磔侍女は諦めない
古城が一望できる丘の上。磔にされた侍女は、喉元に槍を突きつけられたまま叫ぶ。
「助けは来るわ!! 諦めないで!!」
槍の穂先が、鈍く光った。
◇
ネーモンス子爵家の長女、トリアーナは代々フォンディアット伯爵家に仕える家系である。
父は伯爵補佐、母は伯爵夫人の元侍女で相談役、弟もいずれ伯爵の補佐に就くだろう。
そして、トリアーナも伯爵令嬢マルティナの侍女として働いている。
「トリィ。これは新しい茶葉かしら? とても美味しいわ」
トリアーナとマルティナとは同じ歳で、何をするにも一緒に育った。カップを手にしたまま詰め寄ってくるマルティナに、トリアーナは苦笑しつつ肩を押し返す。
「はい。お気に召されましたか?」
大人しく椅子に座り直したマルティナは、小さく咳払いをしてから、優雅に頷いた。
「ええ。見慣れない物だけれど、交易品かしら?」
「はい。伯爵様が奥様とマルティナ様の為に仕入れた物とのことです」
「まぁ、お父様ったら。大変だったでしょうに」
フォンディアット伯爵領は王都から離れている。王都と地方を結ぶ主要街道からも外れており、流行りの品を手に入れるのは難しい。
今回、トリアーナが淹れた紅茶は、王都に長期滞在することになった伯爵が領地に残る妻と娘のために仕入れたものだ。家族仲が良くて何よりである。
「トリィも後で一緒に飲みましょう」
「流石にそれは……」
幾ら幼馴染とはいえ、今は主人と侍女である。同じ席について貴重なお茶を飲むことはできない。
トリアーナが困惑していると、マルティナは目を潤ませて説得を試みる。
「これは友人としてのお願いよ。午後は休みでしょう?」
「もう、ティナには敵わないわね」
プライベートな時間に、友人同士として楽しむことに何か言えるはずもなく。トリアーナは表情を崩し柔らかく笑った。
「今度は私が淹れるわね。楽しみにして待っていて」
ほら、鐘が鳴ったわよ。昼を告げる鐘の音に、マルティナが早く着替えてくるよう、トリアーナを促した。
小さく頷き、マルティナの部屋を辞そうと扉を開けた、その時。
どん。
大きな音が鳴り、振動が建物を揺らした。少し遅れて、大きな声。内容までは聞き取れない。
「何か変よ」
引き攣った声を上げたマルティナに、トリアーナは静かにするよう手で合図を出した。
マルティナが扉から十分離れていることを確認してから、少しだけ扉を開けて、周囲の音を探る。
「……襲!! 敵襲だ!!」
玄関の方で叫んでいるのは、門の見張り番の男だ。見張りの中でも一番足の早い彼が、城内に知らせに来たのだろう。
トリアーナは廊下に顔を出し、左右を見てからマルティナを振り返る。
マルティナの震える手を取り、そっと引きよせる。怖がらせ過ぎないよう、落ち着いた声で行動を促す。
「マルティナ様、奥様の部屋に参りましょう」
「え、ええ……」
幸い、屋敷の中は変わった様子はない。窓が割れる音もしていないので、城門を越えられたわけではないのだろう。
異変がないか周囲に気をつけながら、マルティナの母、伯爵夫人への部屋へと急ぐ。
いつも以上に長く感じる廊下を過ぎれば、目的の部屋は既に扉が開かれ、他の使用人達も集まってきていた。
「奥様、マルティナ様をお連れしました」
マルティナに先に入ってもらいながら、トリアーナが声を上げる。すると、執事や侍女長に囲まれていた伯爵夫人が此方に近付いてきた。
「マルティナ、トリアーナ、無事でしたか」
「お母様……」
良かった、と互いの無事を喜ぶ親子。トリアーナは合流できたことに一先ず安心しつつ、奥にいる執事に目線を遣った。
「一体、何が起こったのですか?」
「門番によれば、賊が城を囲んでいるようです」
突然現れた賊は、食料や金品を要求してきたらしい。身なりは貧相だったが、持っている武器はそれなりのものだった、と報告が上がっているようだ。
