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森退窮まる

――あのときも魔獄だった。


 イヴィルに追われ、逃げて逃げて逃げて。

 何の武器も持ってないわりに頑張った方だとは思う。

 小さいイヴィルを倒したし、一緒に遊んでいた晴久と妹を逃がすこともできた。

 だけど結局、イヴィルに追いつかれてしまった。

 ぽつりぽつりと降る雨。誰もいない閑散とした道の真ん中。

 この風景の中で自分は終わるのだと思った。死が迫ってくる感覚に、濡れた体を震わせていた。

 怖いな、と思いながら雨空を見上げた。

 暗い雲に覆われた空には何故か月のような光が浮かんでいて――


――それは一直線に俺へと落ちてきた。











 かさり、と頬に触れる感触を感じ、曜は目を覚ました。

 濃い緑の匂いに包まれ、風が葉を揺らす音を聞きながら、九死に一生を得たことを曜は実感していく。

 だが、目を開こうと、視界は変わらず真っ暗だった。


「……もう皆の顔も見れないな……」


 目が見えない。あまりの衝撃に曜の思考は暫し停止した。

 これでは生きていても、帰ることなどできない。もし生き残れたとしても、二度と家族の顔も、友人たちの顔も見ることができない。

 それは……寂しかった。


 一陣の風が吹いたのは、そんなタイミングだった。


「…………ふっ」


 顔の上にあった葉っぱがパサリと飛んで行った。

 たんに顔に大きな葉っぱがのっていただけ。先ほど呟いた言葉を思い出し、曜は深い緑の中で頭を抱えた。


「……忘れよう」


 葉を顔に乗せ、「皆の顔も見れないな……」と呟く男。

 傍目から見たら、かなり痛い。今だけは一人であったことに曜は感謝した。

 仮にこんなところを晴久に見られたら、この先ずっとからかわれていた。


「あー、うー、で、ここどこだ?」


 見上げた先には、迷宮の夜空が広がっている。

 おそらく、数時間は茂みの中で気絶していたのだろう。

 迷宮内が夜ならば、外も夜のはず。どういう仕組みかは分からないが、迷宮内には空もあるし太陽に似た光もある。そして、それは外と同期している。

 正確な時間が知りたい。

 それと、詳しい位置も。

 いつもの癖で肩辺りに手を伸ばすも、そこにアリアドネは無かった。

 近くに落ちてもいない。燃えたか、システムがダウンしてどこかに転がっているかは不明だが、これでは正確な位置情報は手に入れられない。


(ツイてない……)


