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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

[短編集]

眠れぬ羊は狼陛下に溺愛される

作者: 水上 いちか

 マイラ・クインズベリー。それがわたし──奴隷の『羊』が、かつて呼ばれていた名前だ。


 サラビア王国の南端に小さな領地を持つ、温和で人の好いクインズベリー伯爵の一人娘として生まれたマイラは、優しい両親と兄に囲まれ、幸せな日々を送っていた。

 けれども五年前──それは脆くも崩れ去る。屋敷に押し入った盗賊団の手によって、父も母も兄も、マイラの目の前で惨殺されてしまったのだ。

 柱時計の中に隠れ、唯一生き延びた十歳のマイラに遺されたものは、父が領地経営のために作った多額の借金と、愛する家族の(むご)たらしい亡骸だけ。借金を背負った孤児を引き取ってくれる親戚などいるはずもなく、あちこちたらい回しにされた挙句、銅貨五枚で奴隷商人に売り渡されてしまう。

 奴隷の『羊』として首に鎖を付け、オークション会場の市場に立つ頃には、マイラの顔から笑みは消え失せ、カナリアのようだった声も失くしていた。

 特技を持たない無愛想なだけの少女に買い手などつくはずもなく、行き先の決まった奴隷が次々に待合室を出て行く中、とうとうマイラひとりだけが残された。


(もしも売れなかったら、きっと森に置き去りにされてしまう)


 タダ飯食らいを置いておくほど奴隷商人は優しくない。金にならない奴隷など、生贄という名目で狼の餌にされるのがオチだ。


(……っ。そんなの、絶対に嫌)


 マイラは思わず神に祈った。


(どうせ贄にされるなら、ただの狼などではなく、グレンヴィル様にこの身を捧げたい……!)


 サラビア王国では神への信仰心が厚く、その象徴である狼への畏怖と怖れの念が古くから国民の間に根付いている。中でも白毛の狼は聖獣とされ、獣人の『白狼』は神と同格であると云われてきた。

 前国王ジョイスの死去により、十九歳で王に即位することとなったサラビアの若き国王、グレンヴィル・オリエ・サラビアは、千年ぶりに王族として生まれた『白狼』である。


(でも……国王陛下が市場なんかにいるわけないし、仮にいたとしても、わたしなどを望まれるはずがない)


 虚しくなり、ため息をついて項垂れる。──と、肩をぽんと叩かれた。


「喜べ、お前に買い手が付いた。しかも落札したのはグレンヴィル様だ」

「!!」

「物好きなことに、『羊』をお召し上がりになりたいらしい」


 奴隷商人がニヤニヤしながらマイラの髪を撫でてくる。普段なら鳥肌ものだが、今のマイラには気にならなかった。

 清々しい思いで、小さな窓の前に立つ。


(主よ、この出会いに感謝します)


 星がまたたき始める空を見上げ、マイラは胸の前で十字を切った。






 ◇ ◇ ◇






 馬車でガタガタと揺られながら深い森の奥へと入り、見えてきたのはかなり大きなお屋敷だった。ぐるりと周囲を囲む古びた塀には、びっしりと蔦が張り付いている。

 錬鉄の門の前で、馬車は停まった。


「ほら、着いたぞ。さっさと降りろ!」


 男に馬車から引き摺り降ろされた少女は、背中を蹴られ、水溜りに倒れ込んだ。


(苦い)


 口に入った泥水を吐き出し、嗚咽を繰り返す。


「ああ、何やってるんだ羊。溢さずにちゃんと飲め」


 男は下卑た笑いを浮かべながら、羊の髪を掴んだ。『やめて』と、叫びたくとも声が出ない。


「何をしている」 


 薄汚れた顔を上げてみれば、一人の男性が立っていた。視界がぼやけ、姿はよく見えないが、白銀の髪と赤く輝く瞳だけは確認できる。


(この方は……!)


