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梅雨

作者: 黒森牧夫

 あれは颱風の近い、梅雨の六月のことだったろうか? その日私は何時になく急いでおり、夕方から頭の中に鳴り始めた或る旋律の一節を繰り返し繰り返し口の中で呟いていた。それは以前知人から借りたカセット・テープのお終いに消し忘れて残っていた曲で、パット・ブーンの歌う「追憶」だった。

 Anastasia, whoever you are………その次の一節が唇まで出かかってき乍らも、それ以上はどうしても先へ進めず、私の記憶は傷もののレコードの様に同じところを何時までも繰り返し続けていた。

 歩け。私は惨劇を望み乍らも、疾うに沈んだ夕陽を求めて川縁をひたすら歩いた。いらぬ想念が今夜も私を苛み、私は嗤い出したくなるのを必死の良心で止めていた。視界の端に見える脚。風を待つ樹々。どぶ川。そこに浮かぶ水鳥達。

 形だ、何かしっかりとした形のあることを考えねばならぬ。

 私は美について考えようとした。単純な美だ。炎の美しさ、蝋燭の炎の美しさ、線香花火の火花の美しさ、打ち上げ花火の火花の美しさ、太陽の陽の美しさ、月の光の美しさ、ネオンサインの一定した明かりの美しさ、四元素の一、生命の原理、変わり続けて尚名状し得るもの。この概念は不十分だ、そのことが私を焦燥させた。

 知人の顔が卑賎に見え始める。凶暴さを閉じ込めようとして、今考えていたことを口に出してみる。

 駄目だ、それもこれも、向かいから走って来る男と擦れ違うだけで、皆崩れ去ってしまう。電気の光の中に相手の顔が一瞬ちらつく。自分の顔を見られはしないかと急に歩みが遅くなり、向こうはこちらのことなぞ一向に気に掛けてはいないのだと言い聞かせる。あれが女だったら俺はきっともう立ってはいられないだろう。いや、私の憂鬱は独立を保っていなければならぬ。

 私は道を引き返した。湿った草花の間を足早に通り過ぎる。

 誰もいない公園の緑地が目に入ると、私は急にいたたまれない不安に駆り立てらて、蝕まれた闇は何処に巣喰っているのかと駆け足になった。余り手入れの行き届いていない、直径が五、六人分の背丈位ありそうな土盛りの上に大股で歩み入ると、私は高いビルや人の住んでいる住宅に邪魔されずに切り取られてはいない空を見上げた。

 私の頭上には大風の予感を孕んだ曇り空が広がっている。東京では滅多に見ることの出来ない全方位の風景が、そちこちに眠っていた感覚を呼び醒まし、大気の中に私は拡散する。何と云う陶酔!

 私の見上げた方向には二つの光が茫漠と固まっていた。偶然の気流の具合で雲越しの月の明かりがそんな風に見えるらしい。それはまるで天空に開いた巨大な瞳の様に、恰もこの世界に人格的な比喩で語ることの出来る明確な意志が存在しているかの様にも見える。

 私は瞬間その空想の卑賎さに辟易し乍らも、しかし何か知ら偉大なものに自分も触れることが出来るのではないかと云う期待を完全には捨て切れなかった。夢想が勝利を収める時に自分も参画していたかった。

 余り上等でない嗅覚の片隅に自分の汗の匂いを嗅ぎ取ると、私は足元に濡れる草露の香りを探そうとした。一向に迫力を増してはこない生暖かい風を少しでも躰に感じ取ろうと、力を抜いて背筋を伸ばした。

 巨大な目玉に見えた二つの光は、私から見て斜に構えていた。私はそれに合わせて自分の躰の向きを変え、視線の先を合わせようとする。

 何と態とらしい狂態だ。私はほとほとうんざりし乍ら、芝居がかった身振りで両手を頭上にかざした。大きな頭の遙か彼方に。

 あの奇態な眼球の奥底には誰かのかんばせが待っている、無理矢理そう確信し乍ら、今にも流れ去ってしまいそうでい乍ら尚その位置を変えようとしない雲の裂け目に向かって私は叫んだ。

