
タカがそう言うと、カシも頷いた。
「視界が重なった瞬間、何が自分で、何が相手なのか、一瞬だけ見失った。あのままだと、混乱で倒れてたかもしれない」
陽翔は腕を組み、空を仰ぐようにして言った。
「つまり、“制限距離”があるってことだな。距離を超えると、感覚が暴走する。
それは……命に関わることかもしれない」
静かに、空気が冷えた。
誰も冗談にはしなかった。
俺たちの共有は、万能ではない。
むしろ、誤れば破滅に繋がるものだった。
そしてこの日、改めて俺は知ったのだった。
俺と俺の存在は、世界にとって不自然で、不安定で、危ういものであると。