 (マイラ)の喉が、こくっと鳴った。


「これはこれは……グレンヴィル様。すいませんね、お見苦しいところを」

「コレは俺が買った羊だろう。ふざけてないでさっさと引き渡せ」


 革袋を男に向かって放り投げ、じゃらりと羊の鎖を引く。


「今日からここがお前の家だ。──ついて来い」




 昼間だというのにその屋敷の中は暗く、薄ら寒い空気が漂っていた。

 ギギ、と軋むドアの蝶番は外れかけ、鍵がきちんと閉まらない。しかしグレンヴィルはさして気にする様子もなく、羊の鎖を引きながら無言ですたすたと歩いて行く。


(他には誰もいないのかしら?)


 これほど大きなお屋敷なのに、未だ一度も使用人の姿を見ていない。

 怪訝に思い、あちこち視線を巡らせていると、突然ぐいと鎖を引かれ、後ろによろけた。


「おっと」


 咄嗟に抱きとめたグレンヴィルに、擦れ声で「すいません」と何とか謝る。──次の瞬間、ふわりと体が浮いた。


「!!」


「お前は足が遅すぎる。このまま部屋へ運んでやるから、大人しくしていろ」 


 事も無げに言われれば黙って頷くしかない。しかし……羊はちらりとグレンヴィルを見た。

 光を織り込んだかのように艶めく白銀の髪。白狼の証たる赤い双眸、整った鼻梁と薄い唇。それらが芸術品の如く配置で形成された顔立ちは、正に人間離れした美形である。


(こんな御方にお姫様抱っこされるなんて、恥ずかし過ぎる……っ)


 赤面した顔を思わず両手で覆ったとたん──鉄の首枷が、ぱきんと砕けた。


「!?」

「やっと邪魔なものを消せた」


 赤い瞳を細め、グレンヴィルが羊の顔を覗き込む。その眼差しはまるで、獲物を狙う肉食獣のようだった。


(肉食……)


 呟く羊の胸に、一抹の不安がよぎる。




「お前、肉がまるでないな」


 寝台に横たわる羊に跨り、細い腰を撫でながらグレンヴィルが顔をしかめる。 


「肌もガサガサしていて手触りが悪い。十五歳ならもっとこう……艶々としているものじゃないのか?」

「……っ」


 不安が的中し、羊はショックで固まっていた。

 三日前、グレンヴィルへの引き渡しを奴隷商人から告げられた羊は、緊張のあまり食事も水も喉を通らず、もともと痩せぎすだった体の肉がさらに削げてしまったのだ。


(不味そうだから返品する、とか言われちゃったらどうしよう)


 狼狽えた羊の、紫色の瞳が揺れる。

 もう奴隷商人の元へは戻りたくない。でも、他に帰れる場所などなかった。


 愛する家族はもう、誰ひとりとしてこの世にはいないのだから。


 何度も自死を考えた。けれどもサラビアの神の教えでは、それは人殺しと同じ罪。犯せば天国にいる家族に二度と会えなくなってしまう。


(せめて白狼の贄になれれば、天国に行けると思ったのに)


 今から頑張って太ります、と宣言したくとも声が出ない。悔しさでつい、乾いた唇を噛む。

 その顔に、ぱさりと毛布が掛けられた。


「……?」

「今日のところはこの部屋で休んでおけ。明日また来る」


 グレンヴィルはそう言い残し、部屋を出て行った。


(もしかして、太らせてから食べることにしたのかしら)


 分からないが、どうやら返品は免れたらしい。

 ホッとして、思わず毛布を抱き締める。柔らかくて、暖かくて……それに、何だかとても懐かしい匂いがした。


(お父様……)