「今は、お父様がいらっしゃらないのに……」
「その隙を狙われたのもしれません」
服装に反してまともな武器を持った賊が、領主である伯爵不在の隙に城を攻めてきた。どう考えても、ただの賊ではないだろう。
これは、想像より深刻な状況かもしれない。トリアーナは、細く息を吐いた。無意識に息を止めていたのだ。
少し落ち着きが戻ってくるが、心臓は未だ早鐘を打っている。
「どうしましょう……」
両手を胸の前で握りしめたまま、マルティナが声を震わせた。今、伯爵夫人と一人娘マルティナの心が折れては全体の士気に関わる。
そう判断したのだろう、執事はいつもと変わらぬ表情で壁の地図を指し示した。
「幸い、この城は水路で囲まれています。橋を下ろさずにいれば、暫く持ち堪えられるでしょう」
この城は古いが、戦を想定して作られた城だ。城壁の周りには水路が張り巡らされており、守りやすい作りになっている。
相手が飛び道具を持っていないのなら、このまま籠城していれば大きな被害はでないだろう。
籠城ができれば、だが。
「食糧の備蓄が少ないわ。周囲の民達も避難して来るでしょうから、長くて5日、保つかどうか……」
「お父様がお戻りになるのは、早くて10日後よ」
そう、フォンディアット伯爵領は貧しくはないが豊かでもない。必要以上の備蓄は用意していないのだ。
賊が城を囲んでいるとなれば、城壁近くの者たちが城の中に避難してくるだろう。彼ら全員を受け入れるとなると、食糧事情は厳しくなる。
しかし、打って出るには危険すぎる。伯爵家の兵は最低限のものだ。やけに装備のいい賊を相手取るには不安がある。
ならば、賊に後ろ盾があったとしても、対応できる力を借りるしかないだろう。
その力の当ては、ある。トリアーナは、喉に力を込めて、声を絞り出した。
「…………私が、隣の侯爵領に助けを求めに行きます」
「トリィ!? 何を言っているの!!」
淑女にあるまじき声を上げるマルティナ。伯爵夫人も目を丸くしている。
トリアーナは深く息を吸って、言葉を続けた。
「このままでは落城します。誰かが、救援を要請しなくてはいけません」
「何も、貴女が行かなくても……」
首を横に振る。城から出るなら、人数は最低限、それこそ一人の方がいい。
そして、一人で抜け出し、助けを求めることができるのは、この中ではトリアーナだけだ。
「私なら、城の隠し通路を知っています。侯爵閣下にも面識がございますので、話を聞いていただけるかと」
侯爵家の次男と、マルティナは婚約している。フォンディアット伯爵家を継ぐマルティナに、あちらの次男が婿入りするのだ。
マルティナの侍女であるトリアーナは、侯爵家に何度も付き添いで言っている。
顔を覚えられているトリアーナであれば、突然の救援要請でも信用して貰えるだろう。
事情がわかれば、侯爵家は兵を動かしてくれるだろう。王国内でも飛び抜けた練度の高さを誇る、『緑の騎士団』を。
「侯爵領まで、およそ一日。今夜、闇に乗じて城を出れば、明日の午後には辿り着けます」
隠し通路を通れば、賊に気付かれず城門の外に出ることができる。夜の間なら通路の場所も見えないだろう。
日が昇るまでに極力離れて、包囲網を突破する。侯爵領との境まで行けば、後は馬車が拾えるはずだ。
「明後日までに戻って来なければ、失敗したと思ってください」
トリアーナの救援要請だけを頼りにする訳にもいかない。もし失敗したなら、即座に次の手を打たなければ全滅してしまう。
「そんな……、他に、何か方法はないの?」
「現時点では、私が行くのが最良です」
不安げな声を出すマルティナ。しかし、トリアーナの意見は変わらない。
断言したトリアーナに、伯爵夫人は溜息を吐いた。
「……トリアーナ」
「はい、奥様」
「貴女に、任せます」
いつもの柔らかな声ではなく、為政者として命ずる声だった。トリアーナは背筋を伸ばし、深く頭を下げる。
