万魔殿
迷宮の揺れ。
それが意味していることはたった一つ。
「馬鹿な、『魔獄』だと!」
その叫びは、この場にいる全員の心境そのものだった。
魔獄。別名『パンデモニウム』。
迷宮全体が揺れイヴィルが暴れ出す現象。
かつて、関東全域に迷宮の危険性を知らしめた大災害。この災害は原因は不明だが、時期の予測が可能なことが唯一の救い――だった。
その常識はたった今、覆された。
約一週間ほど前には発生を予測できるはずなのに、曜たちは今日、魔獄が起きることをまったく知らなかった。
天京では予兆が観測された瞬間、各メディアを通じて警戒を呼び掛け、その時期は他県に移動する家庭も珍しくない。まして、迷宮を探索する高校に情報が回ってこないなど、ありえないこと。
「おい、これでかいぞ! 外は大丈夫なのかよ……!」
「やばいやばいやばいですぞ!」
「どうしよう! お母さんたち避難しているかな!?」
これは誰も予測していなかった災害。
つまり、今回の魔獄は完全にイヴィルに不意を突かれることになる。それに思い至ったのか、家族の身を案じ皆は動揺していた。
曜も無意識にポケットからスマホを取り出していた。
隣りの方丈と同じように、避難通知が来ているか、外の様子がどうなっているのか、確かめようと画面を指でなぞる――ここは圏外だというのに。
馬鹿か。さっさと冷静になれ。幾度か深呼吸をし、曜は藤村に視線を向けた。
「藤村、動こう」
「ああ、わかってる。お前ら、外も気になるが一番やばいのは僕たちだ! 急いで昇降機まで戻るぞ!」
そう叫び、藤村は曜たちの背を押すようにして走り出した。
「全力で走れ! 月城、索敵と援護を頼む! 雑魚は放っておけ。源は走ることだけに集中! 翔は道を切り開け! 華、走りながら撃てるな!」
「了解」「りょ、了解ですぞ!」「まかせろ!」「だ、大丈夫!」
「よし、急ぐぞ! 後方は僕が受け持つ」
藤村が指示を飛ばす間も、不穏な沈黙が森に、いや、迷宮全体に広がっていく。
ひりつくような緊張感に嫌でも汗が噴き出てくる。
心臓の鼓動がうるさいのも疲れからじゃない。この嵐の前の静けさが今にも爆発しそうだからだ。
――やばい。これはまずい。
焦る曜は思わず振り返った。
それはきっと、安心したいからだった。
無意識に、曜はこの場の統率者である藤村と話して、この不安を和らげようとしていた。
そして、曜は自分の馬鹿さ加減を思い知った。
「……大丈夫か、これでいけるか。アリアドネで信号は送った、だけど、外は外で手が離せないはず。僕たちの救援が遅くなる可能性がある。自分たちで切り抜けるしかないなら、この面子でどの程度まで相手にできる? 【バフォメット】で、ハザードⅢでまずいなら、ハザードⅣが出たら僕たちは死ぬと思った方がいい。それ以前に物量で押されたらアウトだ。だから、全力で走って足を止めず戦っちゃ駄目だ。遭難信号、状況の確認、あとは何をすれば、何をすれば……皆で無事に――」
そこから先は聞き取れなかった。でも、続きは聞かずとも分かる。
この場で藤村以上に不安を抱えている人間はいない。
僕は班長だ。だから、皆を無事に返さなくてはいけない。僕がしっかりしないといけない。この焦燥に満ちた呟きにはそんな思いが詰まっていた。
「藤村! 大丈夫だ!」
柄にもない大きな声をあげ、藤村の肩を曜は叩いた。
「一階の防衛基地に行けば問題ない! しんがりなら任せろ。離脱も逃走も俺は慣れてる!」
「だ、大丈夫ですぞお! 小生、今回だけは走り切ってみせます!」
「切り込み隊長は俺にまかせておけ!」
「私だって、今日は外さないよ!」
きっと、藤村の呟きは前を走る三人には届いてなかった。
それでも、ずっと一緒にいた班員たちは見透かしたように藤村を励ます。振り返らずに、自分の役目を果たしながら。
