第4話 間違えたって良いんです
「『雨模様』という言葉は、雨が降りそうな時に使う言葉であって、既に雨が降っている時に使うのは間違いです。」
海老名先生の、か細い声が聞こえてきます。
関東地方の梅雨入りが発表された、金曜日の六時間目。
私・・・数学や理科は不得意ですが、父が国語の教師をしている事もあり、国語は得意なのです。
しかし、大好きな国語の授業の筈なのに、私の心は晴れません。
それは、梅雨空のせいでは無く、火曜日から音沙汰が無い、神出鬼没の筈の白い悪魔のせいです。
「嫌よ嫌よも好きのうち」と、からかわれるかも知れませんが、私だって鬼ではありません。
土曜日からの三日間という短い間でしたが、毎日会っていれば、情だって湧いてきます。
それなのに、チョコレートの風味もアプリへのメッセージも梨の礫です。
しかし、ナズナから連絡が無いという事は・・・地球征服を企む宇宙人が悪さをしていないという事ですから、「便りが無いのは良い便り」と考えるべきなのかも知れません。
でも、土曜日の鯨井さんも・・・月曜日の氷室先生も、運が良かったのです。
偶然、近くに私が居たので、二人とも助かりましたが・・・遠くで・・・例えば、北海道で被害者が出た場合・・・私が救助に向かっている間に、直接操られている人だけでは無く、周囲に居る人も・・・もしかしたら、北海道全域に死のエネルギーが充満してしまう事だって有り得るかも知れないのです。
もしも、今、北海道で事件が起きようとしているとしたら・・・学校を早退して、空港に向かわなければなりません。
「その必要は無いわ。」
・・・!
「・・・!」
・・・いやいや、私と同様に目を丸くされましても・・・。
「ハルナ、久し振り。」
「・・・お久し振りです。」
・・・いや、待って下さい。
あなた、今、此処に居て良いのですか?
驚きのあまり、呑気に返答してしまいましたが・・・此処は教室であり、現在は授業中なのですよ?
「周りを見ろ!見るんだハルナ!」
・・・周りと言われましても・・・通常の授業風景ですよ?
「良く見ろ!見るんだハルナ!」
・・・・・・ですから、教室で騒がないで下さいよ。
「五感を研ぎ澄ますんだ!」
・・・・・・・・・!?
言われてみれば・・・ナズナが騒いでいるのに、教室が静まり返っているのは変です。
右隣の見城君も左隣の寺尾君も、恐らく、一番前の席の萩原君も・・・動いていません。
「時間が止まっているんだよ。」
時間が止まっている・・・?
しかし、耳をすませば、先生がブツブツと何やら呟いています。
「・・・今日は、海老名先生なのですね?」
それにしても・・・いつから?
「五時間目の終わりには、『生のエネルギーの素』を仕込んでいたんだけどね。」
「えっ!?」
「チョコレートの風味にもクラスの異変にも気が付かずに、僕の事を想ってくれていたなんて・・・照れるなぁ。」
チョコレートの風味に気が付かなかった?
そんな筈は無いのですが・・・。
「そうだよねぇ・・・僕を待ちわびて、味覚には敏感になっていたはずだから・・・。」
・・・。
「もしかすると・・・『生のエネルギー』と共鳴しはじめているのかも知れないな・・・。」
「えっ!?」
「まぁ、四日前の氷室先生や、今日の海老名先生みたいに『死のエネルギー』と共鳴するよりはマシだと思うけどね。」
・・・確かに、今は、先生の救出が先決です。
「さぁ、産め!産むんだハルナ!」
「はい!」・・・と、威勢よく叫んで、スカートを下げたまでは良かったのですが・・・。
「・・・ナズナ。」
「何か問題でも?」
・・・白々しい。
あなたは、心が読めるでしょう?
「今日は、何故、人払いをしていないのですか?」
「・・・恥ずかしいかい?」
それは・・・そうに決まっています。
人払いされたショッピングモールやスイミングスクールとは、訳が違います。
・・・!?
・・・・・・まさか、四日前の意趣返しなのでしょうか?
もし、そうなら・・・許し難い事です。
「ハルナ・・・僕が、人払いをする意味は解るかい?」
「それは・・・勿論、宇宙人に操られた人が『死のエネルギー』を放出しているからです。私は『チョコレート=生のエネルギーの素』によって守られていますが・・・」
「ショッピングモールのお客さんや、スイミングスクールの生徒たち・・・全員を守る事は難しいからね。」
「そうです。ですから・・・」
「でも、今日は、時間が止まっているだけだから・・・心身に影響は無いよ。」
そうなのですか・・・それにしても、何故、こんな事に。
「海老名先生の授業が、糞つまらないからだよ。」
・・・?