「畏まりました」
「早急に支度を整えなさい。門番達は持ち場に戻って、決して賊に気取られぬよう」
それだけ指示を出すと、伯爵夫人は机に座り、書状を書き始める。早速準備を始めようとしたトリアーナは、マルティナに呼び止められた。
「トリィ」
「…………ティナ」
眉尻は下がり、目には薄く幕が張っている。声も震えていて、今にも泣き出してしまいそうだ。
無理もない。マルティナも、トリアーナだって、戦いを身近に感じたことなんてなかった。国境付近では小規模な諍いがあるとは知っていても、どこか現実味のない話だと思っていた。
「ちゃんと、帰ってきてね。まだ、お茶してないんだから」
「ええ。必ず、戻ってくるわ」
友人同士として、主人と侍女として、貴族の一員として。二人が言えるのは、それだけだった。
◇
「帰らなきゃ……」
翌朝、無事城を脱出したトリアーナは、その日の午後には侯爵に『緑の騎士団』の派遣を要請した。隣の領、息子の婿入り先の危機に、侯爵はすぐに許可を出し、その日のうちに騎士団を動かすことを決定した。
侯爵はトリアーナに休むよう伝えたが、援軍のことを一刻も早く伝えるため、トリアーナは騎士団より先にフォンディアット伯爵領に戻ってきていた。
その結果、出発から丸一日で城近くまで戻って来られていた。
「早く、伝えないと……」
『緑の騎士団』の団長は、平民にも関わらず国境での戦いで多大なる戦果を上げ、叙爵されたと言われている。
五年間戦い続けた後、一線を退いたところを巨大な市場を持つ侯爵家が治安維持のため雇ったのだ。
彼が率いる『緑の騎士団』が到着すれば、城の兵のしかも高まる。そうなれば、賊を退けることは容易いだろう。
「まだ、大丈夫なはず」
だが、それは、心が折れていなければの話だ。敵の奇襲や、食糧の枯渇、援軍が来ないかもしれない不安。人間の心は簡単に折れる。
誰かが諦めたら、不安は簡単に伝播する。だから早く、援軍のことを伝えなければならない。重い足を強い意志だけで前に進める。
深く呼吸し、城への隠し通路へ近づこうとした時だった。
がさり、と草の根を踏む音がして、トリアーナは慌てて体勢を低くし息を殺した。
「おい、今日はこの辺まで探すのか?」
「仕方ないだろ、ボスが言ってんだ」
知らない、男の声。歩く度に鳴る金属音。賊の一味だろう。
この辺りは城から少し離れている。何を探しにここまで来ているのか。
嫌な予感がして、トリアーナはいつでも動けるよう、右足を一歩退いた。
「にしても、女しか残ってねえのに時間掛かるな」
「全く動く気配がねぇ」
「面倒だな、門さえ開けばこっちのモンなのによ」
「だから隠し通路探してんだろ。古い城だ。どっかにあるはずだ」
相手の会話を聞き漏らさないよう、意識を集中しながら、そっと後ろへと距離を取る。
「…………通路のことまで知っているなんて」
伯爵の不在、城の隠し通路。どこまで情報が漏れているのか不明な今、トリアーナが見つかるわけにはいかない。
この近くには、賊たちが探している、隠し通路の出入り口があるのだから。
一歩、二歩。相手が会話に集中している間に、静かに、なるべく、距離を取る。
足元にも細心の注意を払って、音を立てないように。気をつけて、いたのだが。
自分以外の存在が立てる音は、どうしようもない。
トリアーナが近付いたことで、警戒した野兎が、がさりと草むらを掻き分け逃げていく。
まずい。少し広めに、一歩遠ざかる。少し音が出てもいい。決して姿を捉えられないように。
「おい、今、何か音したか?」
背筋が強張る。気付かれた。走るべきか。まだ誤魔化せるのか。五月蝿い心臓を押さえつけ、賊の様子を窺う。
「鳥か何かだろ。いいから探せって」
「いや、絶対大きい……」
草むらを掻き分け、賊が、近付いてくる。動けない。動いたら、気付かれる。息を殺していたが、ついに。
