架かる月
痛いほどの風。眼下の魔狼が点となっているほどの高度。
頼りの命綱は少女の細腕だけ。
麻痺していた恐怖心が別角度で襲ってくる。
背後から自分を抱きしめる少女に、曜は届かぬ言葉で叫んだ。
「ほんと、何でイデアがここにいる!?」
「――!」
「うん、わからない! 晴久、避難させたんじゃないのか? 加賀さん、日下さん!」
叫べども返答はない。
イデアの飛行速度についてこれなかったのか、肩のあたりに浮かんでいたはずのアリアドネがどこにもなかった。
「――?」
「わからないって! あーもう、なんで逃げてないんだよ! あんな速度で突っ込んできたら止められないだろ……」
力が抜けた声とため息ばかりが零れていく。
止めたくとも、止められなかった。
イデアが飛んできたことに気づいても、曜には止める手段がなかった。
壁で止めてしまえば、イデアが潰れたトマトのようになってしまう。
結局、叫ぶよりも先に空へと連れ去られていた。
この神器が切れかけだったのが不幸中の幸い。
大地と固定されたままだったら、目も当てられない結果になっていた。
「とりあえず、か、帰ろ……う?」
振り向けば、すぐ近くにイデアの顔があった。
夜空のような目がじっと曜の目を覗きこむ。異性が近くにいる緊張か、赤くなった顔を見られたくないからか、そっと曜は視線を逸らす。
「――」
すぐに視線は戻された。
頬に触れる温かい手は曜が逃げることを許さない。
気まずいままイデアと目を合わせ続ける少年はやがて、少女の目に宿るその感情に気がついた。
「もしかして……怒ってる?」
目は口程に物を言うとは、誰の言葉だろう。
今なら、曜は誰かがそう言った気持ちがよくわかった気がした。
イデアの目には、表情には、静かな怒りがあった。
「何で怒るんだよ」
わからない。その感情に共感できない。
時間にして一日すら一緒にいなかった関係だ。
言葉も通じず、理解もできない未知の”人”。
それはどちらも同じはず。だから、彼女が命を懸けてまで自分を助けたいと思っているなんて曜には思えない。
だが、曜には彼女を助ける理由がある。
彼女に命を助けてもらった。
それに、迷宮で見つけた初の未知への手掛かりということも理由の一つにはなるだろう。
だから、こんな危険なところに来てもらっては困るのだ。
「――!」
「痛いっ!」
浮かべた反感。
あるいは苛立ちの感情に気づいたのか、イデアが頭突きをしてきた。
「――、――――ヨウ、――!」
「長くなると余計分からないって」
「~~!」
「あー、もう!」
頭突きをしかえし、曜は気恥ずかしさも忘れ、彼女の目を覗きこんだ。
「帰れ! 死なれたら困る!」
「~~、――! ――、――――! ――!」
何かを伝えるように彼女は声を上げる。
その歌のような声にどんな意味がこめられているのかはわからない。
だけど、譲れない”熱”が込められていることだけは理解できた。
「……はあ、ほんと何もかもうまくいかないな」
きっと。
月城曜がイデアを助けたいように、イデアにも月城曜を助けたい理由があるのだろう。
そう、曜は勝手に思うことにした。
それに、もう遅かった。
「イデア、くる」
「――!」
見下ろした先、遥か下方。
空気を焦がしながら迫る火焔に気づいたイデアが黒い翼を広げた。
飛べるのはイデアだけではない。【焔魔狼】は上空へと逃げた獲物を追い、空を駆ける。
しつこい。執念深いにも程がある。
しかし、今だけはそれがありがたかった。
――解除、っと。
地上の”朔”を解く。これで皆も自由だ。
あとは、この天災のイヴィルをどうにかすればいい。