「梅雨の季節に『雨模様』の話をする国語教師なんて・・・凡庸としか言いようが無いよ。海老名先生の退屈な授業は時間を長く感じさせてしまう・・・そんな彼が、宇宙人に操られたから・・・時間は止まってしまったんだ。」
・・・・・・さっさと、解決してしまいましょう。
ただ、クラスメイトが居る教室で卵を産む事は出来ませんから・・・トイレで産んできましょう。
「・・・あれ?」
引き戸が動きません・・・まさか?
「残念だけど、施錠させて貰ったよ・・・。」
「何故!?」
・・・そんなに、私を辱めたいのでしょうか?
「ハルナの席は廊下側だから、解りにくかったかな?」
・・・廊下側だと解りにくい・・・という事は・・・?
風に揺れる木々、流れる雲、電線で羽を休めているカラスたちはキョロキョロと首を動かしています・・・窓から外の景色を眺めてみましたが、日常と変わりが無い光景・・・?
「あっ!」
時間が止まっているのに、外の景色が動いているのはおかしいです。
「・・・時間が止まっているのは、教室の中だけという事なのですか?」
「正解。」
「・・・もし、戸を開けたら?」
「世界中の時間が止まります。」
・・・!
「地球全体の時間を元通りにする・・・そんな都合の良いアイテムが出て来る保証は無いよ。」
・・・!
「それでも、君がトイレで産みたいというなら、僕は一向に構わないんだけどね。」
・・・ぐうの音も出ません。
世界中の人々を巻き込む事を考えれば、教室内で解決してしまった方が良いのは火を見るよりも明らかで・・・?
ちょっと、待って下さい。
「人払いをしておけば、クラスメイトを巻き込む事も無かったのではないのですか?」
「それじゃ、授業が始まらないよ。」
・・・!
「教室に生徒が揃っているからこそ授業は始まり、生徒を楽しませるような授業が出来ないからこそ時間は止まってしまった。」
それなら、授業が始まらなければ・・・いや、そんな事を考えるのは間違いです。
「何を間違っていると言うんだ・・・『授業が無い学校』・・・最高じゃないか?」
「だって、学生の本分は勉強じゃないですか!」
「うわぁ・・・つまんねぇ・・・海老名先生の授業よりも下らねぇ・・・。」
・・・。
「それなのに、海老名先生は不人気なのにハルナは大人気なんて許せねぇ・・・。」
・・・・・・意味が解りません。
「天然ボケが魅力の美少女さんは良いっすよネェ・・・上級生からも同級生からも愛されてサァ・・・海老名みてぇなオッサンとは違いますわ、そら。」
・・・・・・・・・水泳部の先輩は良くしてくれていますし、クラスの友達とも仲良くさせて頂いています。
しかし、二十代の海老名先生を「オッサン」と揶揄するのは如何なものなのでしょうか。
そもそも、海老名先生とは入学以前から・・・兎に角、悪口を聞きたく無いのです。
「あっ!?」
海老名先生が、引き戸を動かそうとしています!
「ヤバい!ヤバいよハルナ!」
「でも、施錠してあるのでしょう!?」
「引き戸を動かせなかったとしても、硝子を割られたら一巻の終わりだよ!」
ナズナが、珍しく焦っています。
彼らの技術力を以ってしても、地球規模の時間停止を回復するのは難しいという事なのでしょう。
「仕方が無いですね・・・。」
「頑張れハルナ!さぁ、覚悟を決めて、秋一君が居る教室で産め!産むんだ・・・ぎゃっ!?」
気の毒ですが、体操着の袋でナズナの身体を覆ってみました。
今のうちに・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・えっ?
「・・・・・・・・・ぷはぁっ!何するんだ、ハルナ・・・って、割ってる!?」
確かに、産みました。
そして、割りました。
しかし、これは・・・?
「教室の隅で恥じらいながら出産するハルナを見逃すとは・・・痛恨の極みだよ!」
いや、そんな事は、どうでも良いんですよ。
「これは・・・どういう事ですか?」
「『黄色いスピーカー』。これで海老名先生の名前を呼べば、彼の自我を呼び覚ます事が出来る。」
デジャブです。
「出産少女としての誇り、魂みたいなものは家に置いて来たのかい?」
・・・?