 頭からすっぽり被って目を閉じると、まるで──父に抱き締められているみたいだった。




「医者、ですか?」


 狐目をさらに吊り上げ、使用人のエリッサがグレンヴィルに問い返す。胡散臭い押し売りを追い返すみたいな態度に負けじと、グレンヴィルはしかめ面で応戦した。


「同じことを何度も言わせるな。俺が医者を呼ぶのがそんなに意外か? それとも面倒くさいのか?」

「両方ですわ。

 まず第一に、白狼であるグレンヴィル様は、剣で斬ろうが槍で突こうが決して死なない、医者いらずの体質でしょう。

 第二に、ここは王城嫌いの貴方様たっての希望で移り住んだ、森の奥地の一軒家です。医者どころか辺りには家一軒、猫の子一匹いやしないんですのよ? 一番近いところの診療所でも、馬車で一刻半、そこから歩きで半刻以上もかかるんですから。

しかも獣道」


「それはまた……随分と面倒くさいな」


 グレンヴィルは目をぱちくりとさせた。

 そのまま「うーん」と唸りながら腕を組み、ソファの周りをぐるぐると回り始める。考え事をする時の子どもの頃からの癖だ。

 鬱陶しかったのか、エリッサが大仰にため息をつく。


「これから王城に行かれるのでしょう? だったら王宮の医官をここに呼び寄せれば良いじゃありませんか」

「だめだ。羊の事がアンジーに知れたらまずい」

「ああ確かに。あの宰相様、食器一個壊しただけでもの凄い剣幕ですものね。愛玩用の奴隷に金貨百枚払ったなんて知ったら、頭から湯気を上げて怒るかもしれませんわ」


 ワゴンで紅茶を注ぎながら、エリッサは納得したように頷いた。


「医者は明日、わたしが呼んで参ります」

「悪いが頼む。今日のところは食事だけ運んでやってくれ。それと……風呂も」


 つい語尾を濁すと、紅茶を置いたエリッサが怪訝な顔でこちらを見る。


「グレンヴィル様」

「な、なな、なんだ? 俺はただ、風呂でさっぱりすれば良く眠れるだろうと思っただけだぞ。決して、風呂上りの匂いを嗅ぎたいなーとか、ネグリジェ姿が見たいなーとか、そんな(よこしま)な考えで言った訳ではなく」


「落ち着いてください、狼陛下」


 きゅっと耳を掴まれ、グレンヴィルは閉口した。

 無意識のうちに頭から三角耳が飛び出していたらしい。


「市場で一目惚れした羊ちゃんですもの。どれだけ邪な思いで見ても構いませんが、貴方様は興奮すると耳やら尾やらがすぐ生えてきちゃうんですから、油断しないでくださいませ」


「……っ。うるさい」


 真っ赤になったグレンヴィルは、耳を押さえてそっぽを向いた。悔しいが、一目惚れは否定できない。初めて羊の姿を見た時、興奮のあまり白狼に変化しかけたほどなのだから。

 宝石のように輝く紫色の瞳。憂いを含んだ(かんばせ)は冴え冴えとして美しく、薄く引かれた口紅がよく似合っていた。


 髪や肌に付いた汚れを洗い落として、ボロ布のような衣をドレスに着替えさせたら──この羊は、どれだけ綺麗なお姫様に化けるだろう。


(今すぐにでもあのか細い手を引いて、連れ帰りたい)


 グレンヴィルは、視察で訪れたことも忘れ、気付けば札を上げていた。

 それから今日の日を迎えるまでの一週間、それこそおあずけをくらった犬のような気分で待ちわびていたのだ。


(欲情するなと言うほうが無理な話だ) 


 腰を触ればしっぽの先が顔を出すし、風呂を想像すれば耳くらい出る。年ごろの(オス)としてはごく当たり前の、至って健康的な反応である。

 しかし、あんな痩せた体に下手な手出しはできない。抱き締めただけで壊れてしまいそうだ。医者に診察させるついでに、健康的に太らせる方法を聞いておかなくては。


(次の満月までには何とか……満月!?)


