これが今のノンフィクション
走る、走る、走る。
ひたすらに前へ。後ろなどふり返る暇はない。前だけを睨み、地を蹴ってさらに前へと進んでいく。
いや、進むなんておこがましい。目指しているのは未踏の地ではなく入口。
探索者、月城曜はこの『迷宮』を逃げ戻っているだけなのだから。
足の筋肉はとうに悲鳴をあげている。呼吸の仕方を忘れたように息が吸えない。周りはすでに敵だらけ。
最悪だ。これ以上ないほどの崖っぷち。「今週の水瓶座の運勢は最悪です!」とか言っていた朝の占いも今なら心から信じられる。
こんなことならラッキーアイテムをチェックしておくべきだった、と曜は悔やんでいた。
「ツイてない……何で、迷宮が暴れ始めるんだよ……」
一見してそうは思えないが、ここは建造物の中だ。
どこを見渡しても広がっているアースカラーの風景。都会とは異なるマイナスイオンたっぷりの澄んだ空気。
そして、曜を追いかけてくる悪魔みたいな姿をした『イヴィル』たち。
とても屋内の光景だとは思えない。しかし、間違いなくここは今から約五十年前に現れた建造物の中なのだ。
『メイズ・バベル』
それは地球に突き刺さった楔の如き建造物。
ここは大地を貫き、空へと架かるその十二本の一つ、日本の大地に突き刺さったメイズ・バベルの内部――通称、迷宮だ。
バベルの名を冠すとおり、メイズ・バベルは天を貫かんばかりの高さを持つ。
そして、その中に広がっているのは異世界としか思えない自然と、未知の生物であるイヴィルの群れだ。
「授業にしてはハード過ぎるって」
曜は、そんな迷宮を授業の一環で探索していた。
高校生にして危険な迷宮探索に勤しむ。
未知に挑み、謎を究明し、悪魔の似姿たるイヴィルを討伐する。半世紀前の人が見たらフィクションだと指を差して笑うに違いない。
でも、これが今の当たり前だ。
半世紀前の架空は今や実在している。
この五十年でメイズ・バベルの探索は国家事業どころか、世界規模の事業みたいなもの。様々な企業が武器、携帯食料、通信機器といったメイズ・バベルの探索に関わる商品を事業の中心としている。
メイズ・バベルを中心に、世界は回っているのだ。
だから、メイズ・バベルの探索なんて危険なものがカリキュラムに含まれている学校ができてもおかしくない。それが就職に強く優秀な学校という地位を確立するのも自然な流れなのだろう。
将来性があります。
イヴィルの退治や、鉱石や植物といった迷宮内の未知の資源の採取などでお金も稼げます。
危険だけど、イヴィルから身を守る護身術が学べると思えばメリットです。
メイズ・バベルから溢れたイヴィルによる被害は日本全国どんな場所でも起きています。いくら離れようと無関係ではいられません。だからこそ、対処法を学びましょう。
そんな謳い文句はたしかに魅力的だった。
友達もできたし、色々と問題はあるけど学校生活は悪くない。べつに、曜はこの学校を選んだことを間違いだとは……思って……
「……やっぱ、間違えたかな」
迷宮の暴走という、とびっきりの不運に曜は揺らいでいた。
「ああもう、SOS信号を送っても返事すらないってどうなってんだ?」
ちょうど肩の近くに浮いている球形の通信機に叫べども返事はない。
きっと、迷宮が暴走したことにより、イヴィルが溢れて外も大変なのだ。
そうじゃなかったら悲しすぎる。
「というか……逃げ切れた?」
いつの間にか、後ろに高波の如く迫ってきていたイヴィルの群れが消えていた。
助かった。そう思って立ち止まった瞬間、曜の眼前は紅蓮に染まった。
「――――っ!」
燃え盛る業火が瑞々しい樹木を一瞬で灰にする。
皮膚がひりつき、目を開けることさえできなくなる。
一秒……二秒……三秒。
熱気が収まり目を開けば、森の一角は灰が舞う荒野に変わっていた。
(外れた?……いや)
違う。最初から曜を狙って放たれていないだけだ。
仮にあんな炎の奔流に狙われていたら、逃げることもできず確実に飲みこまれている。
そして、もしかしたらその方が良かったのかもしれない。
苦しむことなく、何も思うことなく、ただ死して白い灰となるほうが幸せだったのかもしれない。
「――緊急信号オン」
コマンドにより、ふわふわと曜の肩辺りに浮かんでいた携帯端末『アリアドネ』に小さな赤い光が灯った。
緊急信号。
通信機を介して学校の本部へ、そして、『天京』全体に危険を知らせる信号。
これは個人の危険を知らせる信号ではない。日本の首都である天京が危険と判断されたときにのみ許される信号だ。
「どこまでツイてないんだよ、今日の俺……」
感情が一周すると頭が冷えるというが、こういうことか。
この最悪を通り越した最悪を前にして、こうも冷静に緊急信号を使えるとは曜自身、意外であった。
「……こちら、天京南高二年三組所属、月城曜。現在、地下五階中心付近。天災級が目の前に出現。コードは――【焔魔狼】」
すでにこれは個人の不運から、全体の不運へと移行した。
それも最悪の不運だ。このイヴィルが解き放たれればメイズ・バベル付近どころか、天京含む関東全域が滅びかねない。
目の前のこいつは、そういう災害だ。
「繰り返します。地下五階に【焔魔狼】が出現……自分の目を疑いたいんですけど生息地であるはずの地下八階から上がってきています。ほんと、何でここにいるんですかね……」
およそ、五十メートル先にそれはいた。
夜闇のように黒い魔狼。その尾は大蛇。牙の隙間からは炎が零れ、あまりの熱気に空気が揺らいでいる。その姿はまるで、陽炎を纏っているかのようだった。
日本がメイズ・バベルの地下攻略を断念した元凶。
迷宮地下八階のほぼ全域を灰の海に変え、送り込んだ部隊をも焼き払った天災級のイヴィルが一柱。
映像でしか見たことがないそれを前にして曜は途方に暮れていた。
(どうすればいいんだ、これ)
メイズ・バベルの面積は旧首都である東京の三分の一ほど。
内部の迷宮もそれに近い面積であり、【焔魔狼】はその範囲を灰に沈めたのだ。高校生一人に対処しろというなら気が狂っている。
天京どころか、関東全域が危険といっても大げさではない。
こいつが外へ解き放たれれば、どこまでが危険で、どこからが安全なのかなど、本当にわからなくなる。
(他のイヴィルが消えたのはこいつがいるからか? それにしても、あの占いコーナー当たるなあ)
逃げたい。今すぐここから消え失せたいというのが曜の心からの本音。
しかし、帰り道はこいつが塞いでいる。
一体、何処へ逃げれば助かるというのか。
――そして、俺はあと何秒生きていられるのだろう?
黒い魔狼が顔を上げる。
その血走った視線が黒髪を汗で濡らした少年を捉え、
月城曜の命を懸けた闘争、ではなく逃走が始まった。