炎と夜
走る魔狼を目で追い続ける。
辛うじて捉えられる姿は鬼火の残滓と朧げな影ばかり。
聞こえる足音の先には灰だけが宙を舞っている。
神器が創り出した夜を裂くように【焔魔狼アモン】は獲物の周りを駆けていた。
「暑い……」
額にへばりつく汗に濡れた髪。
それを払う曜は何度目かになる愚痴を零す。
もはや、この空間は熱帯夜だ。
明けることは期待できず、逃げ出すことは許されない。
もう、体中の水分がなくなるのではないかと思うほど汗が出ていた。
服はバケツの水でも被ったかのようにびしょびしょだ。
走り回る【焔魔狼】が巻き起こす拷問紛いの熱風が幾度も頬を撫でる。加速していく熱は止められない。そして……
『神器『叢雲』の起動を確認しました。コードの入力を求めます。神器『叢雲』の起動を確認しました。コードの入力を求めます。神器『叢雲』の起動を確認しました。コードの入力を求めます……」
アリアドネの音声も止まらない。
いい加減うるさくて気が散ってきた。
使いたくない。でも、この状況では致命的になりかねない。
一瞬にして深い考慮の末、曜は覚悟を決めた。
「あーもう! 神器『叢雲』起動。M1001YT!」
『コードの入力を確認しました…………”朔”の展開を確認。”封鎖黒天”の縮小速度からリミットを三十分と設定。”架月”使用――』
「ほんっっっと、やだ、このアリアドネ! 誰だ、こんな設定にしたのは!」
曜は叫ばずにはいられなかった。
忘れようとしていた黒歴史を無機質な音声が淡々と読み上げていく。
こうなるから、このアリアドネは使いたくなかったのだ。本当に、バックパックの奥深くにしまって忘れたままでいたかった。
謎の厨二設定を削除したくとも、これは端末で元データは研究所。加えて、曜には元のデータをいじる権限がない。
研究所に”架月”してやる。とりあえず、曜はそう心に誓った。
『投影した映像の最適化を完了。コード【焔魔狼】の追跡を開始します』
ムカつくことに、このアリアドネは大変優秀だ。
映像は自動的に対象を追い、神器の解放状況からタイムリミットを算出、その他の機能も動けなくなった曜に合わせて作られている。
この機能を使った今なら神器の気配感知だけでなく、五感だけでも【焔魔狼】の影くらいは追うことができる。
曜は手を振るい、勝手に名付けられた黒い流体”朔”の操作を始めた。
前後左右、上に、下に、大きく、小さく。数え切れないほどの黒壁が天災を封じこめようと取り囲む。
そして、それら全てを魔狼は超えていった。
「曲芸か。何なんですか、この狼……」
足元の壁は宙返り、鼻先に現れた壁は身を捻り躱し、巨大の壁で進路を塞いだら空を翔け始める。
意味がわからない。もうこんなの狼の走りじゃなかった。
尾の大蛇や全身から噴き出す炎による異次元の疾走をもって、【焔魔狼】は曜の攻撃を躱していく。
やがて、壁の回避になれてきたのか。
疾走を続ける【焔魔狼】から無数の火矢が放たれた。
「多すぎ、だ!」
一、二、三……すぐに数えることは諦めた。
アリアドネの映像には数え切れない赤い光が閃いている。
厄介だ。
数が多ければミスは生じやすく、集中が途切れることは死を意味する。
狙いは正確で一射たりとも見過ごすことはできない。
それでも、限界はまだ遠い。
曜には視界を邪魔せぬように、火矢と同じ数の小さな黒壁で防ぐ余裕があった。
だから、視線は一瞬たりとも走る魔狼の影から離していない。
それなのに――視界から【焔魔狼】の姿が消え失せた。
今までは全力ではなかった。
影すら捉えられぬ急加速にそれを理解させられる。
目では追えず、耳では遅すぎる。気配で位置を、直感で行動を。
僅かな糸を辿った曜は、見上げるよりも先に黒壁を上空に展開した。
――防いだ。
その感触はあった。しかし、衝突音は黒壁が遮断し聞こえない。
それに、見上げた先の黒壁から【焔魔狼】の姿が出てこない。
生まれた数秒の空白に曜は首を傾げる。
――乗っているような感触はないのに。