目が、あった。
気付かれた。確信すると同時に、走り出す。
「おい、女!!」
音が出ることなんて気にしてられない。逃げ切れるとも思えない。できることは、隠し通路から少しでも離れ、賊の意識を逸らすことだけ。
「捕まえろ!!」
一人は、すぐに走り出し、真っすぐトリアーナを追ってきている。足を踏み出すたびに金属がぶつかりあって音を立て、徐々に距離が縮まっていることを知らせてくる。
もう一人は冷静に他の仲間を呼び、複数の方向から音が聞こえ始めた。
「…………っ速い」
地の利を生かし、木で視界を遮り、右へ左へと走って行く。しかし、体力では敵わないし、数の利もない。捕まるのは時間の問題だ。
来ないで、と叫びたくなる気持ちを抑え、ただただ走る。少しでも、城から離れなくては。そう思っていたのだが、トリアーナの逃走劇は、賊の一人が投げた縄に腕を取られたことで終わった。
「しまっ……」
腕を、予想外の方向に引かれ体勢を崩す。その隙を見逃すような相手ではなく、更に強い力で引かれ、呆気なく地面に倒れ込む。
「おい、ボスに報告!!」
「女一人なら連れて行った方が早い」
「それもそうか」
賊たちは手慣れた様子で、トリアーナを地面に押さえつけたまま縄の準備をする。
既に疲労困憊の体では碌な抵抗もできず、トリアーナは瞬く間に縛り上げられた。
「は、離しなさい!!」
頭では、無駄だと理解している。それでも、文句でも言わなければ、気丈に振舞えない気がして。トリアーナは強気に言い放つ。
「おーおー、随分元気だな」
「まだ怪我させんなよ。色々使い道があるからな」
「わかってるよ」
しかし、戦闘の経験もない、非力な女一人の抵抗を気にするようなことはなく。トリアーナは雑に担がれ、賊たちの拠点へと運ばれたのだった。
「……格好からして、城のメイドってところか?」
拠点の奥、椅子に座った男の前にトリアーナが落とされる。ジロジロと価値を見定めるような視線を感じ、敢えて顔を逸らした。
その態度に賊の男たちが苛立ちを露わにする。
「おい、女」
「ボスが声掛けてんだ。返事しろ」
ドスの効いた声を出す男たちを片手で制した頭目は、椅子から立ち上がりトリアーナの前でしゃがみ込んだ。
そして、トリアーナの顔を覗き込み、予想外に柔らかな声音で問いかける。
「名前は?」
トリアーナは答えない。目を合わすことなく、ただ沈黙を守っている。
「仕事は何をしている?」
「家族はいるのか?」
「領主との面識は?」
どの質問にも答えず、大した反応も返さない。極力平常心を保ち、相手に情報を与えないよう努めている。
「強情だな」
頭目が口元だけで笑い、椅子へと戻る。尚も反応を返さないトリアーナに、見ていた賊の方が焦れてきたようで、拳を体の前で合わせ音を立てながら頭目へ指示を仰ぐ。
「痛めつけますか?」
「いいや。気の強い女は嫌いじゃない」
手っ取り早い暴力と言う手段を却下され、不満を示す手下の男。だからお前らは駄目なんだよ、と頭目は椅子からトリアーナを見下ろした。
「なあ、お嬢ちゃん。取引をしないか?」
取引。その言葉に、トリアーナはその言葉の真偽を図るため、頭目に視線を向けた。
「こっちを見たな」
にやりと、頭目が口の端を歪めたのを見て、トリアーナは少しだけ後悔する。
利用できると判断したのか、頭目は猫撫で声で取引の内容を説明しだす。
「簡単な話だ。お嬢ちゃんは城の関係者だろう? そうじゃなくても、ここの領主一族は人が良いことで有名だ」
ここの領地は飛び抜けて豊かではないが、出て行く人も少ない。それはひとえに、領主一族の人柄によるものだ。
その事実自体は、いいことだ。しかし、頭目がわざわざ口に出したということは、その事実を利用したいということに他ならない。