 座ったまま、曜は周囲を見回す。

 しかし、木、木、木、葉っぱ、とここは緑一杯の森の中。

 特徴なんてものはなく、ここが何処なのかはさっぱりわからなかった。


 唯一わかるのは、ここが地下五階のどこかということ。


 あのとき、曜は【焔魔狼(アモン)】の攻撃を受ける直前に、最後のカードを切った。

 すなわち、藤村たちD班に話した『ウィザードで壁を作って引きこもれる』を曜は実行したのだ。

 そして、【焔魔狼(アモン)】の攻撃によって吹き飛ばされた。

 黒い壁で遮断していたから、どんな攻撃を受けたかは分からない。が、おそらく馬鹿みたいに大規模な攻撃のはずだ。

 そうでなければ、位置すらわからないほど周囲の景色が変わるわけがない。


「はあ……」


 思わず、曜はため息をつく。

 こうなるから、アリアドネが繋がるまでこの手段は使いたくなかったのだ。

 この力・・・は固定させるより、浮遊させる方が長くもつ。

 アリアドネによる通信が繋がらなかった以上、引きこもる時間を延ばすために壁の固定はできなかった。

 それに、あのタイミングで黒い物体Xが空中に浮いていたら、きっと【焔魔狼(アモン)】は中に獲物がいると気づいていただろう。

 もしも、延々と出てくるのを待たれていたら詰んでいたし、結果としてこの方法で良かった。曜はそう思うことにした。


「さて、と」


 とにかく、ずっとここにいることはできない。

 地下五階。ここは曜たち学生にとって未知が多い階層だ。

 テセウスを始めとした民間の探索者たちだって、この階層の隅から隅まで知っているわけではない。未踏区域だってまだ残っている。

 しかし、やることはシンプルだ。

 まずは中心地点に向かう。そして、昇降機で一気に一階まで行けばいい。

 そう、その過程を無視すれば簡単なことだ。

 前向きに考え、曜はゆっくりと立ち上がろうとし――体中に走る痛みに、悲鳴を上げかけた。


「い、った、これまず、いだろ。死ぬ。これは死ぬ」


 全然簡単ではなかった。

 そもそも、歩くことすら今の曜には困難すぎた。

 脚は生まれたての草食動物のように震え、じくじく走る全身の痛みに涙が浮かんでくる。

 

「無理、絶対無理」


 こんな痛みを抱えたまま動けるほど曜はタフではない。

 近くにイヴィルの気配もないし、まずは応急手当をしなくては。

 腰のバックパックを外してみると、汚れてはいるが破けたりはしていなかった。

 炎は直撃していなかったのだから、当たり前といえば当たり前。

 仮に、耐火素材のバックパックが燃えたのなら、ウィザードの効果が切れた曜の方は灰になっている。


(あー、けっこう駄目になってる……)


 中から消毒液や包帯といった応急手当の道具を取り出していく。

 色々と潰れているのは、間違いなくどっかのイヴィルのせい。ぶつぶつと恨み言を積み上げていっていると、すみっこにあるその機械が目に入った。

 真っ黒でボールみたいな機械。

 曜が持っている二機目のアリアドネだった。


「そうか、こいつがあったんだった」


 とある事情で、曜はアリアドネを二機持っている。

 もしものために、と貰っておいたこちらのアリアドネをすっかり忘れていた。

 一年くらい前に使ってからずっと放置していたなんて、篠原先生にバレたら殺されるだろう。

 でも、これで希望が出てきた……アリアドネに走っている不吉な罅はきっと気のせいだろう。


「よし、ツイてる。これで通信すれば、って痛っ!」


 今こそ、まさにこれを使う絶好の機会だった。

 ただ、まずは手当をしなければ。少し動くだけで体が痛くて仕方がない。

 これではイヴィルに襲われても対処できない。

 真っ赤になり、所々水ぶくれになっている左腕の手当を進めながら、曜は自分の運の良さを悲鳴と一緒に噛みしめる。

 本当に運が良かったら、そもそも、魔獄も、【炎霊魔(イフリート)】も、【焔魔狼(アモン)】とも縁がないということには気づいていない。


(……グロい)


 一番重症なところは左腕。

 動きはするのだが、肘から先はちょっと直視したくない有様だ。

 消毒用の脱脂綿で手と傷を軽く拭く間は地獄だった。

 染みる。とにかく染みて痛い。ちょっと涙が零れた。

 傷口にスプレー状の傷薬をふりかけると、心地よい冷たさに熱と痛みが静まっていく。左腕には軟膏を塗り、しっかり包帯も巻いておく。

 片手しか使えなかったから不格好だが、落第点ではないだろう。

 絆創膏や包帯である程度手当を終え、曜は一息つく。


「ぷはあ」


 水筒の水を飲めば乾ききった体が潤っていくのがわかった。

 一気にほとんどの水を飲んだ曜はアリアドネを手に持ち、電源ボタンを押した。

 あとは起動するまで待てばいい。そうしたら、とりあえず繋がりそうなとこに通信を入れれば……


 そう考えていた曜の耳に不快な叫び声が聞こえてきた。


(やばい、イヴィルだ。結構、近いな。地下五階……なんだ? あのグロいのとかキモイのは見たくない……のに)


