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希望の残片

 天災級のイヴィルの出現に天京中が揺れていた。

 関東全域に呼びかけられた警戒情報にテセウス、国直属の部隊である国家探索者部隊はメイズ・バベルを取り囲み、民間探索者のチーム、天京の東西南北の高校もこれに参加していた。

 すでに第一防衛ラインが地下一階では構築されている。

 日本の神器持ちも参加するこの布陣が最初にして、おそらくは最後の砦。

 そこを突破されれば、残った戦力では足止め程度にしかならず――天災級が日本の大地に解き放たれる。


 それは倒すことができないイヴィルに怯える生活が始まることを意味していた。


 ここが分水嶺。

 欧州や北米のように、イヴィルが蔓延る世界が地上に形成されるか。

 それとも、ハザードⅥ、天災級の討伐という世界初の偉業を達成するか。

 日本の未来は今、その天秤に乗せられていた。


 この日、日本は終焉の可能性を突きつけられたのだ。


 それに対する人々の行動は様々だった。

 テレビをつければそれがよく分かる。

 晴久は南高二年三組の待機所で座りもせず、流れていく映像を眺めていた。


 慌ただしく関東から離れていく家族。

 大丈夫だろ、といつもの暮らしを謳歌する青年。

 魔獄を予測できなかったことが原因だと半狂乱になるコメンテイター。

 技術は進歩し、たとえ天災級だろうと何も問題はないというどこかの学者。


 ここにいる三組の面子にとって、それら全てはどうでもいいことだった。

 この場には天京南高二年三組の全員が揃っている。

 一度は家族に会いに行くために解散したが、数時間とせず皆がここに戻ってきていた。

 それは戦うためでも、使命感があるわけでも、命を軽んじているわけでもない。


 この天京が一番、安全だからだ。


 防衛のための戦力が揃い、避難施設は各所に溢れている。

 緊急事態を予測しての食料、衣類、その他様々な支援を受けられるこの天京以上に安全な場所はない。

 メイズ・バベルから離れたところで、その先でイヴィルを倒せないようでは意味がないのだ。

 だから、家族の無事を確認した生徒たちは情報を求め、この場に集まっていた。

 まるで裁定の結果を待っているかのようだった。

 そのときが訪れたらここにいる者も戦うかどうかを選ばなくてはいけない。それは見えない鎖となって学生たちの心を軋ませる。

 何より、クラスメイトが一人行方不明の状況で笑うことなどできなかった。

 話すべき言葉も見つからないまま、誰もが沈黙したままテレビを眺めていた。

 どれくらい時間が過ぎただろうか。

 秒針が時を刻む音と無機質なテレビの音声だけが響く中、がちゃりと扉が開く音が空気を震わせた。

 一斉に視線が集まる。

 それは、ある期待がこめられた視線だった。

 新たに部屋に入ってきたのは篠原先生と――D班の四人だった。

 答えは聞かずともわかった。少なくとも晴久が求める答えでないことは、四人の悲痛な顔を見ればはっきりとわかった。

 誰もこの沈黙を破れない。

 そんな中で声を発したのはやはり、先生である篠原だった。


「【焔魔狼(アモン)】が上ってきている。その情報源は月城だった」


「じゃ、じゃあ、あいつ生きてるんですか!?」


 立ち上がった大田剛の言葉は皆の代弁でもあった。

 篠原先生は目をつむり、しばらく考え込むと、アリアドネを手に持った。


「月城が送ったアリアドネの映像がある……見る覚悟がある者はここに残れ。それ以外は外で待機していろ」


 誰も出ようとはしなかった。いや、動けなかった。

 三組の担任は気休めを言うような人ではない。

 この言葉が返ってきた時点で、月城曜は無事ではない。それが確定した。

 篠原先生は無言でアリアドネを操作し、その映像は静かに流れ始めた。


『こちら、天京南高二年三組所属、月城曜。現在地点、地下五階中心付近。天災級が目の前に出現。コードは――【焔魔狼(アモン)】』


 それは間違いなくクラスメイトの声だった。

 一年半に渡り苦楽を共にしてきた仲間の通信だった。

 その仲間が天災級のイヴィルの前に立っているのを目にしても、どこか現実味がなかった。

 この映像は実際に起きたことではなくて、映画とかアニメとかそういうものに思えてしまう。


『繰り返します。地下五階に【焔魔狼(アモン)】が出現……自分の目を疑いたいんですけど生息地であるはずの地下八階から上がってきています。ほんと、何でここにいるんですかね……』