「そこで、だ。城に向かって、ある事を言ってくれるなら、お嬢ちゃんを解放しよう。勿論、お嬢ちゃんの家族の安全も約束しよう」
やはり。トリアーナは内心溜息を吐いた。ただでさえ人の良い領主一族なら、顔見知りであろう私の言葉で揺さぶりをかけられると言いたいのだろう。
その考えは間違っていない。多分、いや、ほぼ確実に、マルティナは動揺しトリアーナを助けようとする。
しかし、自身の主君を、長年の友人を危険に晒すような真似を、引き受けるはずもなく。トリアーナは努めて平坦な声で、頭目に告げる。
「…………貴方が、その条件を守る保証がありません」
「なかなか冷静だな。そう言われると返す言葉もないが、俺たちは、その気になればいつでもお嬢ちゃんを殺せるんだぜ?」
冗談でない、鋭い視線を向けられ息を飲む。相手のペースに呑まれてはいけない。深く、長く息を吐き、その視線を弾き返す。
大丈夫。まだ、頭目の関心は向けられている。ここで負けた方が危険だ。強気に、冷静に、事実を並べ言葉を続ける。
「条件を満たした私を殺すよりも、城を落とす方に注力することは理解できます。しかし、家族の判断はつかないでしょう」
「まあ、それは否定できないな。とはいえ、俺たちは城を落としたいが、別に城の人間を皆殺しにする気はない」
案の定、頭目は鋭い視線を緩め、楽しそうに口元を歪めた。トリアーナの虚勢を、面白がっているのだ。
「ここまで包囲しておいて、ですか?」
「大々的に囲めば、諦めもつくだろう? 俺たちは伯爵様に用があるだけだからな。余計な恨みは買いたくない」
頭目の話に、矛盾はない。しかし、鵜呑みにできるほどの情報もなく。トリアーナは、少しの間、目を閉じた。
「…………それで、私に、何を言えと?」
小さな声だった。注意を払っていないと、聞き逃しそうな声。だが、頭目は聞き漏らすことなく、トリアーナの質問に答えを返す。
「簡単だ。『援軍は来ない、諦めろ』と言えばいい」
援軍が来ないなら、城の備蓄食糧では持ち堪えられない。この賊たちは、城の状況も、トリアーナが助けを求めに行った先も、理解した上で言っているのだろうか。
もし、全て知った上でのことなら。トリアーナに勝ち目は全くなかった。
「本当に、人は殺さないのね?」
「ああ、欲しいものは別にあるからな。城はただの交渉材料だ」
断ったところで、良くて人質。悪い方向に考えるなら、奴隷として売られるか、この場で殺されるか。そのくらいしか選択肢はないのだ。
ならば、せめて。
「…………わかったわ」
トリアーナが頷けば、頭目は話がわかるじゃねぇか、と愉しそうに目元を細めた。
「おい、お前ら、準備しろ」
その一言で、賊の男たちが慌ただしく動き出す。頭目の手を借り、地面から起き上がったトリアーナは縛られたまま、歩くよう指示される。
「ちょっと我慢してくれよ、お嬢ちゃん」
向かう先は、城の近くだ。トリアーナは、自分にできることをやるだけだと、不自由な手を強く握った。
◇
「ほら、みんな見てるぞ」
頭目が動けないトリアーナに告げる。トリアーナは、城からよく見える場所に十字に組まれた木に括り付けられ、いわゆる磔にされていた。
両脇には頭目と、槍を持った賊の一員。どこからどう見ても、処刑の光景である。
「随分な趣味ね」
まだ日は頂点に達していない。捕えられたのは早朝だったので、準備をしても十分明るい時間なのである。
「よぉく見てもらう必要があるからな」
異様な空気に城の人々も気が付いたのだろう。門からは出ず、しかし弓矢も届かない場所から様子を伺っていた。
報告が届いたのか、フォンディアット伯爵夫人と、マルティナも、衛兵に守られながらトリアーナを見ていた。
「…………ティナ」
トリアーナが他の誰にも聞こえないよう呟くと、目があった。トリィ。そう口が動いた様子を、トリアーナは見逃さなかった。
「わかってるな」
「ええ」