「そういえば今日は満月だったな。エリッサ、例の革紐を取って来てくれ」

「ここに用意してございます。念のため、着替えも持ってお出掛けください」

「ああ。ちゃんとそこのカバンに入れてある」


 グレンヴィルは白銀の髪を後ろで束ね、赤い革紐で固く結んだ。教会の大司教が即位の祝いに贈ってくれた、白狼の力を抑える聖具だ。

 満月の日は白狼の力が強まり、昼間でも人間の姿を保ち辛くなる。生活するだけなら問題ないが、書類の確認や署名など、細かい執務は狼の前足ではかなりやり辛い。


(以前変化した時、面倒になって肉球の印で済まそうとしたら、アンジーに激怒されたからな……思い出して良かった)


 ホッと胸を撫で下ろしつつ玄関へ向かうと、ガラガラと車輪の音が聞こえて来た。


「迎えの馬車が来たようだ。それじゃあエリッサ、羊のことはよろしく頼む」

「行ってらっしゃいませ。……ああそうだ、グレンヴィル様」

「何だ?」

「羊ちゃんの寝巻きなんですけど、どちらのデザインがいいと思います?」


 白いフリルと黒のレースのネグリジェを差し出し、エリッサがしれっと聞いてくる。

 そのとたん、目を見開いたグレンヴィルのお尻からしっぽが勢いよく飛び出し──カバンの着替えを玄関で使うはめになった。






 毛布にくるまったままウトウトしていた羊は、肩をぽんと叩かれ目を開けた。

 紺色のお仕着せ姿の女性が、心配げに覗き込んでいる。


(使用人、ちゃんといたのね)


 何となくホッとして身を起こすと、湯気の立ったスープを目の前に差し出された。


「あたたまるわよ。良かったらどうぞ」


 『ありがとう』と言いかけ、思わず喉に手を伸ばす。──声が、全く出てこない。さっきまでは辛うじて喋れていたのに。


(何とか感謝の気持ちを伝えなきゃ。……そうだ)


 羊は女性の手を取り、手のひらに指先で『ありがとう』とゆっくり書いた。一瞬きょとんとした女性が、ほんの少し眉尻を下げる。


「どういたしまして。わたしの名前はエリッサよ。このお屋敷の家事全般を任されているの。そして……今日からは貴女のお世話係もね」


 エリッサはそう言いながらスープの入ったマグカップを手渡してくれた。


(あたたかい)


「遠慮なくどうぞ。湯浴みの準備もしておいたから、後でゆっくり入るといいわ」


(湯浴み……お風呂?) 


 羊の瞳がキラキラと輝く。奴隷商人の元にいた時は水で濡らしたタオルで体を拭くのが精々だった。まともな風呂など数ヶ月ぶりである。


「そこのドアが浴室よ」


 エリッサに誘われるまま部屋の奥に行き白い扉を開くと、タイル貼りの浴室があった。中央にお湯を張ったバスタブがあり、赤い花びらが入った籠がそばに置かれている。


「この薔薇は王都の花屋から取り寄せたの。とても良い香りでしょう?」

「……」


(もしかして、これは香水代わりなのかしら)


 暗に『お前は臭い』と言われてるのかもしれない。羊の喉がこくんと鳴った。

 浴室の鏡で自分の姿を見てみれば、髪はボサボサ、頰のこけた顔も痩せっぽちの体も、粗末なワンピースも全て薄汚れてしまっている。


 こんなの、白狼どころかきっと犬でも食べたがらない。


(肉はすぐには増やせないけど……せめて匂いくらいは消しておかなくちゃ)