 そんな願いは数秒とせず裏切られ、キモイ方のイヴィルが茂みを踏みつぶしながら姿を現した。


 蛙のような見た目のイヴィル。名は【ベールゼブフォ】。


 大昔に地球上に存在していたという蛙の名をつけられたイヴィル。

 由来のとおり巨大すぎる体を揺らし、その目が曜を捉え――


「やば!」


 アリアドネを掴み、走り出すと同時に【ベールゼブフォ】の舌が伸びた。

 走り出したタイミングが良かった。

 足元に掠る風を感じながら一目散に曜は逃げ出す。

 このイヴィルは待ち伏せするタイプだから、一度逃げることに成功すれば、まず追いつかれない。


 そう、【ベールゼブフォ】は待ち伏せするタイプのイヴィルだ。


「うっ、二匹目!」


 茂みを切り裂くように突き出された舌を反射で躱す。

 視線の先には無数の目玉が星明りを受けて、怪しく揺らめいていた。

 ああ、ありがとう篠原先生。

 先生のペーパーテスト――抜き打ちで範囲がやたら広い――が無ければ、今ので死んでいた。

 そして、これ以降僅かでも気を緩めれば、一瞬で喰われる。

 今の曜は捕食者の群れの中に投げ込まれた餌に過ぎないのだから。


 暗い森の中、二度目の逃走劇が始まる。


 辺りに響く、不気味なイヴィルの鳴き声を聞きながら、曜は自身に落ち着け、と言い聞かせ続けた。

 軽口を挟み、楽しいことを考え、心の平静をなんとか保とうとする。


「地下五階……出てくるイヴィル。思い出せ、月城曜……! あの辛かったテストと補習を……!」


 現在の位置を確認するため、木に登る。

 左腕は痛み止めが効いているのか、動かすのに支障はなさそうだった。が、無茶をすると本当に動かなくなりそうな危機感があった。

 樹上に立つと、天井に散らばる星々の光で、薄っすらと迷宮の大穴が見えた。

 中央にあるはずのそれは大分、遠い。起動し、浮かび上がったアリアドネに現在位置を表示させると、案の定ここは外延部だった。

 夜間にここから中心を目指すなんて、不可能だ。


「でも、休む場所なんて……」


 セーフティポイントは基本的にイヴィルが少ない中心付近にしかない。

 それ以外の場所では設置してもすぐに壊されて意味を為さないのだ。

 つまり、曜はこのイヴィルが溢れる森で一夜を明かし、中心地点に戻らなくてはならない。


「まじか……」


 いっそ、諦めたいほどの苦境。

 しかし、まだアリアドネで遭難信号を送る手段が残っている。


「ツイてなさすぎるだろ、俺」


 そんな希望すら打ち砕かれた。

 アリアドネに表示されたのはエラー表示と……故障を示す文字。

 通信装置の故障。原因は間違いなく、【焔魔狼(アモン)】になぶられた際の衝撃だ。

 浮遊機能の代償に、アリアドネの外装はかなり薄くなっている。むしろ、完全に壊れていないことを考えれば、幸運といえないこともない。


(直せる可能性はある。まだ焦る時間じゃ……いや、もう焦らなきゃだよな……)


 手に持ったアリアドネを地面に叩きつけたい。

 そんな衝動を堪え、アリアドネの修理しようとするが、この暗闇の中ではそれも不可能だった。

 装備に含まれている修理キットで直せるのなら、まだ通信できる可能性は残っている。だが、それも明るくなるまで生き延びることができれば、の話だ。


(水瓶座、もうちょっと頑張ってくれ)


 見上げる星空には勿論、水瓶座は無かった。

 なんだか、見捨てられたような気がしてくる。


(どうやって、夜を明かそうか……)


 下を見れば少しずつイヴィルが近づいているのが見えた。

 ベールゼブフォの眼が灯火のように暗闇に浮かんでいる。その数は二桁はいっているだろう。

 早く下りなければ囲まれる。

 できるだけ数が少ない方向を樹上から確認し、曜は夜の森を逃げ始めた。

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