一兵卒の躁鬱
(ニュースは聞いたか? 今年はクインズの勝ちだ)
(最後のタッチダウンはエドリーリャですぜ。まさかのフルバックがワンオンツーの状況でインターセプト、そのままタッチダウンですよ。隊長信じられますか?)
(晴れの日だったからな。エツィオは機動力に欠ける。次は雨の日のフォアード戦が良いね)
(タックルばっかの試合は動きがなくてつまらん)
(へっ、これだから素人は。あ、エアちゃんはラグビーとか興味ある?)
ぼくらの歴史はこの時始まった/終わった。
そいつはちょうどガムテープでぐるぐる巻きに貼り付けたダップ。ぼくはそのうち、ハウリングじみたカントリーミュージックをオフボーカルで垂れ流し、棺のようなコクピットに死者のふりして缶詰まるのが役目と言い換えてもいい。
神は死にいまし、世はすべてこともなく世界はその日も軒並み平和。光を吸い尽くす潮は、不規則に揺れ動く微細な粒子によって、前照灯から発せられるひと筋の青に染まる。あぁ、なんてブルーな世界だ。これは深い悲しみの色だ。そして今を生きるヒトの総意だ。こいつは全人類を弱らせ鬱病によって滅ぼさんとする慈悲の光だ。
だからぼくらは火を灯そう。青が悲しみであるのなら、補色の赤はなんになる?
ダダダダダ。ダダダダン。堕天した天使ふうの竜。その顎部に備わるフレッチャーが火を吹く。水冷リボルビング方式の弾倉が回転して、二十ミリの鉄塊が水を切る。曳光弾が尾を曳いて、深淵に呑まれる。
(世界はピーティーエスディだ! どこも、かしこも!)
(そうだなエア。わかったから取り敢えず、銃を撃つのは止めておけ。整備班に怒られるぞ)
(安物だからいいではないですか。ハイペネ以外だと、十メートル持たずに豆鉄砲ですよ)
(世話の焼ける……)
平和が歴史の鬱ならば、戦争は歴史の躁となる。これから終わりを告げるのは鬱々しい平和で、始まり続くのは戦争の歴史だ。戦争をやるなら、歴史は躁を望んでいるに違いない。
(――ヘッドクオーター。こちらエーダブルエーシーエス。デルタ・アイ。レーダに敵艦を捕捉した。恐らくシオン同盟のものと思われる。確認されたし)
(ヘッドクオーター了解。該当区域にスクランブルをかける。オーバー)
(敵の網に引っかかったな。アルグノテラ)
無線が傍受するのは、戦争的にすべてのヒトを敵と味方と中立に区別したときの、敵側の哨戒班。
次に予想されるのは、スクランブル発進したナヴァリア連邦諸国の機体が約十分も経たずにこの帯域に到着。敵と敵の敵が出会ったときにどうなるかなんて、火を見るよりも明らかだ。
(私はアルグノテラ艦長のネモだ。勇敢なるシオン兵同志諸君。カードの手を止め、しばし耳を傾けて欲しい。偵察隊が聞いての通り、我々アルグノテラは既に捕捉されており、領域を侵犯すること明らかな状況に置かれている。我々の果たすべき義務を鑑みるに、また平和に呆けた対応を期待すれども、約一千年ぶりの戦闘状態に発展することいっさいの疑いはない。死人が出るのは避けられないだろう)
過剰に生成されたノルアドレナリンが、太古に墜ちた星々の幻をぼくに見せる。座っているのに立ち眩むなんてどうしたっていうんだ。貧乏揺すりが止まらなくなって、乾いた喉を焼けるようなアルコールで潤した。
これから戦争が始まる。
(だが全てにおいて問題はない。やるべきことはただ一つ。『方舟』を回収せよ。行く手を阻む敵は叩いて潰し、船頭足る同盟の名を世界に知らしめよ。シオンに栄光あれ。我々はこれより時代の尖兵となり、一千年越しの宣戦を布告する――総員、第一種戦闘配置につけ)
艦長の宣言と、はっきりとした認識にぼくは戦慄を覚えて息を呑んだものだ。
ぼくは確かに歴史の節目に立ち会った。当事者として。
全ての平和と戦争を終わらせるための戦争。方舟戦役のその発端。
でも、その時の気分は高揚ともつかず、なんとも夢現だったことを先に言っておきたい。きちんとした始まりがある訳じゃなくて、唐突にやってくるというものでもなかった。誰もが本当に信用しきっていない漫然とした空気のなか、状況だけがただ滑っては転がって、ぼくはその上で何者かに踊らされていたのだ。そうしてすべてが終わった後になって、そういえばあれが始まりなんだとしみじみする。
ともかく戦争は始まった。
天使たちが徒党を組んで、ヒトの世を滅ぼさんとラッパの代わりに百五ミリ滑腔砲や四十ミリ機関砲を担いで楽園に向かう。
彼らに口があるのなら、きっとこう叫ぶだろう。
ハレルヤ! ハレルヤ!