「『黄色いスピーカー』を、君の部屋に置いて来たんだね?」
「いや、ちょっと、待って下さい!?普通、持って来ないでしょ・・・と言うか、同じ物が出て来るなんて思わないじゃないですか!?」
「ハルナ、時間を動かしても事件は解決しないんだよ。」
デジャブです。
「言い忘れてたけど、基本的に、『死のエネルギー』と共鳴している場合は、『黄色いスピーカー』は必須だよ。」
「大事な事じゃないですか!」
・・・今後は、学校にも常備しておきましょう。
「・・・あっ!?」
海老名先生が椅子を持ち上げています!
硝子を割られたら、一巻の終わりです!
ええと・・・「言葉なんて自然に湧いてくるものさ。」・・・でしたっけ?
『海老名先生・・・着席!』
次の瞬間、海老名先生は持ち上げていた椅子を下ろし、綺麗な姿勢で座ってしまいました。
流石、「黄色いスピーカー」・・・効果は抜群です。
「・・・芹澤・・・。」
・・・。
『海老名先生・・・もっと大きな声で話して下さい!』
『授業が面白い面白くない以前に、先生の声が聞こえないのでは話になりません!』
『・・・・・・・・・あっ!?』
海老名先生の声が、余りにも、か細かったので・・・思わず、言葉が自然に湧いてきてしまいました。
先生はキョトンとしてしまっていますし、ナズナからの視線も痛いです。
しかし、今更、路線を変えるわけにもいきません。
『・・・先生の授業が面白いとか面白くないとか・・・そんなのは、主観の問題ですから、重要な事ではありません!そもそも、授業が面白いものである必要など無いのです!』
「異議あり!退屈な授業が僕たちの全てだと言うのかい!?」
『意義を却下します!』
「うっ・・・。」
『海老名先生に非が有るとするなら、それは、先生の授業から国語教師としての誇りや魂のようなものを感じられない事です!』
「俺のや!俺の面白いやつや!」
『ナズナは、黙っていて下さい!』
「ううっ・・・。」
『海老名先生。』
「・・・ハルナちゃん、僕は、怖いんだ・・・。」
海老名先生は、父の教え子だったのです。
小さい頃から可愛がって貰いましたが、最後に「ハルナちゃん」と呼ばれたのは・・・入学式の前日でした。
教師と生徒の関係ですからね。
「・・・僕の理想は、芹澤先生だった。」
「芹澤先生のように、面白い授業をしたい・・・しかし、どんなに試行錯誤をしても、あの人のような授業は出来なかった・・・。」
・・・残念ですが、異議ありです。
『・・・・・・海老名先生。』
『御言葉を返すようですが・・・私には、今の先生が試行錯誤をしているようには思えません。』
「・・・・・・新任の頃から数年間かなぁ・・・頑張れていたのは・・・。」
「報われない試行錯誤を繰り返していくうちに・・・いつの間にか、芹澤先生に近付く努力を止めてしまった・・・。」
「ごめんね、ハルナちゃん。」
「僕は・・・間違えるのが怖くなってしまったんだ。」
海老名先生・・・宇宙人に操られてしまうほど、気に病んでいたとは・・・。
私の言葉だけでは、先生を救うのは無理です。
・・・父の口癖を、借りようと思います。
『海老名先生。』
『間違えたって良いんです。』
『「理想に近付こうとして、挫折した。」・・・誰でも経験するような、ありふれた間違いです。』
『間違えて間違えて・・・いつか、誰にも出来ないような間違い方を出来るようになるまで間違えて下さい。』
『誰にも出来ないような間違い方を出来るようになった時・・・海老名先生は、誰にも辿り着けなかった正解に辿り着き・・・私の父に勝るとも劣らないような、素敵な教師になっている筈です。』
「・・・!」
「・・・・・・ハル・・・いや・・・芹澤ハルナ。」
「・・・ありがとう。」
涙声を残して、海老名先生は眠るように気を失いました。
しかし、事件は解決していないようです。
何故なら、クラスメイトが動き出す気配が無いからです。
そして、チョコレートの風味を感じているからです。
「引き戸を開けても、時間の捻れは戻らないからね。」
一応、抵抗してみます。
『ショッピングモールの時も、スイミングスクールの時も、出産は一回だけで良かった筈でしょう?』
「ショッピングモールの時は死のエネルギーを帯びた粘液自体を浄化するアイテムだったし、スイミングスクールの時に死のエネルギーを帯びていたのは氷じゃ無くて冷気だったからね。」
・・・はいはい、解りましたよ。
それでは、もう一度だけ・・・体操着の袋を被って貰いましょう。