 よく泡立てた石けんをブラシにのせ、念入りに体を洗う。バスタブの湯に肩まで浸かると、羊は薔薇の花びらを首や腕にせっせと擦り付けた。






「今、帰った。羊にちゃんと食事をさせたか? 風呂は? まだ起きているか?」


 ドアを開けるなりまくし立てると、エリッサが一歩後ずさった。


「落ち着いてくださいませグレンヴィル様。さすがのわたしも、そのお姿で身を乗り出されると少しばかり怖いです」

「あ、ああ。……すまん」


 白毛の狼男がぽりぽりと頭をかく。


「ついうっかり、馬車の窓から満月を眺めてしまったんだ。この聖具でも制御しきれなかったらしい」

「遠吠えは大丈夫だったんですか?」

「自分で口を押さえつけて何とか堪えた。あれをすると、国中の狼が集まってきてしまうからな」


 グレンヴィルはあちこち裂けた上着とズボンをエリッサに渡し、大きめのガウンを羽織った。


「羊ちゃん、食事はスープとパンを少しお召し上がりになりました。湯浴みもちゃんと済ませ……たんですけど」

「……けど、何だ?」

「のぼせて浴室で倒れちゃったんです。どうも長湯し過ぎたみたいで」


「ッそれを早く言え! 馬鹿者!!」


 グレンヴィルは応接室を飛び出し、廊下を走り出した。

 つきあたりの羊の部屋の前まで行ってハッとする。どうやら慌てすぎて、四肢で駆けてしまっていたらしい。

 お座りポーズで一瞬固まり──そろそろと立ち上がる。コホンとひとつ咳払いして、グレンヴィルはドアを二回叩扉した。


「……羊、起きてるか?」


 ドアを細く開けて覗いてみると、真っ暗な部屋の中から静かな寝息が聞こえてきた。

 ──が。寝台の上はもぬけの殻だ。夜目のきくグレンヴィルは暗闇の中でキョロキョロと辺りを見回す。


「う……」


 微かに呻く声が三角の耳に届く。

 寝台の下をそろりと覗き込むと、毛布にくるまり、床で寝息をたてる羊の姿があった。


「何でこんなところに……」


 グレンヴィルは手を──いや、前足を伸ばして毛布の端を掴むと、ゆっくり羊を引っ張り出した。頭からすっぽりと毛布を被り、団子虫のように丸まってしまっている。

 もちろん、顔が見えなかろうが丸かろうが、寝台の上にのせるのに問題はない。問題はないが……グレンヴィルは少々面白くなかった。


「主人が帰ったというのに、お前は……起きて待っててくれないばかりか、顔を見せてもくれないのか」


 子どもっぽい言い分なのは分かっている。しかし、だからといって自らを戒められるほど大人でもない。抱き上げた羊を寝台に横たえると、顔にかかった毛布をそっとめくった。


 金色の絹糸のような髪が、さらりと白い肩に流れる。──グレンヴィルの赤い眼が、真ん丸に見開いた。


「……ん……」


 仰向けになったネグリジェ姿の羊が、長い睫毛を震わせ、とろんとした紫色の瞳でグレンヴィルを見る。抜けるような白い肌の面立ちは、奴隷市場で見た時の何十倍も美しい。


(だっ、だめだ。何かだめだっっ! このままここで見ていたら、間違いなく襲ってしまう)


 グレンヴィルはぶわりと広がるしっぽを押さえつつ、寝台から後ずさり、ドアノブに手を掛けた。


「………て」


「え?」

「……けて」

「──羊?」


 そろそろと寝台に戻って覗き込むと、羊の頰に涙が伝っていた。さくらんぼのような唇を僅かに震わせ、白狼の──狼の聴覚でなんとか聞き取れるほどの小さな声を発している。


「たす……けて、誰か」


(ただ悪夢を見ているのか……それとも)


 金で売買される奴隷の素性は明かされない事が多い。どこかの貴族が下賤な女に孕ませた子だとか、平民の妻が不貞の果てに産んだ子だとか、売り手の不都合な事情を世間に知られないために。