じりじりと何かを焼いているようなロックオン警告。続いて鬼気迫るサイレンが鳴る。のっぺりとした弾頭の魚雷が魚群のような密度と量で、泡を吐きながら迫ってきた。あのうちどれかひとつが掠めただけで、ぼくは死ぬ。潮の手のひらによって、蚊のように叩き潰されて死ぬ。
だが、まだいい。あれは無誘導弾だ。あるいはリモコン操作。泡の陰に隠れた本命、サイレンのもととなるとりわけ巨大な戦闘マシーンが、音もなく高速で接近する。想像しただけで嫌な汗が止まらなくなる。そいつはきっと弾をも弾く翼を生やし、大砲を持つ腕を生やし、天使じみた竜のような姿をしているに違いない。いや、ぼくが今乗るこれは天使でも、ひとたび敵が乗ればそれは天を堕した殺戮の悪魔だ。
さぁキックオフ。ロックンロール。ゴッドスピード!
視界を奪い、あわよくば殺そうと群れる魚雷群をぼくらは避ける。
右に。左に。上に、下に。ここはどこを向いたって深淵だ。障害物はないけど、ただ避けるには広すぎる三次元空間が茫然と続いているせいで、平衡感覚が著しい異常をきたす。
ぼくは酔ってしまった。遺伝によって血より引き継いだ躁鬱病の、退いては満ちる気分の波に揺られてぼくは酔いしれる。
明滅。刹那の輝き。バブルパルスが起こる。ぼくらを殺すのは火や鋼の破片だけではない。普段吸っては吐き出している空気さえ、ここではぼくらに牙を剥く。厳しい訓練と運命の悪戯によって精鋭の部隊に時を同じくして入隊した、ぼくの同期のシグナルが消失した。
くそったれ。
唯一の同い年なんだぞ。
この部隊はベテラン揃いだ。シオン同盟国家群第三軍団。単独で長期間の任務を遂行可能な隠密部隊と銘打って編成された一個連隊。心身ともに屈強な者を集うわけだから、平均年齢はもちろん高い。下の毛すら生えていないぼくが採用されたのは書類上のミスだと思うけど、彼は少なくとも天使の操縦に関しては本物だったのに。
ぼくは吠えた。ここで魚のエサになるのは御免だ。飛び交う死線を潜り抜け、天使の戦列を食い破らんと推進機関が叫ぶ。
天使はぼくの電気的な命令に対してとても素直だ。スロットルレバーによって速さに緩急をつけて、ハンドルを右に倒せば右に、左に倒せば左に揺れる。トリガーを絞れば各種砲を撃ち、射程内でボタンを押し込み剣を振るう。
すれ違いざまに繰り出す、抜刀術じみた高速の一閃が天使の首を刎ね飛ばす。
潮の青が紅色に染まった。ぼくの初めてを奪った、処女の血。首から下だけの天使を盾にとって、ぼくは砲を撃つ。
ぼくらはちびらない。怯えない。一歩たりとも退いたりしない。敵にあらん限りの衝撃と畏怖を与えんがため、氷点下の心でトリガを引き絞る。四十ミリガトリング機関砲がスピンアップ、闇雲に向けてミニサイズの砲弾が殺到する。ハイパーペネトレーションは画期的だ。潮と弾丸の間に空気の層を形成し、そのために恐るべき運動エネルギーで猛進する。
腕で構えろ。心で撃て。毎分二千発の嵐と化した鋼鉄が降り注ぎ、天使の頭に一輪の彼岸花が咲いた。天使のカメラが捉え、コクピットのスクリーンに映し出す映像と幻視が重なる。ガンナーズハイだ。幻聴がぼくを苛む。ぼくを見る目がぼくにそっと囁く声で、ちくちく胸が痛む。
さっきから無線の調子がおかしい。敵方の声が頭に奥に響く。
ファック。シット。糞くらえ。
罵詈雑言と断末魔、言葉未満の叫び声が戦域を溺れ飛び交う。放っておいても死ぬだけの世界で、今更どうして戦う必要がある?
