朧月へと手を伸ばす
真っ暗闇の中で曜は一人、悩んでいた。
視界一杯に広がるのは光というものが完全に消去された無明の闇。
体は手以外は固定され、動くことすらままならない。
神器のリミットが近づいているのか頭痛も酷くなってきている。おまけに、ものすごく蒸し暑い。
もはや、これは新手の拷問ではないだろうか。
だが、この暗闇から出ることはいつでもできる。此処は自らの神器で囲って創り出した空間。解除は曜の意志一つで思いのまま。
それでも、今すぐ出る気にはなれなかった。
「はあ……あっつい」
ぬるいスポーツドリンクで喉を潤し、曜はふうっとため息をつく。
外の気配は感じることができる。
だから、【焔魔狼】が予想通り待ち構えていることもわかっていた。
「あれは反則だよなあ」
あのとき。
怒りの咆哮とともに【焔魔狼】が放った炎は曜の予測を超えていた。
噴火としか言いようがない炎の奔流。
それは一瞬で天高く駆け上がり、神器の城壁を越え、流星となって上空から降り注いだ。
あの夕焼け空が落ちてくるかのような光景を前に、曜ができたことは一つ。
自分と皆を囲い、守ること。
それはつまり、戦闘の放棄に他ならなかった。
おそらく外は焼け野原。
もはや人が生存できる環境ではない可能性すらある。
その上、あの魔狼だ。
これでは皆を解放するわけにはいかない。そして、皆を解放しようがあの戦い方で勝つことはできない。
近づいたと思った勝利は今は遥か彼方まで遠ざかっていた。
「やっぱ、手なんか出さなきゃよかったのかな」
口をついて出たのは、そんな愚痴。
それは【焔魔狼】のことだけを指しているのではない。
あの雨の日に見た、月みたいな光。
きっと、神器所有者の何人かが見たという光と同じもの。
あれに手を伸ばしたことが、始点。
神器となり、篠原先生に助けられ、南校に入学し、【焔魔狼】と戦うことになる道を歩む岐路だった。
「あーあ」
何で自分だったのだろうか。
藤村とか探している人のとこに行けばいいものを。
あのときは迷宮外にいたなのにわざわざ来るなんて。もしかして、魔獄のときだったし、憑いているのはイヴィルとかいう話が正しかったりするのか。
まあ、でも。理由なんてどうでもいい。
抗うことをあのときに選んだ。
モラトリアムを、長い二度寝を終わらせることを今日選んだ。
そして、今も。自分自身の意思で曜は道を選択する。
「もう一回だけ、頑張ろうか」
大田や馬場なら気合で踏ん張る。
加賀なら知識でこの状況を打開するだろう。
他の皆もそれぞれの方法で前に進むはず。
だから、曜も気合や知識で確率を高めつつ、運を追い風に直感で突き進むことにした。
神器を起動。狙いは忠犬のように待ち構えているしつこい狼。
曜は上空で”朔”を固定し、槍の雨を降らせる。
これでどいてくれるかは賭けだ。
ダメなら無駄に体力を使い、限界に近づくだけ。
「避けろ離れろできれば倒れろ……」
念仏のように繰り返す曜の祈りが届いたのか。
大きく【焔魔狼】の気配が後退する。
やはり、俺はツイている、と曜は自分を包む壁を解除し――
「あっっっつ! うわ、焼け野原、ってあーもう、うっとおしい!」
熱気と飛びかかってきた魔狼にありったけの思いで叫んだ。
一面の焼け野原、というより現在進行形で燃え続けている燃え野原。
煙も凄く、命の危険を感じるほど炎が近い。
そして、待っていたとばかりに、もっと熱い炎の塊が飛びかかってくる。
最初の焼きまわしのように、【焔魔狼】の突撃を神器で防ぐ。
それと同時に、神器の外に出たアリアドネの通信も繋がった。
『月城くん、無事だったか! どの画面も真っ暗になっていたけど、大丈夫だったかい!?』
「大丈夫じゃない! 皆を神器で囲んでるけど、こいつを離さないと解放もできない! この焼け野原、というか燃え野原を何とかできない?」