いいのだが……速すぎて手が出せない。
内臓がシェイクされるような飛行。風を切る音がひたすらにうるさく、あまりの風圧に目もろくに開けていられない。
この飛行速度が果たしてどれくらいなのか、考えることすら恐ろしい。とりあえず、ジェットコースターや迷宮の昇降機とは比べ物にならなかった。
周囲の”朔”がなくなっても気配がわかるのが唯一の救い。
曜は刻一刻と酷くなっていく酔いと戦いながら、戦況の把握に努めていた。
赤い流星と黒い流星の追いかけっこ。
外は夕暮れが近づいたのか、日が傾き茜が混じり始めた迷宮の空に二色の軌跡が描かれていく。
単純な飛行速度は僅かに【焔魔狼】に分がある。
だけど、飛行性能はイデアが勝っている。上昇、旋回、降下を繰り返し、背後の炎を近づけさせない。
それが気に食わないのか、魔狼が纏う炎は紅蓮を深めていく。
「――!」
炎が爆ぜる。槍で貫くような【焔魔狼】の急加速。
一直線に迫る炎の突進をイデアは急降下で躱す。
だが、振り切ることはできない。
イデアの道を塞ぐように【焔魔狼】の炎が放たれていた。
この獲物には簡単に追いつけないことを理解したのだろう。
炎による攻撃をばら撒きながら、魔狼は逃げる獲物を追い続ける。
天より轟く遠吠えとともに炎弾が降り注ぐ。
見上げるそれは、もはや隕石の雨としか認識できない。
反射的に曜は防壁の準備をするが、その必要はなかった。
大地に近づき障害物が増えようと、上という地の利ならぬ空の利を取られようと、イデアの翼は捉えられない。
眼前に広がる無数の木々を、降り注ぐ火をイデアは縫うように躱していく。
緑、赤、緑、赤。曜の視界を埋め尽くす色が高速で切り替わっていく。
そして、葉擦れの音も灼ける音も置き去りに、イデアは空へと舞い上がった。
イデアが上昇し、空へと戻ったのは上空の方が有利という理由だけではない。
薄っすらと目を開けていた曜にもその理由は見えていた。
「イデア!」
声は風に攫われ意味はない。
わかってほしいのは人差し指だけを伸ばしたこの手の意味だ。
これまでも、こうやって何度か指で方向を示している。だから、声も言葉の意味も届かずとも、これならイデアに通じるはず。
「――!」
耳元に返ってきた声。
そして、曜が指した方へとイデアは加速した。
「よし、ならあとは!」
朧げにしか掴めずとも、間違うことは決してない気配の群れ。
その場所からよく見えるように、曜は大きな壁を空へ浮かべた。
長方形を交差させたバツ印を。
「ふう……」
深呼吸を一つ。
やることは全てやった。
気合は十分。知恵も絞った。運の風向きも大変良好。
それでも、一つだけ不安が残っていた。
この少女が最後までついてきてくれるか。
これは退けない戦いだ。
しかし、この戦いに自分たちの命だけでなく、都市の存亡すらかかっていることをイデアは知らない。
そんな彼女がイデアが命を懸けて戦ってくれるか。自分を信じてくれるか。
それが最後に残った不安だった。
確認する術を持っていない。
ここで離してくれなんて言葉は届かない。
覚悟はただ、行動によってのみ示される。
せめて、自信がある姿を、と曜は真っ直ぐに進むべき道を示した。
方向転換。
数秒で空に浮かべたバツ印へと曜たちはたどり着く。
「上に行って――」
指を空に、バツ印の遥か上へ。
真下から追う炎をその目に捉えた曜は振り返った。
「イデア、信じてくれ」
彼女がしたように、曜も意思をその目に、真っ直ぐに彼女の目を覗きこむ。
そして、指を真下に――【焔魔狼】の方へと向けた。
イデアの目が見開かれる。
彼女にとってそれは死にに行けと言われたことと同義だ。
