第3話 人蛇ラミウス
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ホールの玄関口から外に出た。
庭師の手入れが行き届いた低木や花壇は、それぞれが持つ明るい色を失って、すっかり夜の影になっている。
ラミウスはホールの明かりが漏れる大窓から離れると、屋敷の角に手をついてしゅるりと大きく回り、レナーミアの方に顔と体を向けた。
「……ラミウス」
「お久しぶりでございます、レナーミア様」
ラミウスはレナーミアが後をつけていることに気がついていたようだ。
「こうしてお話できるのも、実に四年ぶりになるのでしょうか。また貴女にお会いできる日を、この蛇はずっと心待ちにしておりました」
ラミウスはいつも、起立した人のように蛇の体の一部を立たせている。地面から頭まで一八〇センチくらいだろうか。
蛇の全長を合わせば、イオルフよりずっと大きいが。
大人しげな切れ長の目と、さらりと流れる繊細そうな髪が、どこか妖艶な雰囲気を漂わせている。
「……先程は無礼な態度をとってしまい、申し訳ございませんでした」
「え?」
「開宴前のことです。貴女がわたくしに視線を送っていたことに気がついておりましたが、何のご挨拶もできませんでした。ホールでの演奏にとても緊張していたもので」
ああ、とレナーミアは合点する。
「気にしなくていいのよ。演奏、とてもよかったわ」
「お褒めいただき恐縮です」
胸に手を当て、会釈するラミウスの動きはこなれている。紳士的なところは依然として変わらない。一歩引いているところも。
「控え室では休まないの?」
「腕を動かしすぎて、熱を帯びてしまいましたから。外の冷えた空気に肌を慣らそうかと思いまして」
蛇の魔物の特性で、ラミウスは自分で体温調節をすることができない。
しかし、筋肉を動かせば発熱はできる。部分的な熱にしかならないが。
冷えた空気に触れようとするのは、腕に篭った灼熱感を早く消したいということなのだろう。
「……しかし、レナーミア様は以前より背を伸ばされましたね。可憐なところはそのままに、一層美しくなっていらっしゃる」
「大袈裟よ」
「いいえ。本当にお美しくなられましたよ。貴女の母君様にもよく似てきました」
「……」
亡き母の話から病に倒れた父を連想して、レナーミアは黙ってしまう。また不安になってきた。
「どうかされましたか?」
「……ねえ、ラミウス。ラミウスはもうお父様にお会いしたの?」
ラミウスは少し間を置いてから、「はい」と答えた。
「正直に申しますと、お元気そうだとは言えません。グアナー様はいつも快活で、疲れ知らずなお方のはずですが……」
「やっぱり、そうなのね」
「ですが、諦めることではありませんよ。今までお風邪を引かれたことがないのですから、元のお体も強いはずです。必ず良くなられると、わたくしは信じております」
「でも、そんなお父様が倒れられるくらいなら、相当悪いものよね。何のご病気かしら?」
「すみません、そこまでは……ドルゼスト様のお話ですと、すでにお腹や肺に水が溜まってしまっていると、お医者様から伝えられたそうです。高い熱に二度うなされていらっしゃったとも、お聞きしています」
「……」
「まだ倒れられて間もない頃は、グアナー様にお目通りすることが叶いませんでした。お部屋に立ち入ることを禁じられおりましたから」
「悪い風邪なのかしら?」
「……年相応の衰えはあるのかもしれませんね」
四十歳を過ぎると、何らかの病気にかかりやすくなると、この国では言われている。
六十代で高齢者と言われる社会であるため、四十歳から五十歳の間で大きな病を起こすことも珍しくはない。
「私、不安で仕方がないの。私の知らないところで、とても大きな問題が起こっていることに。今日の夜会でも、お兄様やイオルフが忙しそうにしていた。十年前お母様を亡くした時みたいに、誰も悲しい思いをして欲しくないわ。私も悲しくなりたくない」
願わくば、幸せなままで。何も変わらないで欲しい。けれど。
「……学業を言い訳にしないで、一度でも帰って来ればよかった。今のお父様の状況も、ツェルナリオ領の現状も実感がなくて、自分がまるで部外者みたいなの。せめて少しでも、何か、私にできることはないのかしら?」
「……」
ラミウスは、白いタキシードのポケットから何かを取り出すと、それを両手で挟んでから軽く握り込んだ。
指の第二関節と第三関節の間を揃えて拳をくっつけると、両親指を上に立てたまま、レナーミアの前に差し出す。
「"右と左。どちらを望みますか?"」
レナーミアはそのセリフに覚えがあった。ラミウスとレナーミアだけの、"秘密の遊び"だ。
