焔の魔狼
逃げて、逃げて、逃げ続けたその先に待っていたのは天災だった。
コード【焔魔狼】。
夜闇のように黒い魔狼。その尾は大蛇。牙の隙間からは炎が零れ、あまりの熱気に空気が揺らいでいる。その姿はまるで、陽炎を纏っているかのようだった。
そして、魔狼の口に咥えられているのは【炎霊魔】だったもの。無残に引き裂かれた体の一部が灰のように散っていっていた。
思わず、笑ってしまいそうになった。
逃げるしかなかった魔物があんな姿になっている。しばらく、炎が飛んでこないと思ったら、まさか【焔魔狼】に喰われていたなんて。
(……ほんと、どうすればいいんだ、これ)
絶望的だった。誰かが助けてくれる期待さえできない。
曜のアリアドネの糸はどこにも繋がっていないのだから。
遭難信号どころか、緊急信号を送ろうと通信の一つも返ってこない。
いったい、外の魔獄はどれほど酷いというのか。通信がいくはずの南校の状況も気がかりだった。
しかし、個人の危険ではなく、日本の首都である天京が危険と判断されたときにのみ許される緊急信号ならば届いてはいるはずだ。
魔獄による通信障害や何らかの理由で受信ができずとも、アリアドネによる通信は各階層の中継器に保存される。
たとえ、各所から遭難信号などが送られて回線がパンクしていようと、緊急信号が保存されていればすぐに確認するはず。
もっとも、この状況では緊急信号が届こうと助けは期待できない。
それ以前に、どんな助けが来れば天災級のイヴィルを倒せるというのか。
「天京中の探索者が来てくれれば……ないか」
ほんの五十メートル先に死神が立っている。
あまりのことに理解が追いつかず、感情が振り切ってしまっていた。
「さてと……どうする?」
なけなしの勇気を振り絞り、曜は【焔魔狼】と目を合わせ続けている。
逸らした瞬間に、襲いかかってきそうで目を離せないのだ。その甲斐あってか、まだ【焔魔狼】に動きはない。
必死になって、曜は頭を回す。
相手は日本のありったけの戦力を灰に変えたイヴィル。
当然ながら戦うなんて選択肢は真っ先に排除した。
ウィザードで引きこもる。
これは時間制限があるから最終手段だ。全方位に壁を作って籠城しようが、出てくるまで待たれては意味がない。やるなら隠れてから、だ。
逃げる。
一番現実的だがこれも難しい。昇降機は【焔魔狼】の後方にある。あれに乗れば一階までいけるだろう。だが、たどりつけるビジョンが見えない。どう考えても、【焔魔狼】に追いつかれる。
結論、どうしようもない。本当に今週の水瓶座の運勢は終わっていた。
お願いだから帰ってくれないか。
もはや、そう願うしかない曜の思いを裏切り、【焔魔狼】は静かに狩りを――否、遊びを始めた。
踏み出した前足から炎が走った。
それを認識した瞬間、曜の視界を爆炎が覆いつくしていた。
「ごほっ、がはっ」
灼熱が曜の身を包み込んだ。
もはや、自身の体がどうなっているのかも分からない。ただ目を閉じて手で口を塞ぎ、この熱から逃れようと無様な姿で転げまわる。
桁違いだった。
規模も速度も【焔魔狼】の炎は【炎霊魔】とのそれとは比べ物にならない。
いざとなれば引きこもればいいと思っていた。
だが、そんな猶予なんて初めから存在していなかった。
戦意も何もかもを焼き尽くす炎。
直撃はしていない、ただ爆風に吹き飛ばされただけ。
それなのに、ウィザードの水晶は輝きを失った。
もう、身を守る力は残っていない。
熱気が肌を焼く。苦しい。でも、今は息を吸えない。肺が焼けるかもしれない。ギリギリで防いだはずなのに、ウィザードの”護符”も残っていたはずなのに、左手が真っ赤に腫れ上がっている。目を開くこともできない。涙が溢れて止まらない。大丈夫か、これ。でも、耳はまだ聞こえ――
――笑ってるような、狼の唸り声が聞こえた気がした。
「あああああっ!」
曜は直感に従い、がむしゃらにウィザードを起動した。
「ぐっ、はっ――」
吹き飛ばされた。
それを理解できたのは自分の背に潰される草木の音が聞こえたから。
体は鉛のように重い。絶望することも、泣き叫ぶ余裕すらないこの危機に全てを諦め、ここで終わっていいとすら考えてしまう。
(馬鹿か……!)
