俺の日常
『キン・コン・カン・こ~ん』
桜も散り切った5月上旬。新学期が始まり一か月、新入生たちがおのずと他の生徒同士がどういった人間なのかを理解し始めた頃、大学に入学した黒木王二18歳は未だに大学になじめずにいた…
教室のほぼ中央に位置する天井に埋め込まれたBOSEのスピーカーから、講義の終了を知らせるチャイムが教室一面に鳴り響く中、一人の青年がいの一番に立ち上がり、そそくさと教室から飛び出そうとしたその時…
「ちょっと待った~」
学生らしき一人の女性が教室から飛び出そうとする青年が背負っていたリュックサックの持ち手を勢いよく掴み掛ると、状況が読み込めていない青年に対してこの女生は、これから自分たちが行おうとしているイベントへの参加の可否についてを青年に問いかけていた。
「ねぇ黒木君!本当に今日の親睦会を兼ねた飲み会参加しないの?」
黒木と呼ばれる青年は、女性からの問いかけに目線を少しずらした状態で申し訳なさそうに自身に課せられた家庭内の問題を同じ大学に通う女性に説明をした。
「内藤さんだっけ?せっかく声をかけてくれたのは嬉しいんだけど、昨日も伝えた通り今日は家の料理当番なんだ…だから、飲み会には参加できないんだ…ごめんよ」
「確か、黒木君って他の兄弟4人と一緒に暮らしてるんだよね?やっぱり他の兄弟の人に料理当番を交代してもらうのは無理だったのかな?」
「うん…ちょうど俺以外にも料理が作れる姉が一人いるんだけど、その姉が社会人なんだ。ちょうど今日、姉は残業で帰りが遅くなるみたいで、料理当番を交代して貰えないんだ…せっかく誘ってくれたのに申し訳ない…」
「そっか…残念…」
常に低姿勢で自身の問いかけに真摯に返答してくれる黒木に対して、急に申し訳なさが押し寄せた内藤は、事情が事情なだけに今回は一旦引き下がることにした。
「ホント、黒木君って兄弟思いなんだね!…私にも兄がいるんだけど、兄が私のために料理を作ってくれた事なんて一度もないよ!黒木君みたいな優しい兄弟がいるなんてうらやましいよ!!」
「…全然兄弟思いなんかじゃないよ!下の兄弟達が不器用すぎるだけなんだよ!本音を言うと、彼らに任せられないだけなんだよ」
「へぇそうなんだ!黒木君も大変なんだね……あっ!?…ごめん!急いでるのに無駄話が過ぎたね!ごめんね!」
教室の隅で黒木を呼び止めていた内藤は、話がひと段落したタイミングで、黒木との会話を終了させ内藤は、時間を気にしている黒木にこれ以上迷惑をかけないように気を配ることにした。
『スタスタスタ……』
軽く会釈をすると、軽やかに教室から飛び出す黒木の姿を眺める内藤は、自身の隣に駆け寄ってきた友達の女性から、謎が多い黒木に対しての新たな情報を入手していた。
「黒木君、飲み会くるって?」
「うんうん…用事があるから来れないってさ…」
「マジか~残念。ところで、王二くんって名前通り爽やかだよね?」
「おうじ?彼の下の名前って王二っていうの?」
「そうそう…彼、ミステリアスだし、もしかして本当に王子様かも」
「そう言われると、そう見えなくないかも…」
「あれ?顔赤くなってるよ?」
「ちょっと~おちょくらないでよ」
『キャッキャキャ』
彼女たちが王二の爽やかさに胸を高鳴らさている一方で、現実に引き戻された王二はというと……
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『ドンガラガッシャん!!』
「いい加減にしろよ!このクソ女!!また俺に因縁つけてきやがって!!」
「はぁ!?意味わかんないんだけど~!?あんたがジュノンが大事にとっておいた【豚シソ】を横取りしたんでしょ!?」
『ドッカン…ガッシャん…ドドド…』
晩御飯の串カツの奪い合いから発展した二人の男女の言い争いは、次第にエスカレートを繰り返し、食卓を囲むテーブルに置いてあった食器や箸を投げ合うまでにヒートアップしていった…
一方、物が飛び交う異様な晩御飯の最中でも、特に慌てることなく食事を続ける青年と少年がこの荒れ狂う食卓の中でも器用に物を避けながら食事を繰り返していた。
そんな怒りと静観が入り混じる混沌とした食卓に身を置いていた青年は、実はこの空気を慣れようと必死に平常心を保とうとしていた…
それは…【黒木王二】その人である!!