ただの当てっこゲームなのだが、何か別のことに気を取られているレナーミアに対して、気分転換や話題転換のためによくやってくれていた。
二択に見えて、実は三択である。
"右"か、"左"か、"両方"か。拳をくっつける形のため、ちょうど真ん中に「お宝」があることもあるのだ。
「……ええっと……左!」
ラミウスが左の手を開く。紙に包まれた小さな焼き菓子が乗っていた。
「正解です。おめでとうございます」
レナーミアは「お宝」を拾うと、嬉しそうに微笑んだ。
「懐かしいわ。ラミウス、いつもお菓子のある場所を操作していたわよね」
「おや。知られてしまいましたか」
「最初から分かっていたわよ。あるはずなのになかったり、ないはずなのにあったり」
やっていることは子供騙しであるため、思春期より少し前の年齢になれば仕掛けを疑うだろう。
捻くれた子供ならば、不正に腹を立てるかもしれない。
しかし、かねてからのレナーミアは、純粋に菓子をもらえることに喜んでいた。
ラミウスの持つ菓子は貴族のお茶会や夜会で出されるようなものではなく、一般市民が買う安い駄菓子だ。幼い時のレナーミアにとっては、逆に物珍しかった。
「よいお顔になりました。辛い時こそ、笑おうと努めることが大切です。グアナー様にも、その笑顔で接して差し上げてください」
「……そうね」
周りの辛さを少しでも和らげてあげるのが、今の私にできることよね。
一番辛い思いをされているのは、きっとお父様よ。
手の上にある菓子を眺めながら、レナーミアは決意した。
「……でも、どうしてこのゲームは誰にも内緒なの?」
菓子を食べ過ぎれば兄やメイドたちに叱られるが、隠して食べるほど厳しくはない。
得体のしれない駄菓子でも、「ラミウスからもらったのよ」と言えば、取り上げられることはなかった。
「それは、貴女と秘密を共有したいからですよ」
ラミウスは口元に人差し指を立て、真意を隠す。
「ラミウスは、大人になってから秘密の意味がわかるって言っていたけれど……未だにどうしてもわからないわ」
「ならば、知り得るのはもっと大人になってからですね」
「もう私は十八歳のレディよ。いつまでも子供扱いしないで頂戴」
「クスス……」
「ねぇ、答えを教えて?」
「駄目です。わたくしはいつまでも貴女が知り得ないことを願っておりますから」
「……もう!」
困ったように眉尻を落とし、しかし口の端は上げて。レナーミアは腕を組む。
ラミウスはスーと舌を出して、愉快そうに微笑んだ。
「そうご立腹なさらないでください。お詫びとして、どうかこの蛇と踊っていただけませんか?」
柱のような体を大きくS字に曲げて、ラミウスはかしづく。
「あら、子供を誘うのかしら?」
「いいえ。わたくしは一人のレディをお誘いしております」
「……ふふ。わかったわ。"喜んで"」
諦めたような笑顔で形式的な言葉を述べたレナーミアは、差し出された手の平を柔らかく受け取った。
ラミウスはふと、繋がった手に視線を落とす。
「……ラミウス?」
レナーミアが首をかしげる。
「何でもございませんよ」と、蛇は笑い。レナーミアの手の甲に、一瞬だけ唇を寄せてから、するっとまた体を直立させた。
「本当に、時は早い。飲み込めそうなほど小さかった貴女が、もう立派な淑女になられて……周りの何もかもが、変わっていってしまう」
そういえば、ラミウスってこんなに背が高い人だったかしら?
レナーミアも回想する。
脱皮で体が長くなったのかしら?
華奢だった腰周りも少し太くなって、以前より男らしくなっている気がする。
変わっていく。
良いことも。悪いことも。
「そろそろ戻りましょうか」
「そうね」
手を取り合ったまま、二人は明るい宴の中に戻って行った。
小夜会の賑やかな空気が、陰鬱になりかけた心を吹き飛ばす。
後半の伴奏は、ラミウスの師匠である大きな熊の魔物が担当のようだ。
陽気で速いワルツが流れている。夜会の終盤でよく流れる曲だ。
……でも、ラミウスと踊れる日がくるなんて。
ラミウスがまだ見習いだった頃、彼はいつもフロアの隅に立つだけで、催されるどのパーティにも参加という参加をしていなかった。
舞踊に音楽は不可欠だ。例え使用人たちの開く夜会だろうと、音楽師にかかるプレッシャーというのは大きい。
別に、ラミウスの師範が厳格であるというわけではないのだが。「夜会は仕事場だから、参加はあくまで勉学のためであり、遊びではない」と、指導されていたそうだ。
逆にレナーミアが「誰かを踊りに誘わないの?」と聞いても、いつも柔らかく遠慮されていたのである。根が生真面目なラミウスは、師匠の言いつけに忠実だった。
でも、ラミウスって、どうやってステップを踏むのかしら?