「おお、大いなる天空よ、振動と燃焼の具現者よ、

 私の前に姿を顕し給え。

 一瞬の持続にうち震える強大な雷よ、自己増殖の源たる冷酷な熱意に燃える風と雨よ、

 貴様等は大地創世の時分から、

 姿を変え、決して同一のものに留まることがないにも関わらず、

 常に存在し続けてきた。

 常に沈黙を守り、微細な変化の奔流の渦の中にあり乍らも、

 全てを産み出し、

 また判別の付かない混沌の領国へと返してきた。

 曾て存在した全ての生命が貴様を目撃し、

 記憶さえまだ生まれておらぬ過去の王国の子等も貴様の罵声にうち震えたと云うのに、

 しかし今その面影はまるでおとなしくなり、見る影の無いかの様だ。

 数瞬後の脅威を底意地悪げに隠してい乍ら、

 遙か追憶の念をこれ見よがしに呼び醒ましておき乍ら、

 貴様と名指し得る同一のものは何故か儚げに移ろうかの様だ。


 だが、私は知っている、貴様のその穏やかさが猫被りだと云うことを、

 私の思考の志向の内にあるものが貴様の手下だと云うことを。

 或る角度の中に貴様は何時だって顕現している、

 何時かあの時、同じものでさえないこの現在、選ばれることの無い分岐点の全て、

 それらは私を取り込んで生成し乍ら持続し続けるのだ。

 私は騙されはしない。私は自己を欺瞞しない。


 唯一言、唯一言さえあれば私は貴様を赦す、

 それが貴様の奸計の一つだと解っていても、それが空しい夢想に過ぎないとしても。

 私はそれで満足しよう、

 その約束が次の瞬間には流れと消え、挫折と後悔が虚無を蝕もうとも、

 壮烈な思い出は慰めとなろう、歴史は中心を持つだろう。

 私は呼びかける、

 貴様の無情な寛大さを頼って、言葉の物理的な変換力に望みを託して、

 私は私の生命を賭して幻想する、

 闇に帰す前に一点の理性を織り上げる為に。


 さあ、遠慮は要らない、答えてくれ、

 私の気が変わる前に、私が気が付く前に、私が私に帰る前に、

 どうか私を連れ去ってくれ、

 私の目が覚めない内に、私が存在し始めない内に、私が尻尾を呑み込まない内に、

 貴様が要求されているのはたった一言、

 内容は何だって構わないのだ、

 一言呟け、轟け、絶叫しろ、

 今だ、この場で私に姿を顕せ!」

 荘厳な沈黙が流れた。

 が、その沈黙は何時まで経っても破られることは無かった。私は当然の結果に失望して恥じるかの様に両腕を下げ、辺りに誰か覗いている者がいないか見回した。誰もいなかった。馬鹿気た芝居は始まりと同じに呆気なく終わったのだ。初めから臨席していた観客がこの芝居の憂鬱を雄弁に物語っていた。

 私は土盛りを降りて丈の高い草を踏みしだき、再び川縁を歩き始めた。全身が煮えくり返る様に強張って足が上がらず、靴を覆う露の湿り気が体内の血管を凍結させてしまった様な感じがする。両手が隠れ場所を求めてポケットに逃げ込む。私はその感触の中に惨めったらしい歓喜が疼いてくるのを見逃さなかった。

 せめて雷鳴でも轟き亘ってくれれば少しは恰好が付くのだが、空は停滞した雲が蠢くばかりで何の音もしない。風の吹く予感が急に沸き上がって頭に血が昇り、凝っと立ち尽くすが、颱風は何時まで経ってもやって来ない。忘れかけた頃に小雨が落ちて来て追い打ちをかける。

 萎えてしまった絶望を抱えて、私は嘲笑うことも出来ずに家路へと急いだ。

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