 ──そうして、過去と名前を消された奴隷を『羊』と呼ぶ。


「助けて」


 苦しげな息の下から手を必死に伸ばしてくる。一瞬迷って──グレンヴィルはその手を取った。 


「安心しろ。……俺がついてる」


 羊の目がぱちんと開く。

 しかしその紫色の瞳は、グレンヴィルを捉えてはいなかった。涙をいっぱいに溜め、(うつろ)に宙を見つめている。


「ごめ、んなさい……お父様……!」


 ぱたりと手が落ち、閉じた羊の目から涙が溢れた。




 ◇




「患者さんはどちらにいますか?」


 エリッサが半日がかりで連れて来たのは、パトリスという若い医者だった。田舎の診療所の医者にしては礼儀正しく手際もいい。

 羊の部屋でひととおり診察を終えると、疲れた素振りも見せず応接室でグレンヴィルへの説明を始めた。


「命に関わるような病気は特にありません」


 パトリスの言葉に、グレンヴィルは眉根を寄せた。


「……何か、引っかかるものの言い方だな」

「気に触ったのなら申し訳ない。奴隷相手だと、それのみを教えろと言う御方が多いものですから。つい」


 茶色の目を細め、人懐っこい笑みを浮かべる。

 医者というより神父のような柔らかい物腰だ。しかし、どうもいけ好かない。


(こいつを見てると、何故か無性にイライラする)


 白衣にも体にも染み付いてしまっている、()()()()のせいだろうか。


「重度の栄養失調と脱水症状、加えて貧血も起こしてます。──それと、あともうひとつ」

「ま、まだ何かあるのか?」

「筆談で問診したところ、月のものも数ヶ月止まっているらしくて。でも僕、婦人科は専門外なので診断は難しいんです。一過性のものなら特に問題はないが、もしも病気によるものだとしたら……子どもが産めない体になってしまうかもしれません」


 パトリスが一瞬、蔑むような眼差しをグレンヴィルに向ける。


「でも、愛玩用なら必要ない機能ですよね」

「貴様……」

「不快にさせたのなら申し訳ない。不都合な子どもを始末しろと言ってくる御方が多いものですから、つい」


 パトリスが苦笑混じりに言う。その襟首をグレンヴィルが掴み上げた。


「あれは俺の大事な羊だ」


「……っでも、彼女は妻でも恋人でもないんでしょう? 市場で買った、ただの奴隷──」

「それがどうした。愛しい女を大事と思って何が悪い? ぐだぐた言わず、さっさと治療しろ。それが、お前ら医者の仕事だろう!」


 グレンヴィルはパトリスをソファに突き飛ばすと、固めた拳を振り上げた。


「──大事だと言うのなら、今すぐ彼女を王宮の医官に診せてやってください!」


「何!?」 


 下ろしかけた拳をぴたりと止め、グレンヴィルはパトリスを見た。


「貴方様は国王陛下でいらっしゃいます。なのに、どうして王城へ連れて行かないんですか。わざわざ長い時間をかけて、僕みたいな田舎の若い医者をここに引っ張ってきたのは何故です? それは彼女が、貴方にとって外聞が悪い奴隷だからじゃないんですか?」


 気弱そうに見えた若い医者の、揺るぎない眼差しがグレンヴィルを射抜く。


「お前……」


「奴隷の命とは、とても軽いものなんです」


 パトリスは十字架のネックレスを首から外し、握り締めた。


「売れ残った奴隷は森に捨てられ、獣の餌にされることも少なくありません。買い取られたとしても、病気と分かれば見殺しにされてしまう。

 僕は……、僕は。

 医者でありながら、神に患者の救いを任せてばかりいるんです」


(医者のくせに神父まがいの事をやっていたのか) 


 どうりで死臭がするはずだ。ここへ来る前にも誰かを見送って来たのだろう。

 きっと、救えるはずだった『誰か』を。


「……俺に何を望む? 言ってみろ」


 腕組みをしたグレンヴィルの前に、パトリスが平伏する。


「どうか、奴隷制度の見直しをお願いいたします」


「あい分かった。次の王宮会議の議題としよう。……ところでパトリス」

「は、はい」

「お前まさか、羊を(よこしま)な気持ちで見たりしてないだろうな?」 


 据わった目でじろりと睨む。いえいえまさか、めっそうもない、と焦る素振りが余計に怪しい。


「……っ。薬を置いてさっさと帰れ!」


 グレンヴィルは少々八つ当たり気味に叫び、応接室を出た。


(こんなことなら一緒に水浴び、いや、風呂に入っておけば良かった……!)