――ああ、これは。振り返ってしまう俺とは大違いだ。
奇妙な嬉しさと悔しさが胸にこみあげ、曜の頬が自然と緩んだ。
「……ああ! 当たり前だ! 全員、帰ったら焼肉行くからな!」
「「「それは死亡フラグ!」」」
元に戻った。いつもどおりの空気でD班は森を駆け抜けていく。
そして、何事も無く昇降機が見えてきた。周囲にイヴィルの気配はない。不気味さを感じながらも、声にならない安堵が皆の間に広がるのを感じ、
同時にそんな安堵を叩き壊す、嫌な直感が曜の背筋を震わした。
ずっと独りで潜っていたからだろうか、曜の感覚は鋭い方だ。何より、曜自身が自分の直感を信じていた。
直感に従い右側の森の奥、その暗い影の先に灯る光を見て――
「伏せろっ!」
叫ぶと同時に伏せる。四人は本能に従い、疑念を挟まず伏せてくれた。
でも、これでは足りない――
森の奥から炎弾が飛来したと同時に、黒い暴風が吹き荒れた。
イヴィルが発生する黒い霧が一瞬で迷宮内に満ちて、それは竜巻のように上へ、上へと登っていく。
魔獄が始まった。
あの黒い暴風は今頃、外で吹き荒れイヴィルを生み出していっている。
おそらく、クラスの皆も駆り出される規模だ。
炎弾をしのいだ曜の胸中も不安で吹き荒れていた。
家族は避難しているだろうか? 俺と同じく迷宮に潜る予定があった晴久は大丈夫だろうか?
そして、あいつをどうやって止める?
「月城……なんだそれ?」
呆然といった様子で藤村は曜に問いかける。
その視線の先には、黒があった。
「……手裏剣をでっかくして盾にした。それより、逃げろ」
曜の手の先には十字の黒壁が発現していた。
それが盾となって先の一撃、炎弾を防いでいた。
「嘘……【炎霊魔】」
方丈が震える声でその名を告げる。
ハザードⅣ【炎霊魔】はまるでその声に応えるように、木々を焼き尽くしながら姿を現した。
全身が炎に包まれた黒い影。
体格は二メートルほどと人に近いが、その威容により感じる重圧は並みのイヴィルの遥か上をいく。
肌に感じる熱気が、遭遇したことのない上位のイヴィルに感じる恐怖が、曜たちを本能的に下がらせた。
――これは、篠原先生に怒られるな。
この班の部外者だからこそ、曜はこれからどうするべきか、その最善策が分かってしまった。
そして、その策が担任に怒られるようなことであることも。
「ああ、皆で逃げるぞ……視線を離すなよ。翔、絶対に斬りかかるな。源もあいつに向かってウィザードなんか使うなよ。少しずつ少しずつ下がって、隙を見て一気に逃げ出す……!」
勝てない。
それがわかっているから藤村は全員で逃げようと指示を出す。
だが、今はそれでは足りない。
森には無数の黒い霧が柱のように立ち上っていた。
「藤村、【インプ】の群れだ!」
「ああくそっ! 走れ! 月城、【炎霊魔】がなんかしたら、また防いでくれ!」
「了解。でも――」
前方を塞ぐように黒い霧が押し寄せ、曜の声は遮られる。
「源、頼む!」
黒い霧の正体は【インプ】の群れ。
武器が刀である空木の声に、軽く息を切らしている石居が前に出る。
「うおおお、任されたですなあああああっ!」
野太い雄叫びをトリガーに発現した火炎の放射は黒い霧を押しとどめる。
流石は三組の火力担当が一人。しかし、その火力をもってしても、【炎霊魔】は超えられない。
逃げるしかない。戦っては駄目だ。
それなのに、行く手をイヴィルの群れが阻み、前へと進むことができない。
「左、【バフォメット】二体!」
「華、狙撃で足止め!」
「う、うん!」
もう数えるのも億劫なほど、無数のイヴィルが現れ始めていた。
素早く周囲を見回すも、もはや報告しきれない数だ。
「前方【インプ】の群れ。左手【バフォメット】が二体、右手【グレムリン】に【ヘルハウンド】、後方に【炎霊魔】。後方はまだ動きが無い! それ以外は戦闘態勢だ!」