それでも、イデアは心底嬉しそうに微笑み、何かに安堵したように息を吐いた。
「ええ、まじで……」
自分が指示したことだけど、やっぱりわからない。
もしかして、彼女はアマゾネスみたいな好戦的な種族なのだろうか。そうだとしたら、馬場たちの班と気があうかもしれない。
ちょっとだけ彼女がいる日常を想像し、降下とともに曜は神器を発現させた。
黒壁を前面に、曜とイデアは天災の炎に向かって落ちていく。
そして――
黒と赤が衝突した。
拮抗。上にはゆけぬ赤、下にはゆけぬ黒。
横へ横へと広がっていく力は空に赤黒い夕焼けを描いていく。
「こいつ、いつまで……!」
有利なのは重力を味方につけている曜たちだ。
だが、それでも【焔魔狼】は屈しない。
ありったけを注ぎ込んでいる。酷くなる頭の痛みは止まっていない証。
曜は痛みを加速させ、どこまでも広がる炎を押さえ込む。
勝利を半分掴んでいる。
半円の壁に閉じ込めた【焔魔狼】の道は上にしか残されていない。
このまま、大地に押さえつければ曜たちの勝ち――それがどこまでも遠かった。
溢れる炎が止まる気配はまったくない。
上という残された一つの道を魔狼はただ駆け上がる。
ここから半円を完成させることは炎に阻まれてできない以上、曜たちも同じように残された下への道を突き進むしかない。
少しでも退けばその瞬間、飢えた魔狼の炎に飲まれるだろう。
「「――!」」
熱が体を灼き始める世界の中、声にならぬ声を絞り出す。
イデアの翼が大きくなり、曜の黒が深くなる。少しずつ下へ下へと、天災を大地に近づけている。
それでも、遅い。これでは先に二人の限界が訪れてしまう。
しかし、これは二人だけの勝負ではない。
地上から光が昇る。
流星群の如く地上から伸びた光が【焔魔狼】を包む炎を撃ち抜いた。
止まらない無数の光に削られていく炎。
拮抗が崩れ、【焔魔狼】の勢いが衰えていく。
だが、もはや魔狼に逃げ場はない。
道は黒に阻まれ、唯一の退路は地上からの攻撃に晒されている。
いくら認めまいと吠えようと結末は変わらない。
そして、空に広がる赤は黒によって貫かれ、魔狼は大地へと叩きつけられた。
「ちっ、しぶとい!」
瞬時に黒壁を固定するも、天災を完全に閉じこめることはできなかった。
片足と頭を強引に壁に割り込ませている。魔狼の顔は憤怒に染まり、血走った目にはこの場にいる全ての者が映っていた。
攻撃する際の合図に使っていたバツ印。空に浮かべたその意味は届いていた。
黒壁から解放された人々は懲りずに、また助けにきてくれた。
多分、このイヴィルを大事な人がいる外には出さないという強い意思を持って。
その意思が勝利を掴むあと一歩のところまで、曜を連れてきてくれた。
しかし、その一歩はまだ遠い。
抵抗する。まだ終わっていないと怒りの咆哮が轟く。
大気を震わせながら【焔魔狼】の炎が燃え上がる。
『離れるんだ!』
加賀の声が誰かのアリアドネから聞こえてくる。
無差別に放たれる火焔は誰かを狙っているわけではない。
ただ怒りにまかせ、暴れているだけだ。
「曜! このあとは?」
狂ったように燃え盛る炎の中、晴久を始めとしたクラスの皆が近づいてくる。
曜の友人と覚えていたのだろう。
指で示さずともイデアはクラスメイトの近くへと着地する。
「なんでイデアさんがいんの?」「なんか抱きしめられてたし」「率直に言って羨ましい」「んなこと、どうでもいいでしょ!」「炎がやばいって!」『月城君、このあとはどうするんだい?』「そうだ、加賀さんが勝てるって言ってたぞ」「そうそう、自信満々だったって言ってた」