 頭から耳が出るのもお構いなしに、廊下をずかずかと歩いて行く。

 エリッサを探して台所へ向かうと、ちょうど紅茶を持って出たところに鉢合わせた。


「グレンヴィル様、どこかへ出かけられるんですか?」

「ああ。王城に行って、ちょっとアンジーに説教されてくる。帰りはたぶん遅くなるから、羊のことをよろしく頼む」


 グレンヴィルはそう言って、悪戯っぽく微笑んだ。

 何しろ、金貨百枚分の説教である。


(今日中に終わればいいがな)


 馬を走らせること半刻──白亜の城が遠くに見えて来ると、グレンヴィルは少々憂鬱な思いで呟いた。






 柔らかな毛が頰に触れる。

 医師が処方した薬湯の効果か、羊は夢見心地の状態だった。


(……あったかい) 


 あの毛布と同じ匂いがする。

 また頭から被って寝よう。羊はむくりと起き上がると、白くてふわふわした『それ』を掴んだ。


「ぎゃっ!」


「!!!」


 驚いて手を引っ込めた拍子に、羊は勢いよく寝台の上に転がった。


「だ、大丈夫か?」


 慌てる声に薄暗がりで目を凝らすと、赤い眼がふたつ、光っている。 


(グレンヴィル様!?)


「すまない。しっぽを掴まれたものだからつい、大声を出してしまった」


 寝台の上で胡座をかいた白狼が頭をぽりぽりとかく。羊は目をまばたいた。


(こっ、この体勢は不敬よね)


 ハッとして起き上がり、グレンヴィルの前にちょこんと座る。窓から差し込む月光が、向かい合うふたりを明るく照らし出した。


「この姿は初めて見るだろう。……恐ろしいか?」


 鋭い牙がのぞく大きな口で問いかけてくる。

 羊は迷わず頷いた。サラビア王国に生きる者として、狼は怖れるべき存在なのだから。


「俺の牙と爪は、人の体など簡単に切り裂ける」


 グレンヴィルが白い毛で覆われた手を伸ばし、爪の先を羊の喉に突きつけてくる。


(ああ)


 とうとう、白狼の贄になる時がきたのだ。

 念入りに湯浴みしておいて良かった。羊は目を閉じ、胸の前で両手を組んだ。


(できればひと思いにパクッと。咀嚼は少なめでお願いします……!)


 ぷるぷる震えながら待っていると、頰にひやりとした物体が当たる。


「──だから、お前に俺の爪切り係を頼みたい」


「!?」


 目の前にあったのは、人用の二倍はあろうかという大きさの爪切り(ハサミ)だった。

 爪切り、と口パクした後つい受け取ると、グレンヴィルが赤い眼を細める。


「切り方を教えてやろう。ここにおいで」


 少々戸惑いつつも四つん這いでそばにいき、胡座の上に後ろ向きですとんと座ると、ハサミを持つ右手にグレンヴィルが手を添えた。


「いいか、爪の先だけ切るんだ。あんまり切りすぎると深爪して出血するからな」


(しゅ、出血?)


 羊の背中に冷や汗が流れた。

 白狼に怪我などさせたらきっと、一発で天国行き取り消しである。


「まず俺がやってみるから、よく見ておけ」

「……」


 羊はこくりと頷き──グレンヴィルの爪を挟む、ハサミの刃を凝視した。

 ぱちん、と小気味良い音が部屋に響く。


「大体これくらいだ」


 それは、小指の先ほどの大きさの爪だった。

 これくらいなら、自分の力でも切れる。羊は嬉々としてハサミを受け取ると、さっそく薬指の爪を切り落とした。


(! できた)