ごめんなさい、と心の中でマルティナに謝罪する。今からすることを、きっと、彼女は赦さないだろうから。
すっと、喉元に槍の刃先を当てられる。冷たい金属が肌に触れると、心臓までも冷えた気がした。
覚悟を決める。腹に力を入れて、真っ直ぐ、マルティナを見る。守りきると、強い意思で、城まで確実に届くように、声を上げる。
「助けは来るわ!! 諦めないで!!」
わあっと、城から上がるのは歓喜の声。届いた。これで士気は落ちない。城を落とすのは不可能に近くなる。
ほっとするのも束の間、隣に立っていた賊の男に殴りつけられた。即座に槍で刺されなかったのは運が良かった。
「この女っ!!」
「あっはっは!! やりやがったな」
反対側に立っていた頭目は、快活に笑う。その様子に逆に賊の男が戸惑っている。
しかし、その目に鋭さがあることを、トリアーナは見逃さなかった。
「ボス。ど、どうします?」
そりゃあ決まってるだろ。頭目は賊の男の頭を小突いた。そんなこともわからないのかと、半ば呆れながら。
「ほんと、主人想いの良い女だよ。……寄越せ」
勿体無いけどな、と渡された槍を何度か回し、トリアーナの喉元に突きつけた。
頭目はニヤリと笑って、低い、しかしどこか柔らかい声でトリアーナに問いかけた。
「覚悟はできてるんだろ?」
トリアーナは答える代わりに、ただ静かに目を閉じた。
一歩分、地面を踏みしめる音。ひゅん、と大きく刃が空を切る音。
「トリィ!!」
マルティナの、甲高い悲鳴。次いで、金属を弾く音と、盛大な舌打ちの音。
「邪魔が入ったか」
思わず目を開け、視線を周囲に巡らせる。私の足元に矢が刺ささり、頭目は槍を別の方向に向けている。
その槍先が示す方向には、緑の旗がたなびいている。あの、旗は。
「ネーモンス嬢!! 無事か!!」
槍を片手に馬で近付いて来ているのは、『緑の騎士団』団長だろう。後ろに矢を構えた騎士も見える。彼の矢で助かったのだろう。
「ボス、まずい!! 『緑の騎士団』だ!!」
「見りゃわかる。が、やけに早いな。仕方ねぇ、撤収だ!!」
賊たちは戦う気はないようで、頭目の一言で一斉に城から離れだす。その間にも凄まじい勢いで一人の騎士は近付いてきて。
「悪いな嬢ちゃん、最後に一仕事してくれよ」
このままでは追いつかれる方が早いと判断したのか、頭目は何故かトリアーナの縄を切り、そのまま体を抱えた。
「え…………」
そら、と若干気の抜けた掛け声と共に、体に襲いかかる浮遊感。投げられた、と回る視界がトリアーナに現状を伝える。
「…………っ」
痛みを覚悟するより前に、トリアーナの体が別の何かに掴まれた。少し、硬いものが当たり痛いが、地面に叩きつけられるよりはマシである。
「な、なにが……」
「ネーモンス嬢、怪我は」
頭のすぐそばから聞こえる、低く落ち着いた声。団長に助けられたのだと、トリアーナが理解するまでそこまで時間は掛からなかった。
「ない、です」
「それは良かった」
とはいえ、トリアーナを助ける間に賊の頭目はかなりの距離を稼いだらしい。既にその後ろ姿はかなり小さくなっている。
「お前たちは賊を追え!! 逃がすな!!」
団長が後ろの騎士たちにそう指示を出せば、騎馬兵たちが一斉に駆け出していく。
トリアーナは団長の腕に抱かれたまま、その様子をじっと見ていた。
「あ、あの」
これで、危機は去ったのだろうか。まだ少し実感がなくて、トリアーナは団長の顔を見上げた。
「……このまま、城までお連れしましょう。今、下手に動くと危険だ」
「ありがとう、ございます」
水路を渡る橋が降りてくる。団長はゆっくりと馬を歩かせ、城が徐々に近付いてくる。
門番が出て来て、団長に頭を下げる。そこまで来て、トリアーナはほっと息を吐く。やっと帰れた。そう思うと、急に体から力が抜けた。
「あっ……」
