愛溢れる世界
それは偶然の産物だった。
とある脳科学研究者が見つけた伝達物質、それは後の世界に多大な影響を及ぼすものだった。
その伝達物質はこう名付けられた。「愛情受容ホルモン」
名前からするに、愛情を感じたときに脳内で分泌されるそれは、すぐに研究が進められ、やがて実用化された。
これの何がすごいのかと言えば、本来なら人間同士の触れ合いによってのみしか感じることが出来なかった「愛情」を、薬やサプリメントのように経口薬で接種できるようになった点だ。
愛情投与薬と名付けられたそれは、世界に瞬く間に浸透していく。
これにより、子育てが格段に楽になった。特に赤ん坊には愛情は不可欠なものであり、この愛情投与薬は大活躍であった。愛情というものは難しいもので、どれだけ愛情を注いだつもりでも、相手によって感じ方に大きな差がある。その点、愛情投与薬は万人に同じだけの愛情を感じさせることができる。
「何で泣いているのかしら」
「愛情投与薬をやってみたらどうだ?」
「そうね」
泣き止まない赤ん坊にそれを与えると、たちまち泣き止んだ。そして、両親が赤ん坊にかける時間が大幅に少なくなった。
思春期の子供にも愛情投与薬は有効で、これが実用化して以来、未成年の犯罪はほぼなくなった。
仕事に疲れた時、旦那の帰りが遅い時、反抗期の子供に、妻が冷たくなったと感じる父親に。
多彩な場面で愛情投与薬は活躍した。世界は愛に溢れていた。
「もしもし? 老人施設Bです。お母さまが危篤でご連絡しました」
はたまた、看取りの場面でも愛情投与薬は活躍する。
「そうですか。延命は不要です」
「かしこまりました。看取りにはいらっしゃいますか?」
「いえ、仕事が忙しくて。ああ、愛情投与薬を点滴でお願いします」
「分かりました。では、亡くなったら改めてご連絡しますね」
世界は愛に溢れている。泣かない赤ん坊、反抗しない思春期、仕事ばかりで会話のない家族、看取りの必要のない社会。
愛情投与薬は、世界を愛で満たした。
了