 笑顔を輝かせ、振り返る。


「うん、初めてにしては上出来だな。その調子で他の爪も頼む」


 グレンヴィルは満足げに言い、羊の頭を優しく撫でた。






『愛玩用ではなく、使用人として彼女を雇ってください』


 それが、羊の治療に王宮の医局を使う条件として、宰相のアンジーがグレンヴィルに出した条件だった。

 てっきり激昂し、やれ返品しろだのなんだのと騒がれるかと思っていたのに。金貨百枚支払った事を話しても、『そうですか』と妙に淡々としている。

 訝しんで問い詰めると、『陛下が羊を買った事は、市場に同行した側近を通じて把握していました』と至って冷静に返された。金貨十枚で口止めしていた側近が、アンジーの脅しに屈してあっさり白状したらしい。あいつは三ヶ月間の減給決定だ。

 優秀な宰相は秘密裏に羊の調査を行い、彼女の身元はもちろん、奴隷に売り飛ばした人間まで突き止めていた。


『実に信心深い、由緒正しき伯爵家のご令嬢です。奴隷としてそばに置くなど赦されません』


 ですが、とアンジーが続けた言葉に──グレンヴィルは、羊が夜な夜なうなされている原因を初めて知った。


 羊の帰れる場所は、抱きしめてくれる家族はもういない。

 親戚にも見捨てられた、哀れな伯爵令嬢の名を呼ぶ者は、誰一人としていなかったのだ。






(この羊を、神は見失ってしまったのだろうか) 


 グレンヴィルは眠る羊を毛布で包み、そっと抱き寄せた。


「……ごめ…なさ……」


「謝るな。──お前は、咎人などではない」



 神よ。


 あなたがもし、迷える仔羊を救ってくださらないのなら。

 未だ見つけることができないでいるのなら。



(俺が(マイラ)を呼ぶ、ただひとりの主となろう)






 ◇ ◇ ◇






「マイラ」


 いきなり後ろから抱き締められ、マイラは持っていた薔薇を落っことした。


「ああっ。もう……グレンヴィル様、離してくださいませ。床に薔薇が、花瓶が」

「そんなもの、他の者にやらせておけ。お前は俺専属の侍女だろう」


 ひょいと横抱きにされ、諦めたマイラはグレンヴィルの首に腕を回した。

 髪を革紐で縛っている──と、いうことは今夜は満月。


「グレンヴィル様に初めてお会いした日から、もう一か月も経つんですね」

「ああ、今夜はお祝いだ。エリッサが鳥の丸焼きを用意して待ってる。早く帰ろう」


 神と云われている『白狼』はこの世のものと思えないほど美しい。

 この国の希望であり光であり、慈悲深き愛の象徴。


(そして、わたしにとっては唯一の……)


 馬車に乗り込んだマイラは、ちらと向かいのグレンヴィルを覗き見た。


「あの……グレンヴィル様」

「なんだ?」


「本当に、わたしをお召し上がりにはならないんですか?」


 マイラの問いかけに、うんざりしたような顔でグレンヴィルがため息をつく。

 声が戻ってからというもの、毎日同じ事を聞いているのだ。呆れられても仕方ないのかもしれない。


(でっ、でも。たくさん食べて肉も付いたし、お肌だって……ちゃんとお手入れして、綺麗になったはずだもの)


 今なら、グレンヴィルをがっかりさせない自信がある。


「鳥よりわたしのほうが断然、手触り滑らかでふっくらしてます!」

「……。お前はしょっぱい、不味い。ひと齧りするのもごめんだ」


 力説するマイラを、グレンヴィルが半眼で一蹴する。

 頭にきたマイラは膨れっ面で席を立ち、目を丸くするグレンヴィルの隣にすとんと腰を下ろした。


「ただの食わず嫌いじゃないですか! 味見もせずに不味いだなんて酷いです。せめてひと口──」


 シャツにしがみ付いて懇願すると、グレンヴィルの赤い瞳が意地悪くマイラの顔を覗きこみ、その唇を指でなぞる。


「それなら、()()()ここを貰おうか」


「え」



 唇に甘噛みを繰り返す、肉食獣に気圧されて──柵から逃げ出したくなる(マイラ)だった。






最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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