レナーミアはラミウスの足のない体を見てずっと疑問に思っていたが……実際に踊ってみると、答えは簡単だった。
「ら、ラミウス……」
「はい」
「もう少し体を離してほしいわ。動きづらいの」
レナーミアの体は、ラミウスにぴたりと貼りつくような形になっていた。
男性が女性を支えるのではなく、抱き寄せているような状態である。
「……こちらからお誘いしたにも関わらず、ご迷惑をおかけして申し訳ありません……」
ラミウスは萎縮した声色で、曲に合わない必死な踊りを詫びた。
「これでもだいぶ練習を積んだつもりでしたが。音を奏でるのは得意でも、踊りはどうも苦手でして」
「蛇にステップは難しいのかしら?」
「そうですね。あまり、小回りが利かないもので。相手にしがみつくようにしなければ、うまく回ることができません」
ラミウスが今まで夜会に参加しなかったのは、この問題もあったのかもしれない。
使用人たちの何人かが、レナーミアとラミウスのペアを心配そうに見守っている。
一番の主役と下手な踊りをして恥をかかすなど、失礼極まりないことだが。文句の声は上がらなかった。
今宵は無礼講だから許されるという理由ではない。
人の失敗や不器用さを滑稽だと笑う者こそ、レナーミアの機嫌を損ね、咎められるからである。
「レナーミア様、顔が赤くなっていらっしゃる。踊れぬ蛇の誘いにのってしまったことを、後悔しておられますか?」
「そ、そうじゃないの……身内やイオルフ以外の男の人と、こんなに密着したことがなかったから」
ラミウスはスーと舌を出す。声は申し訳なさそうにしていたが、顔はどこか嬉しそうだ。
「……本当はずっと憧れておりました。レナーミア様と、こうして二人で踊ることに。今宵は一生の願いが叶えられた、最高の日です」
「……」
「この蛇の我儘を受け入れていただき、ありがとうございます」
ラミウスはいつでも紳士的だ。
紳士であるゆえに、本音を隠す。
時々、何を考えているのかわからないこともあるが……幼い時から見上げていたラミウスの目は、いつも親身に溢れていて、優しかった。
「私も、ラミウスと踊れてよかったわ」
昔ながらの無邪気な笑顔で、レナーミアはお礼を受け取った。
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夜会が終わった後。
蛇は、熊の師範よりも早く帰路についた。
ラミウスは普段において、とても生真面目な性格だが。今回だけはどうしても急ぎたいことがあった。
ささっと鍵盤の手入れを済ませ、「体調が優れない」と師範に嘘を吐き、帰宅を許可してもらったのである。
レナーミアは気がついていない。
この蛇男が、どのような意図で踊りに誘っていたのか。
何故無様な動きで恥を晒してでも、レナーミアと踊ろうとしていたのか。
……ああ、レナーミア様。
蛇の魔物は、スーと赤い舌を泳がせる。
成長されても、依然と変わられず、お優しかった。
憧れの貴女と触れ合えるなんて。本当に夢のような時間でした。
「クスス……」
レナーミアの無邪気な笑顔を思い返して、思わず笑みが溢れる。
一体、貴女はどこまで無垢なのか。
あのお菓子当てゲームの真意に、まだ気がつかれていなかったとは。
『"右と左。どちらを望みますか?"』
……あの言葉は本来、わたくしと夜を共にする相手に囁くものです。
どういうことかと?
ヒントは、掲げる拳の位置です。
もちろん露骨なことはしておりませんが。
雄蛇の体の特性を知れば、右か左かを問う理由も、すぐにわかりますよ。
まだ少し手に残る、人間の体温を逃さないように。蛇は強く拳を握る。
催した欲望に、ぞくぞくと体が疼く。
ああ、早く。早く、一人で楽しみたい……!
レナーミア様。わたくしはずっと昔から、こうして貴女をお慕いしております。
四年間満たしきれなかった胸の中が、貴女への愛で溢れている。
これからの夜も、熱い夢にうなされそうだ。
レナーミアの体つきを忘れないように思い返しながら、嬉々として道を急ぐ蛇男だった。