『こっちでは無理だ! 炎を囲んで消すことは?』
「まあ、それしかないか、っと!」
襲いかかる【焔魔狼】を壁で遮断。相変わらず防御だけはできている。
しかし、もう限界が近かった。
神器を使うたびに頭痛は酷くなっていく。周囲の”朔”も少しずつ晴れてきている気がする。
そして何より、重くとも体が動かせるようになっている。
もはや、垂れ流せるほど余裕はないということか。
黒い外套のように身を纏っていた力は朧げに揺れ、大地と繋がっていた裾は今にも切れそうだ。
おそらく城壁のような、広範囲に防壁を張る使い方は乱発できない。
だが、この限界が見え始めた力で成し遂げたいことがある。
「【焔魔狼】がいなければ皆を解放しても大丈夫?」
『駄目だ。神器がある君は大丈夫なのかもしれないけど、そこはもう人が生きていられる空間じゃない。ウィザードの”護符”もすぐに突破されるくらいだ。皆を解放するのは、最低でも周辺の火を消したあとにしないといけない』
「了解……じゃあ、どうなるかわからないし、さっさと消しておこう」
熱された大地を”朔”が覆っていく。
たった数秒で見える範囲の地面は全て、黒曜石の如き床へと変わった。
くらりと頭痛に視界が揺らぐ。
これではっきりした。この規模の力はあと二回、気合を入れて頑張っても三回目を使った瞬間、確実に限界が訪れる。
『神器発動限界まで残り十分』
そして、アリアドネは時間すらないことを告げていた。
「これで力が切れても皆、逃げられるだろ」
『力が切れてもって、それに残り十分……月城君、無茶をする気なら……』
「いや、無茶をして死ぬ気はない。ちょっと分の悪い賭けはするけど。ようは――ここで、こいつを倒す」
『え? 今、何て……』
小さく呟き、定めた意思を曜は言葉にする。
振り返れば流されてばかり。【焔魔狼】に狙われたから引き付ける。逃げることが難しいと思ったから倒す方法を考える。皆が来てくれたから力を合わせて戦い始める。
どれも状況に対処しているだけだ。
選んだつもりが選ばされている。それが中途半端になる理由だ。
時間稼ぎも、戦うことも、皆を守ることも最後まで貫けない。
だから、選んだ――あのイヴィルをここで、自分が、倒すことを。
勝機はある。本当に小さな勝ち目が曜には見えていた。
雲間から覗く月の如き朧げな希望。
それはここまでの戦いが無駄ではなかったという証明で、勝てると信じたからこそ曜は安全なあの暗闇から踏み出した。
もう一度。
今度は自分の意思でこの天災の前に立とうと思った。
「もう、それは飽きた」
魔狼の炎は放たれる前に発現した壁に防がれた。
何度も。何度も何度もその動きを見た。
炎を浴びた。気配を感じていた。
ここまでやれば、どんな馬鹿だろうと予備動作の一つは覚える。
今までよりもずっと上の精度で、曜は【焔魔狼】の攻撃を、動きを、全てを予測して防御する。
あの魔狼がどう動くか手に取るようにわかった。
しかし、これがこの天災を倒せると思った理由ではない。
「加賀さん、日下さん。【焔魔狼】は軽いと思う?」
『軽いだって?』『あの大きさなのに?』
返ってきたのは怪訝そうな声。
曜だって突飛なことを言っている自覚はある。
でも、根拠もなくこんなことを言っているわけでもない。
降り注ぐ炎の合間に、曜は早口で話していく。
「飛んでたのがそう思った一番の理由。あとは、さっき攻撃を受けたときに体勢を崩していたのも少し。傷がついたのもあれ、炎とか熱の防御が堅いだけで、本体はそんなに大したことないんじゃないか?」
『ちょっと待って。加賀さん、走ったときの地面の抉れ方とかからわからないかな?』
『なるほど。確認してみる。でも、【焔魔狼】が軽かったら何かあるのかい?』