ちくしょう! それはお互い様だ。『方舟』なんて得体の知れないもののために、どうしてぼくら精鋭が先陣切って回収に向かうのか。
いや、得体は知れている。だが、あれはおとぎ話の産物だ。潮に沈んだ世界から脱出するための唯一無二の方舟。上昇するほどに密度と重さを増していき、ヒトの体をサイコロほどに縮めてしまう圧力に曝されて軋みもしない舟が、これから向かう先にあるという。
ヒトはいったいどういう訳か水圧に偏りある領域、偏圧帯のなかでしか生きてはいけない。だが、これは世界の取り決めであって、リンゴが木から落ちるのと同じ理由に違いない。
常識を無視し、ファンタジーに踊らされた軍上層部をぼくは心から憎む。そして怒る。
鋼鉄のノルアドレナリンが風防を跳弾し、ぼくの恐怖を煽る。アドレナリンが敵を滅せと轟き叫ぶ。
呼応する天使は同族の亡骸を棄てると、軸を背に向けおおきくバレルロールして、巨大な翼で鋼鉄の弾丸を雨のように弾く。動きは躍動感に満ちてテンポがある。ちょうどダップが流すカントリーミュージックにあわせて。
天使はとても気分屋だ。
操縦系統にない細かな運動は条件反射的なプログラムによるものだが、それは多数のバリエーションに富み、パイロットの心情に深く依存した動きを見せる。人馬一体の動きを可能とするのは心を解析し、行動を最適化し自動化するエス・システム。ぼくらの使う無線も天使が心を読むことによって作動している。窓は常に開かれているか、誰に対しても閉じているかを自分で決めることなど出来ない。
言うまでもない。これはとても危ういシステムだ。場合によってはパイロットの心を壊してしまう。
でも構いはしない。初めから欠けては落ちてばかりの精神だ。
撃つ。撃つ。撃っては切る。バックグラウンドには故郷の歌を。躁鬱患者に妄想的な自己破壊を。差し伸べられる手のひらがなくとも、ぼくらは死なない限り生きるしかないのだから。
(エア。おい、大丈夫か)
(え……)
微振動する剣先に、天使の亡骸がぶら下がっている。
長めの首と細く尖った頭。コクピットがあった部分はほじくり返されていて、パイロットは見当たらない。各部の装甲は純白に塗装され、肩にはエーデルワイスがペイントされている。高貴さ。純潔。身体を捻り、それらを纏めて遠心力で投げ飛ばす。
個人の思うところはともかく。
そこにはひとつの結果がただある。
ぼくらが、敵を殺し殲滅した事実。
あっという間に戦闘は終わってしまった。だというのに天使が辺りを漂う残留思念を敏感に受け取り、頭の中は未だに亡者の怨嗟がまとわりつく。遅ればせながらと、胃から黄色い液体が飛び出した。
(じき馴れる)
(被害報告)
(こちらは一名死亡)
(それだけか)
(それだけだ。さて露払いはお終いだ諸君、ハーフタイムに突入しよう)
感情をすべて戦場に置き去ったような物言い。
お小言ひとつ漏らさずに、ぼくらは戦場を後にする。
ぼくは言う。
(ほら。やっぱり世界はピーティーエスディーだ)