(はぁ~また始まったよ…この二人、毎日毎日喧嘩してよく飽きないよな~こっちは喧嘩を宥めるのに心が折れちゃったよ…)
この春から大学一年生になったばかりの黒木王二には、東京の一軒家で一緒に暮らす兄弟が4人いる…
長女【アサガオ 21歳 OL】王二の二つ上の姉である。
次女【ジュノン 17歳 高校二年生】今、食卓で暴れている二人のうちの一人である。
三男【グレン 16歳 高校二年生】普段は優等生だが、一度キレると手におえない…今、食卓で暴れている二人のうちの一人である。
四男【イネイ 13歳 中学二年生】ロシア人とのハーフで日本語が得意ではないので、翻訳機能が搭載しているイヤホンとマスクを常に身に着けている。
王二は、四男のイネイと共に食卓で暴れるジュノンとグレンの素行の悪さを見て見ぬふりをしながら、自身が大学の帰りに立ち寄ったスーパーの総菜コーナーで買ってきた串カツと自身で炊いた白米と手作りのみそ汁を丁寧に咀嚼しながらゆっくりと胃に流し込んでいた。
(みんなと一緒に暮らし始めて一か月…何とか自制心を保つ事は出来ているが、やはり俺の家族は異常だ!この家でのトラブルのほとんどがジュノンとグレンによる喧嘩が発端だ。他の兄弟達もその事に関して何の疑問も持っていないし、止めようともしない…それが当たり前かのように…そう、トラブルを避けるには静観するのが一番の解決策なのだと理解しているのだ…)
(だめだダメだ!俺がこの家にいる意味を思い出せ!俺がこの非常識な兄弟達を救う為にこの家に引っ越してきたんじゃないか!!)
ここ一ヶ月は、習慣の様に自問自答を繰り返す様になっていた王二は、自身に課せられた使命とシイタケの串揚げをじっくりと噛みしめながら5秒ほど喧嘩を繰り返す兄弟達から目を逸らしていた…その時!!共同生活が始まったこの一ヶ月の間で、過去最大の事件が唐突に幕を開けていたのであった…
そして、この事件の終幕は、家庭内のトラブルと無縁だった王二自身に降り注ぐ結果となった…
『どぴゅぴゅぴゅ―――』
『!?!?』
なんと!家族みんなでおいしく召し上がっていた串揚げの【串】の束が三男のグレンの頭皮に鋭角に突き刺さっているではないか!
「う…嘘だろ!?」
王二は、日常では到底あり得ないこの光景に目を疑ってしまったが、この出来事はそれだけにとどまらなかった…
そう…鋭利な串先がグレンの頭皮に深く突き刺さった事によりグレンの柔らかい頭皮が傷つけられ、傷が付けられた頭部から大量の血吹雪が黒木家の食卓を一瞬のうちに深紅に染め上げていたのであった。
(この血吹雪…まるでデスマッチ界のレジェンド、プロレスラーの葛西潤がこの場で興行を行っていたかのようだ…!?…こんな時に何を考えているだ俺!…俺としたことが、家族の心配よりも一時期ハマっていたデスマッチプロレスの事を思い出していた…)
『ピンポーン』
王二が心の中で大喜利を行ってしまっていた時、玄関から誰かの登場を想起させるチャイム音が扉の向こうから鳴り響いていた…
『ガッチャ!』
「ただいま~今帰ったわよ!あぁあ今日も疲れた~…ん!?」
『!?』
「…アサガオ姉さん!?いいところに帰ってきた!一緒にこの状況をどうにかしてくれないか?俺一人じゃこの状況をまとめ上げる自信が無いんだ」
王二に救いの手を差し伸べるかのように、残業から帰ってきた長女のアサガオが、最高のタイミングで血の海と化した食卓に救世主のごとく登場してくれたのであった。
しかし…現実はそう上手くいくものではなかった…そうここは、非常識な人間が集まる【黒木家】であったことを王二は、今まさに思い知らされる事ととなった…
『……ニッタ』
「ちょっと…姉さん?…なにやってんの?一緒にグレンを助けようよ!?」
『カシャ!…カシャ!カッシャ!!』