疑問を考えるよりも先に、その答えは襲いかかってきた。
背後から矢のように迫る気配。
振り返ろうと体に力が入り、この場を離れようと足は大地を蹴ろうとする。
できないことすら忘れた反射的な行動。それにより、僅かに遅れた黒壁の展開は【焔魔狼】の接近を許してしまう。
「熱っ――!」
突撃は防いだ。が、すぐに壁の横から光が飛び出した。
眩しく、思わず目を閉じてしまいそうになる真っ赤な光の塊。
そんな鬼火なんて表現では生ぬるい獄炎を【焔魔狼】は抱えていた。
直感は瞬時に死を告げた。
あれは駄目だ。炎を防いでも熱で死ぬ。上に左右。最速で”朔”を走らせ――
太陽の如き獄炎が巨大な黒の城壁に衝突した。
「あ、危な……!」
生きている。それが結果だ。
しかし、防ぎきったはずの曜の心に生まれたのは恐怖だった。
見上げた城壁、揺らぐ陽炎の向こう。
百メートル近くある壁を越えた先の空は紅蓮に染まっていた。
数十秒は待っただろうか。
城壁の黒を解いた向こうに広がっていたのは灰が舞う大地だった。
暑くて熱くてたまらないはずなのに、背筋が凍った。自分が相対しているモノを改めて突きつけられた気がした。
視界一面を灰に変えた獄炎が怖い。
でも、それ以上にその天災がただ自分一人の命を執拗に狙っていることに曜の体は震えた。
それに先ほどまでの攻撃は違う。
強引に距離を詰めようとする加速、灰すら残さず焼こうとする炎の放射と違い、考えていた。
そう、どれも探るような攻撃だった。
速さと数の火矢、急接近による奇襲、近距離からの高火力攻撃。
どの手が最良か確かめるような攻撃の数々。
こちらの防御の隙を探って、一手ずつ詰めていこうとする。そんな狩人の思考を曜は感じていた。
こんな力の振るい方をするイヴィルを曜は知らない。
知能か本能か。どちらにせよ厄介に過ぎる。
少なくとも一つ、曜は手の内を【焔魔狼】に暴かれてしまった。
「どこに……【焔魔狼】は? どこにいる?」
『現在、コード【焔魔狼】は映像範囲内には存在していません』
その証拠に――今の曜は【焔魔狼】の居場所がわからなかった。
気配を感じない。アリアドネにも映っていない。
おそらく奇襲の際の反応で、感知できる範囲を暴かれたのだろう。
この黒い流体は広範囲に渡って空間を塗りつぶしているが、その全域に曜の力が及ぶわけではない。
感知できる範囲も、黒壁を展開できる範囲も見た目ほどではない。
これは神器を使いこなせていない証拠でもある。
今の曜は全力しか出すことができない。
力を垂れ流しているような状態だから、自分自身の動きを封じられ、時間制限という爆弾まで抱えている。
「まずい……これ、引きこもれない」
いざとなれば、使おうと思っていた手段。
それはもう悪手であると直感が告げていた。
壁に引きこもろうと、このイヴィルは絶対に自分を逃がさない。【焔魔狼】には曜が神器の内にこもったことを理解できる知能があり、ずっと神器が解けるのを待ち続ける執着もある。
魔狼は一度狙った獲物を決して逃がさない。
遠くで聞こえる遠吠えはその宣誓のように聞こえた。
――どうする? どうすれば捕まえられる?
曜は焦っていた。
あの魔狼が気づいているかは分からない。
しかし、曜には自分の敗北が見えていた。
あたかも盤面を見下ろす指し手のように、自分の敗北までのルートに気づいてしまった。
奇をてらわず【焔魔狼】は炎を出し続けるだけでいい。
それだけで曜は”熱”に敗北する。
生きるために酸素が必要な以上、空気を遮断し続けることはできない。
広範囲に炎が放射され続け、周囲が極限にまで熱されれば曜は神器で全方位を囲むことしかできない。悪手であると判断した手に頼るしかなくなってしまう。
そして、【焔魔狼】は神器が解けるのを待ち続ける。
千日手に耐え続け、獲物である曜の限界が訪れたその時が――チェックメイト。
だから防御では駄目だ。
曜は生存という勝利を掴むための最善手を必死に考えていた。
――ああ、くそ!