もう、獲物を諦めてくれることを祈って、引きこもるしかない。
力を行使、発現した黒で壁を作ろうとし――涙で歪む視界が赤に染まる。
爆発音と衝撃が荒れ狂う。
地に伏せた曜の頭上を通り過ぎていくそれに今度は耳をやられた。
何も聞こえない。異常なほどの静寂に一瞬、死んだのかとすら思った。
肌を焦がす熱気に立ち上がることができない。
土や砂の匂いに包まれた曜は這いずるようにして、この場を離れようとする。
そんな諦めの悪い獲物に止めを刺すように、空から影が落ちてきていた。
「防げえええっ!」
奇妙にしわがれた声が聞こえた気がした。
涙で霞む視界に漆黒の影が迫りくる。それを阻むように黒い盾が発現し――曜は自分の失敗と幸運に気づいた。
奇妙な浮遊感とジェットコースターに乗ったような圧迫感。
(ふっ飛ばされた……?)
おそらくは【焔魔狼】の前足と曜の盾が衝突した瞬間、吹き飛ばされた。
先程と同じミスだ。【焔魔狼】の足に掬いあげられ、アニメやコミックのワンシーンの如く空を飛んでいる。
(助かっ、た……?)
九死に一生を得た。
それが盾の発現の方法を間違えたからというのは格好がつかないが。
特定の地点に固定する発現。
自身の周囲に浮遊させる発現。
二つの発現の内、曜は無意識に自分を守ろうと、より近い位置に盾がある後者を選択していた。
前者ならば【焔魔狼】の一撃を防げた。
そして、おそらくは追撃の炎を受けていた。そうなれば、熱気だけで死んでいただろう。
後者を誤って選択していたからこそ、曜は【焔魔狼】の膂力を受け止めきれず吹き飛ばされ、結果的に距離を開けることに成功している。
薄っすらと目を開く。まだ視界は霞んでいるが、しっかりと見えている。
そのことに少し、ほっとした。
曜は地上から数十メートルの位置を飛んでいた。
こんな距離まで吹き飛ばすなんてどんな力をしているのか。炎だけでなく、あのイヴィルは全身が凶器に違いない。
(……着地は問題ない)
盾を出せばどうとでもなる。
だからこそ、曜は余裕をもって【焔魔狼】の姿を探すことができた。所々、灰になった森が見え、立ち上っていた黒い霧の柱がなくなったことを確認し、
ありえないはずのその姿を目にした。
「は? あいつ、まさか――」
視界に入った漆黒の魔狼の姿は、曜の僅かばかりの余裕を奪うには十分すぎた。
ぐっと体を沈め、四肢に力を漲らせている。あの姿はどう考えても、
獲物に飛びかかろうとしている姿だ。
「嘘だろ、そこから届くのか!?」
思わず叫んだその疑問に答えるように、【焔魔狼】は宙を駆けた。
瞬きほどの間に、手を伸ばせば届くような距離に魔狼が現れる。
数百メートル近い距離が一瞬にしてゼロになった。理不尽を嘆く暇はない。魔狼の凶悪な爪はすでに振り下されている。
――あ、駄目だ。
「『むら――」
声は最後まで続かなかった。
がぎっ、と金属同士を擦り付けるような音が響き、曜は黒い影となって地上に叩きつけられる。
遠吠えが大気と森を震わす。
それは勝利の咆哮ではない、防いでみせろという追撃の嘲りだ。未だ土煙が舞う大地へ、魔狼は口腔から獄炎を吐き出し――
迷宮地下五階。その一角は、紅蓮に染まった。