「あーもう、うるさい! あと、ありがとう! とりあえず、俺の後ろにいて。 加賀さん、他の人たちに離れてくれって伝えてほしい」
炎が大地を削っている。曜の壁は壊せずとも、押さえつけている大地は別だ。
これでは地面を削り、【焔魔狼】が壁から出てきてしまう。
もはや一刻の猶予もない。
暴れ狂う炎を遮断しながら、曜は強引に攻撃に移ろうと空へと手を伸ばす。
「――え?」
間に合うか。そんな曜の焦燥は【焔魔狼】に放たれた弾幕に払われた。
魔狼が怯み、炎が途絶える。
驚いている暇はない。
生まれた刹那の隙。その一瞬で壁を発現させ、曜は今度こそ完全に【焔魔狼】を閉じこめた。
いったい誰が。
答えを求めて振り向けば、そこには今まで一緒に戦ってくれた皆に加えて、地下一階にいたはずの防衛部隊までもが立っていた。
まったく、カッコいい大人たちだ。
頭を下げ、礼を伝える。
そして、曜は【焔魔狼】が閉じこめられた黒壁に向き直った。
「加賀さん、日下さん、ここにいる人以外は迷宮にいない?」
『いないはずだよ』
「そう。なら、俺の正面には誰もいない? ずっと遠くまで。このメイズ・バベルの端まで壊されたらまずいものはない?」
『な、ないけど……何をするつもりなんだい?』
「――?」
晴久のアリアドネから聞こえる問い。
そして、隣にいるイデアもじっと曜を見ている。
「見てればわかるよ。イデアも助かった。ありがとな」
「――アリガ、トナ? 」
不思議そうに呟く少女に笑みを浮かべ――曜は偽りの空へと手を伸ばした。
「晴久、あとよろしく。これから、コード・ベルセルクってのをやるから」
そんな宣言とともに、最後の夜闇が溢れた。
閉ざされていく世界。
ろくにできぬ力の制御すら手放した、全力全開の神器の力。
迷宮を黒へと染め上げていく神と呼ばれるに相応しい力に、全てのものが静寂へと叩きこまれる。
封鎖されたその場所から何かを察知したのか。
魔狼が暴れ回る気配を曜は感じ取る。ここから出せと壁を叩き、怒りと炎を噴出させる。黒に変化はなくとも、大地は赤々と熱せられていく。
しかし、結果はわかり切っていた。
「それはお前には壊せない。だから散々、俺の事を追い回してたんだろ」
戦う中でそれを理解した。
この意思持つ天災があれほどしつこく、月城曜という個人を追っていた理由。
それは、月城曜のもつ未知を【焔魔狼】が恐れたからだ。
燃やせず、壊せない黒。
その劫火の赤をもっても染められない。
そして、その黒は容易く自身が纏う赤の鎧を貫いてくる。
曜からすれば、ただ防御のために発現させた黒壁だった。
しかし、その壁と衝突した魔狼にとっては違う。
纏う炎を越え、体が触れる。
地下八階という一つの階層を灰へと還した災厄が初めて遭遇した未知のモノ。
それを【焔魔狼】は恐れた。
「未知が怖いんじゃ探索者はやれないな――神器『叢雲』全解放”架月”」
集う黒。
群がる黒雲が集約されていくたびに、世界に光が戻っていく。
黄昏と黎明が繰り返されるような幻想的な光景に全ての者が魅入っていた。
そして、空へと伸ばされた曜の手に巨大に過ぎる剣が生み出される。
空を貫く切っ先、月まで架かるが如き刀身はまさに巨神が持つ大剣であった。
振り下す。
痛みは臨界点を越え、意識が薄れていく。視界はすでに閉ざされた。
それでも、曜は闇の中を手に握りしめた力を頼りに進み続けた。
嵐の如き風を巻き起こしながら落とされた断截の一撃。
それは迷宮の大地を揺らし、深く神威を刻む。
その中心で、災厄の炎が揺れ、霧散していった。
そんな一つの結末を見届けることもできず、気絶寸前の曜は歓声とともに仲間に押しつぶされた。