焦る焦る焦る。焦燥は止まることなく一秒ごとに加速していく。
動悸は早く、呼吸は荒い。
暑さと恐怖に汗は止まらず、時折、感知の範囲に【焔魔狼】の気配を感じるたびにその時がきたと覚悟をする。
断頭台の上で待たされ続ける。そんな数分間。
そんな状況下でも、曜はまだ冷静さを失ってはいなかった。
再び【焔魔狼】の狩りが始まれば、もうこんな風に考えることはできない。
この空白の時間が勝機を探る機会。
だから、曜は焦りや恐怖の中でも、考えることをやめなかった。
「ツイてない。もっと攻撃に使えればいいのに」
こんな防御しかできない神器がただただ恨めしかった。
この神器は相手が思いっきりぶつかってきてくれるか、硬化させた黒いのを落としたり振り回すくらいしか、攻撃手段になり得るものがない。
仮にも神の力を謳うなら、もっと何かあってもいいと曜は思う。
「やっぱり、”封鎖……壁で囲むしかない」
それさえできれば、勝機の一つも見えてくる。
だが、拘束と呼べるほど狭く囲むのは速すぎて無理だった。
広く壁で囲めば捕まえられるかもしれないが、それでは時間稼ぎにしかならず、倒すことができない。”封鎖黒天”とか名前負けにもほどがある。
それに速度だけでなく、あの炎も邪魔だ。
この”朔”は流体時はただの霧や影みたいなもの。
固めなければ絶対防御の盾にはならず、形成前の”朔”に干渉されれば固めることはできない。この特徴が【焔魔狼】の速度と炎によって弱点になっている。
何をしようが、どう考えても避けられる。そして、狩られる。
一瞬で神器の感知外に離脱できて、いざとなれば空にだって逃げられる相手。
おまけに、あの炎。
なんて反則なのか。
もはや、曜は乾いた笑みを顔に張り付けておくことしかできなかった。
「気合だ。もう気合で捕まえるしかない……!」
必死に考えて捻り出せたのはこんな答え。
そして、曜が答えを出したのと同時に、【焔魔狼】のほうも答えを出したようだった。
高速で接近する気配。
視線を向ければ、巨大すぎる真っ赤な火の玉が横から迫ってきていた。
遮断。黒壁を側面に。
それしかできないから、迷うこともない。
火の玉と化した【焔魔狼】は速度を緩めることなく、そのままの勢いで壁に衝突した。
「まじか」
ぶつかってきてくれた。
まさか、数少ない攻撃手段になりそうなことが起こるとは。
壁の向こうは見えないが、気配で【焔魔狼】が止まっているのがわかる。
すごい勢いだったし死んでくれたかな、と期待する曜だったが、その表情はすぐに落胆に変わった。
やはり、衝突だけでは仕留められなかった。傷一つない魔狼は壁を飛び越えるように跳躍し、火の雨を降らしてくる。
攻撃は止まらない。
傘のように壁を張って火雨を防ぐ。
着地と同時に放たれた広範囲の火炎放射を防ぐ。
周囲を走りながら射出される火矢を防ぐ。
不規則な動きで迫る鬼火のような火の玉を防ぐ。
その都度、範囲を広げたり、多くの壁を張りながら止まない攻撃の雨を曜は防ぎ続ける。
「神器のリミットはあとどれくらい?」
『二十一分、三十二秒です』
「よし、皆も逃げただろうし、もうちょっと頑張ったら引きこもろう。残りのスポドリを飲みながら、限界まで中で寝ててやる」
すでに肌に感じる熱は洒落にならない。
口腔を、喉を、肺を通る空気が熱くてたまらない。
それでも、曜のもうちょっとはいつまでも続く。
もう少し、もう少し、と愚痴のように零しながら、曜は勝機もない一方的な戦いを続けていた。
負けたくない。この天災をメイズ・バベルの外に出したくない。
ここで諦めて引きこもることは事実上の敗北で、何より、曜はもう守ることができなくなる。
それは大事なものを放棄することと何が違うのか。
自分一人だけを守って、壁の内に引きこもることに何の意味があるというのか。
それでは、失うことは防げないというのに。
――勝ちたい。
あのイヴィルを倒したい。
こんな状況で曜はまだそんなことを思っている。
思うだけでは何も変わらない。それは真実だろう。でも――思いを受け取る相手がいるなら。
少年の諦めの悪い思いが届いたかのように、
一つの刃が熱を切り裂き、彼方から飛んできた。