「ある。軽いなら、座標発現じゃなくて浮遊発現で神器を使えば捕まえられるかもしれない。それだと力勝負になるから、【焔魔狼】が重すぎたり、素の力が強いと困るんだよ」
このアイデアを通すには、【焔魔狼】との力比べに一瞬だけでも勝てなければいけない。
だが、最初に【焔魔狼】と戦ったときにその力比べで負けている。
浮遊発現を使って吹き飛ばされた。
今は神器を解放し力も上がっているとはいえ、勝てるかは正直わからない。
でも、もしも捕まえることができれば――
「さっきの戦いでわかった。あれで傷がつくのなら、捕まえることができたら俺はこいつを倒せる」
それは確信だ。
ただ、曜にとってはそうでも、他の人がそれを信じるのは難しい。
相手は天災級の魔物。
未だ人が勝利を手にしたことのない、人知を超えた災害なのだから。
『ほ、ほんとに? 相手は天災級だよ?』
『君と同じ神器所有者がいた防衛部隊でも無理だったのに、一人で倒せると言うのかい?』
「倒すのは一人でもいける。だけど、捕まえるのは正直、一人だと難しい。少なくとも、座標を指定して壁を張る方だと捕まえられなかった。浮遊の方なら可能性はあるけど……」
言いよどむのは確実とは言えないから。
神器を解放してから何度も捕まえようとしたが、【焔魔狼】の速度と炎に邪魔され、四方を囲むことは難しかった。
広い範囲ならできたかもしれないが、拘束と呼べる狭さで囲まなければ曜が思いついた倒し方は使えない。
だから、あらかじめ閉じこめる壁を作り出し、自由に動かせる浮遊発現なのだ。
しかし、この方法でもそう簡単にはいかないだろう。
それほど、あの魔狼の速さは厄介だ。
「このままだと負けるし、とにかくやる。あの狼に勝つためのサポートを頼むよ」
『無茶なことを……わかった。サポート頑張る! 何ができるかわからないけど』
『僕もだ。それで、さっきの答えだけど、【焔魔狼】は見た目ほどの重さではない可能性が高い。だけど、君の推測が正しかったとしても、おそらく炎をどうにかしないとだ』
「だろう、なっ!」
苛立ってきたのか、攻撃を続けながら【焔魔狼】が徐々に近づいてくる。
好都合だ。
塩辛い唇を舐め、曜は加賀の話を聞きながら、タイミングを計っていく。
『素の重さ、身体能力がどれほどだったとしても、【焔魔狼】にはあの炎がある。あれをどうにかするアイデアがあるのかい?』
「一つある。大変、頭が悪い方法が。皆がいれば、攻撃して炎を削ったり、体勢を崩したりとかもあるんだろうけど」
今は自分一人、思いついたのは賭けのような手段。
カウンターだ。
(ほら、飛びかかってこい……!)
浮遊発現は近いほど力が強い。
飛びかかってきた瞬間を狙って、至近距離で捕まえる。
炎で逃げることは許さない、おそらくは一秒にも満たない刹那の勝負。
壁が解除され、曜と【焔魔狼】の視線が交わる。
あの魔狼はこれを罠と理解しているのだろうか。いや、たとえ理解していようと止まらない。
挑発するように浮かべた曜の笑みに引き寄せられるように、【焔魔狼】は四肢に力をこめる。
必要なものはイメージ。
盾はお椀のように。
飛びかかってきた虫を捕まえるように、地面に叩きつけて、固定する。
実に簡単だ。
違いといえば、虫じゃなくて見上げるほどの狼で、触れただけで灰になるような劫火を纏っていて、見えないくらいの速度で飛びかかってくるだけ。
「…………うん」
こっそりと、失敗したときの準備をし、曜は右手を【焔魔狼】に向けた。
それが合図だった。
赤が猛り、黒が満ちる。
夜闇に刻まれるは焔の軌跡。火花を散らしながら魔狼は飛びかかり、
曜が消えたことにより、その爪は虚空を裂いた。
「イデア、何してるうううおおお、怖いっ、飛んでる!」
そして、空へと攫われた曜は完全にクールを忘れ去った。