『天京中の探索者が来てくれれば……ないか』


『さてと……どうする?』


 アリアドネが投影する映像に晴久は思わず笑ってしまいそうになった。

 ああ、幼馴染は目の前に天災級がいても変わらない。大方、相変わらず運が悪いとか思いながら、逃げる算段を考えているのだろう。

 それは他の皆も同じだったのか、重苦しかった空気が僅かに緩んだ気さえした。

 いつもと変わらない仲間の声と姿。


 だからこそ、続く映像に言葉を失った。


『ごほっ、がはっ』


 アリアドネの映像が紅蓮に染まり、苦しそうな声が聞こえ――そこから、一方的な蹂躙が始まった。


『あああああっ!』


『ぐっ、はっ――』


 苦悶の声に小さな悲鳴があがった。

 映像が揺れすぎてよくは分からない。ただ、曜が圧倒的な力に吹き飛ばされて、業火に包まれていることはわかる。

 ウィザードの”護符”か、曜が何かをしたのか。

 その理由はわからないが、業火は曜に直撃していないようだった。それなのに、アリアドネの映像は奇妙に歪んでいる。

 熱でレンズが融解しているのだ。

 耐熱性を高めるために、表面処理されているはずのアリアドネを当たりもせずに融解させる。

 そんな熱量にさらされ、人間が無事のはずがない。ウィザードで防げる規模とも思えない。

 それでも、晴久は拳を握りしめ、その映像から目を離さなかった。


『防げえええっ!』


 まだ曜は生きていた。声はもはや別人のようにしゃがれている。

 ノイズが混じり始める映像の中で、幼馴染は決死の表情で戦っていた。

 一秒ごとに映像がノイズで見えなくなっていく。

 堅固な何かを叩くような鈍い音に唇を噛み、苦痛に満ちた呼吸が聞こえることに縋りつく。


 頑張れ、と。


 もはや、過去の映像にも関わらず晴久は祈った。

 それはきっと、幼稚園から同じ時を過ごした幼馴染だけではない。この場にいるクラスメイトも、先生も同じことを思っていたはずだ。


 しかし、残酷な終焉はやってくる。


『むら――』


 そんな音声が最後だった。画面の端に炎が見え――黒く染まった。

 映像が終わろうと誰も言葉を発しなかった。これがどういった結末かなんてわかり切っていた。仲間たちは鼻をすすり、静かに涙を流す。

 だが、晴久は一人、歩き出した。


「待て旭。何処に行く?」


 すれ違う先生は晴久に問いかける。

 答えなんて決まっている。少なくとも、旭晴久の中に選択肢は一つしかない。


「迷宮地下五階」


「駄目だ。担任として許可できない」


 静止の声を晴久は無視した。

 入学してからこの先生の言葉に反したのはこれが初めてだった。

 二度目の静止はない。

 しかし、先生が止めずとも班員は違った。

 柔らかな感触が強く晴久を止める。

 黒く長い前髪から覗く涙を溜めた目で、日下円は行かせないと伝えていた。


「ずっと……ずっと後悔してるんだ……」


 それは静かな独白だった。


「俺は曜に借りがある。ずっと昔に一度、命を助けてもらっている。それなのに、俺は全然、恩を返せてない。本当に助けが必要なときに、あいつを助けてやれない。それに――」


 頭から離れないのは数時間前の光景。

 曜の家族に会いに行ったときの光景だった。


「妹が泣いていた。お父さんやお母さんも普段と同じに見えたけど、手が震えていた……俺は嫌だ。あの家族に曜が死にましたなんて報告はしたくない!」


 その悲痛な叫びに抱きとめていた手が緩んだ。

 ごめん、と小さく呟き、晴久は扉を出て――


「旭、待て!」


 篠原先生の鋭い声に足を止めた。


「何をですか! 死亡報告がくるまで延々とここで待っていろと!」


「違う。月城から連絡がくるのを、だ」


 その答えはまるで予想していなかった。

 晴久だけではない。

 振り返れば晴久についていこうとしたのか立ち上がっていた者も、静かに涙を流していた者も、皆が先生を見ていた。


「過度な期待はするな。状況は絶望的だ……だが、あいつなら希望は残っている。そして、あいつが仮に生きていたとしたら、この場所か、おそらく……旭、お前のところに通信が入るはずだ」


「通信って……どう考えてもあいつのアリアドネ壊れてるじゃないですか……」


「あいつは、アリアドネをもう一機持っている。バックパックに入れているなら、使えるはずだ……旭」


「……はい」


「お前は今、自分はあいつの力になれていないと言ったな。なら、私と賭けをしよう。おそらく――」


 にやりと笑った先生の姿は力強く、そして、どこまでも格好良かった。


「月城は生きていて、そして、お前に頼るはずだ」


 その言葉に晴久は堪えていた涙が零れるのを感じた。


「あいつは……クールぶってるわりにメンタル弱いし、運も悪いです。アイスの当たりが出ないとか、おみくじでは大吉が出ないとか、そんなどうでもいいことを気にするような奴です……でも、諦めだけは悪い。出ない当たりと大吉を求めて財布を空っぽにするくらい馬鹿な奴だ。そんなあいつが簡単に死ぬはずがない。今頃、文句をぶつぶつ言いながら、しぶとく生きてるって……俺は信じてる」


 呟く晴久の声には、まだ希望の光が灯っていた。


「だから、賭けにならないですよ、先生……」

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