記憶力
目覚めてから三日が経った。
いまだに、頭のどこかがぼんやりしている。
現実味が足りないのか、それとも現実が余計すぎるのか。
鏡に映る自分は一人だ。でも、視界のどこかに、いつも“もうひとりの朝”が重なっている。
ベッドから起き上がると、俺の視界には、トーストにバターを塗る手と、カップに注がれるコーヒーの湯気が同時に流れ込んできた。
違う部屋。違う動き。でも、どちらも“俺の感覚”だ。
現実が二重写しになったような日常に、俺たちは少しずつ慣れようとしていた。
慣れようと、していた——ただそれだけだ。慣れたわけじゃない。
「呼び名、そろそろ決めないか?」
声に出した瞬間、もう片方もまったく同じセリフをつぶやいたのが分かった。
声の響きも、テンポも、間も、完全に一致していた。
それが気持ち悪かった。
「えーと……じゃあ、俺が“タカ”で、そっちは……」
「“カシ”。左右の手みたいに分けた方が、なんか都合がいい」
「……賛成」
名前が生まれると、少しだけ距離ができた。
“俺”から“俺たち”への、小さな移行。
日中は別行動をとった。
俺――タカは大学へ行き、カシは街をぶらついた。
不思議なことに、視界はたしかに共有されていても、感情までは混ざらなかった。
カシが駅前の店に入って買ったホットドッグの匂いが、俺の鼻にも届く。
でも「うまい」と思っているのは、カシだけだ。
授業中、教授の説明を聞きながら、カシの歩くリズムが耳元で反響してくる。
ときどき、講義の内容すらかき消してしまうほどだった。
「……ん?」
一瞬、目の前の黒板の文字が、にじんだ。
“カシの視界”が、まるで俺の脳の奥で誤作動を起こしたかのように、差し込んできたのだ。
授業が終わると、人気のない廊下の片隅に座り込んだ。
心臓が早鐘を打つわけじゃない。吐き気があるわけでもない。
でも、“脳”が、自分のものじゃない感覚を、ずっと処理しきれずにいる。
——お前の視界、おかしいぞ。
カシに向けて、心の中でそう呟いた。
その頃、カシは代々木の古書店街を歩いていた。
ふと足を止めて入った小さな店の一角で、背の低い書棚に挟まれるように立ち尽くす。
一冊の詩集を手に取ったとき、妙な違和感に襲われた。
“知っている”はずの文章。なのに、ページをめくる指が一瞬ためらう。
「……これ、なんだっけ……?」
そのあと、すぐに記憶が戻ってくる。
白黒の挿絵。冬の日の図書館。紙の手触り。
タカとして経験したはずの記憶――なのに、ほんの一瞬、それが“抜けていた”感覚があった。
カシはポケットからスマホを取り出すと、画面をタップしながら短く通話を開始した。
タカの声がすぐに返ってくる。
「なあ、タカ。詩集ってさ、俺たち、去年読んだよな?」
カシは書棚の前で本を抱えたまま、小さく眉をひそめながら声を低める。
「……ああ。白秋のやつだろ。なんで?」
スマホの向こうでタカが椅子を引く音がした。話しながら、何かを考えている気配が伝わってくる。
「さっき古書店で手に取った瞬間、一瞬だけ思い出せなかったんだ。
ほんの少しの間だけ、“知らない本”って感覚だった」
カシはその場にしゃがみ込み、両肘を膝に乗せてスマホを見つめる。
声は抑えているが、言葉の端に戸惑いが滲んでいた。
「……それ、怖いな。どのくらいの時間?」
タカの声は少し緊張を含んでいた。
「本を開いて1ページめくるくらいの間だけ。すぐに全部思い出した。
でも、その間はたしかに、“読んでない”って思ってた」
カシは本を閉じ、立ち上がって周囲を見回した。
視線を動かしながら、電話の向こうのタカの呼吸音に耳を澄ます。
「それ、もしかして……あの時、視界がズレたのと関係してるかも」
タカがそう言った時、カシは本をもう一度見つめた。
何かが、脳の中で“噛み合っていない”感覚。
「ズレた?」
彼はゆっくりと書棚に本を戻しながら訊いた。
「俺も今日の授業中にあった。黒板の文字が一瞬ブレた。
カシの視界と俺の視界が、一瞬だけ重ならなかった気がした」
通話の中に、わずかな沈黙が生まれた。
お互いに言葉を選んでいる——そう感じ取れる空気だった。
「……共有って、完璧じゃないのかもな」
カシがぽつりと漏らす。
「何か条件があるんかな……」
タカの声が、少し慎重になる。
「分からない。でも、たぶん何かある」
カシは書店の扉に手をかけながら、空を見上げる。
夕暮れが、ゆっくりと店のガラスに反射していた。
「うん。しばらくは注意してみよう。パターンがあるかもしれない」
会話はそれで終わったが、ふたりの間には共通の“予感”が残っていた。
それが明確になるのは、もう少し先の話になる。