ぐらりと体が傾いたトリアーナを、団長は片手で落ちないように引き寄せた。しっかり鞍に座りなおらせ、再び馬の足を進める。
「大丈夫か」
「すみません、気が抜けて、力が……」
「あのようなことの直後だ。そうなっても仕方ない」
そもそも、昨日から歩き続けているだろう。団長の言葉には、侯爵の提案を断って一人で戻ったトリアーナはの非難が僅かに含まれていた。
その言葉にトリアーナが言葉を詰まらせる。反省はしているのだ。物凄く。
その反応を見て、団長は次から気をつけてくれと言うに留めた。
「間に合ってよかった」
「本当に、ありがとうございました」
素早く馬から降りた団長は、そっと右手を差し出した。その手を取って、トリアーナも馬から降りる。
「素晴らしい忠義心だ。君を尊敬する」
だが、自分のことも守るべきだと言われ、トリアーナは小さく頷いた。
「さあ。君の主人が待っている」
背を押すように手を離される。団長が横にずれると、視線の先に立っていたのは。
目に涙を貯めた、マルティナだった。
「トリィ!!」
目があった瞬間。人前であることも気にせず、マルティナは勢いよくトリアーナに抱きついた。
「ティナ……!!」
トリアーナには、マルティナを支える力が残っていない。そのまま2人仲良く地面に倒れ込む。
背中が痛いし、圧迫されて苦しいし、ドレスは汚れるし、着込んでいるマルティナは重いが、その重さと温もりに酷く安心して、トリアーナは無言でその背中に手を添えた。
「し、心配、したのよ。ただでさえ、あんな役目、引き受けて。なのに、無理して一人で帰ってきて、あんなことになって……!!」
もっと自分を大事にして、とマルティナは泣き出してしまった。大粒の涙が、地面に落ちてパタパタと軽い音を立てる。
耳元で啜り泣く、震えるマルティナの声に、トリアーナの目頭が急に熱を帯びる。
「ごめんなさい。でも、あの時は、そうするしかないと思って……」
言い訳のように告げた言葉は、マルティナに負けず劣らず、震えていた。
本当は、トリアーナだって怖かったのだ。それでも、自分が行くのが一番だからと、必死に鼓舞して走ったのだ。
そのことを自覚した途端、目から次々涙が溢れ出す。トリアーナは今になって震える体を誤魔化すように、マルティナを強く抱きしめ返した。
「怖かった……」
賊に捕まった時も、頭目と交渉した時も、磔にされて叫んだ時だって、ずっとずっと恐怖と戦っていた。
それでも、主人であり、親友であるマルティナを、守るためだと頑張ったのだ。
「私も、トリィが帰ってこないかもって、ずっと怖かった……!!」
泣き続ける二人の少女は、伯爵夫人が様子を見に来るまで地面に転がったままだった。
◇
あれから半年、トリアーナはマルティナとお茶を飲んでいた。勤務時間内だが、文句を言う者は城には1人もいない。
「今日の茶葉はお父様が新しく仕入れたものよ」
「それは楽しみね」
娘大好きな伯爵は、自身の不在中に領地を守ったトリアーナに大層感謝し、毎日お茶する許可を出したのである。
他の褒美は断ったトリアーナだが、この褒美だけは喜んで受け取った。
それからというもの、このお茶会は2人の日々の楽しみなのだが。ここ数日、少し変わったことがある。
「マルティナ、同席しても良いかい?」
「勿論よ」
「ネーモンス嬢、良ければこれを」
「あ、ありがとうございます、団長様」
マルティナの婚約者である侯爵子息と、護衛である『緑の騎士団』団長が参加するようになったのである。
「あ、じゃあ私は団長様のお茶を準備してくるわ」
「手伝おう」
あからさまに席を外すマルティナ達と、毎日流行りの菓子を持ってくる団長に何も感じないトリアーナではなく。
それでも、口に出して尋ねる勇気はなくて、無言で紅茶を飲むのであった。
史実の好きな人物シリーズ第二弾です。
誰かわかった人がいると嬉しいです。
宜しければ評価を貰えると励みになります。