「くそ、これしかないっ! 【インプ】の群れを突っ切るぞ! 源はウィザード、華は近づくイヴィルの足止め。皆、爆弾を用意しておけ! 合図と一緒――」
曜が伝えた情報を元に、藤村は素早く指示を飛ばしていく。
しかし、ついに【炎霊魔】が動き始めた。
「くる! 右に飛べ!」
熱線が奔った。
余裕を持って避けたというのに、肌に触れる空気に熱を感じる。
戦意を蒸発させるような一撃。
だが、この一撃は待ちに待ったチャンスでもあった。
前方の【インプ】の群れが燃え散った。それ以外のイヴィルの群れも格の差を叩きつける一撃に怯み、動きを止めている。
もう逃げるチャンスは今しかない――
「藤村、逃げろ! 俺が足止めをする! 危なくなっても、俺はウィザードで壁を作って引きこもれる。通信が切れていても、先生と話して、一日以内に迎えをよこしてくれ」
「馬鹿、危険すぎる! 置いていけるわけないだろ!」
「ああ、そう言うと思った!」
藤村を引っ張り、走り始める。他の班員も藤村が走ればついてくる。
一瞬たりとも無駄にはできない。すでにイヴィルの群れは迫り始め、【炎霊魔】もいつ攻撃してくるか分からない。
「冷静になれ班長! このまま、昇降機に行ったところで上に戻れるわけがない。他はともかく、【炎霊魔】は駄目だ。昇降機のワイヤーが切られる!」
「わかってる! だから、マニュアルどおりこの階のセーフティポイントに――」
セーフティポイント。主に各階昇降機付近に設置された地下防衛施設。
だが、この状況であれは役に立たない。
「魔獄だぞ。あんな簡易の安全地帯なんてすぐに壊される。そもそも、あの施設はイヴィルに気づかれていないことが前提だ」
「月城氏! それでも無謀ですな!」
「そうだよ。昇降機に乗って、皆で逃げよう!」
曜の無謀な意見に三人が反対する中、空木だけは顔を歪め、悩んでた。
そう、空木はわかっている。そして、本当は藤村だってわかっているはずだ。
(悪い、藤村……)
心の中で謝る。もう時間がない。昇降機の前で言い争っている暇なんてない。
だから、一番手っ取り早くて、一番性格が悪い方法を曜は取った。
「藤村、選べ。班員の命か。たまたま入ったサポートの命か」
時間が止まったように藤村の表情が凍りついた。
血の気が引いた蒼白な顔。その縋るような目に映る曜の表情は驚くほど冷たいものだった。
(……ほんと、ごめんな)
藤村さえ説得できたなら、他の班員も逃げてくれる。
だけど、藤村を説得できなければ多分、皆ここでイヴィルに飲まれる。
いつ来るかわからない救助をずっと待つことになる。だから、
「『班長は』?」
頭をかきむしり、苦悩に表情を歪め、涙を零し――藤村湊は決断した。
「あ……ああああっ! くそっ! くそったれ! 『班長はいかなる状況でも自分と班員の命を第一に考えるべし』だろ! 月城おおおおおっ!」
胸を引き裂くような叫びだった。
苦悩に震え、涙に濡れ、それでも弱さを感じない、強い声だった。
振り返り、曜はその一歩を踏み出す。
その先は今日一日を共にした仲間とは逆の方向。
「任せたっ! 死ぬな、絶対に死ぬなよ! 必ず皆を連れて助けに戻ってくる!」
「ああ、待ってる!」
飲まれていく。
炎に、煩わしい羽音に、獣の遠吠えに。
曜を鼓舞する空木の声が、声にならない叫びをあげ走る石居の声が、方丈の泣き声が、藤村の自身を責める声が遠ざかっていく。
「大丈夫だ! またな!」
ああ、この声は震えていないだろうか。
この言葉は強く聞こえただろうか。
大丈夫だから。生きて戻れる勝算はあるから。本当はもっと話して、あんな風に別れたくなかった。
震える体を押しとどめながら、曜はイヴィルの大群と衝突し――孤独な逃走劇は始まった。
そして今。
月城曜の前に天災――【焔魔狼】が現れ、逃走劇は幕を下ろそうとしていた。