アサガオは、徐にカバンの中から自身のスマートフォンを取り出すと、わめきながら大量の血吹雪を噴出している弟のグレンの様子をニタニタとほくそ笑みながらスマフォの連射機能を駆使し、苦しむグレンの姿を写真に収めていた。
(忘れていた…この人は社会人ではあるものの、長年に渡り非常識の英才教育を受けてきた【黒木家の長女】だったんだ…)
「いいねぇ!グレン君!いいね~その表情、その悲鳴…まさに地獄だねぇ…へへへぇぇ……」
「姉さん!そんなことはいいから、早く一緒にグレンの止血の手伝ってくれ!」
『…カシャ…カシャ……』
「だめだ…この人、また非常識ハイになってる…」
長女のアサガオは、人が苦しんだり、不幸に陥る瞬間が一番の好物であった…王二の救いの言葉が耳に入らない程にアサガオは、もがき苦しむグレンの姿を余す事なく写真に収めるべく、一心不乱にカメラのシャッターを連射していた。
「はぁ…しょうがない…ここは俺一人で何とかするしかない!」
『スタスタすた……』
「よし!これなら何とかなりそうだ」
『スタスタすた……ピッタ!…』
この場にいる非常識な兄弟達の存在を一旦忘れ、王二は台所に置いてある清潔なタオルで出血を繰り返しているグレンの頭頂部にそのタオルを10秒ほど押し当てた…そして、何とかグレンの出血を食い止めることに成功した。
「あーあ…せっかく、くそグレンが苦しんでいる姿が滑稽で愉快だったのに~ニイニィのバカ!」
グレンの血吹雪事件の主犯格である次女のジュノンの非常識は発言も、今の王二には彼女の皮肉の言葉に対して何の感情も湧かないほど、この混沌した日常に馴染んでしまっていた。
「何とか血が止まってよかったなグレン!…ん?どうしたグレン?やっぱり気持ちが悪いのか?」
『ブツブツブツ…』
先ほどまで自身の頭頂部から大量の血液が体外に放出され錯乱状態に陥っていたグレンは、出血が治った事により冷静さを取り戻したかの様に思えた矢先、俯きながら何やら独り言を繰り返す様になった…
殆ど聞き取れないほどの小さな声で独り言を繰り返すグレンの容態が心配になった王子は、彼に寄り添い、彼が発するメッセージを聞き取るために、彼の口元に自身の耳をそっと近づけ、彼が今感じているストレートな心の声を受け止める事にした…
「ころ…す…殺す…絶対に…殺す」
『!?!?』
「うぉーー!!」
俯いていたグレンは突如起き上がり、自身の頭頂部に大量の串をねじ込んだジュノンに向かって、拳を振り上げ襲い掛かっていた!
「死ねーーくそアマ〜!!」
『!?!?』
「きゃーー」
『ドッカン!!』
『!?』
グレンの強烈なパンチがとある人物の顔面をとらえた…
体重の乗った強烈な一撃をもろに食らったとある人物は、体が宙に浮く程に大きく吹き飛ばされ、家の壁に勢いよくめり込んでしまった……
「…ハッ……嘘だろ…なんでだよ…なんでそんなことするんだよ…兄さん…」
何と、王二はあの一瞬で、いの一番に狙われた次女のジュノンの元へ駆け寄り、自身が身代わりとなりグレンの怒りの一撃をジュノンに身代わりとなって受け止めたのであった!
「ニイニィ~!!」
「王二君!!」
「……」
この場にいた全ての兄弟達は、各々心配そうな面持ちで王子の元へ駆け寄り、壁にめり込んだ王二の安否を気遣った。
王二は薄れゆく意識の中、あの非常識な兄弟達が自分のことを心配し、駆け寄ってきてくれた事に驚きと喜びが入り混じる不思議な感情が自身を駆け巡ったその時…体力の限界が来たのか、王二はゆっくりと意識を失った……
「兄さーーーーーん!!」
― 完全に意識を失ってしまった王二は、深い眠りの中、ふと今年の3月9日の事を思い出していた…
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