第12話 大蜘蛛キド
前回のあらすじ:あ!野生の大蜘蛛が飛び出してきた!
読了予測:15分
大蜘蛛キド。
蜘蛛の腹部を持つ、鉄紺色の半人。
人のような顔の上には、真っ赤な小さい目と大きい目が、上下に四つづつ並んでいる。
頭から蜘蛛の腹の先までの長さは、人間の大人と同じくらい。胸の脇からは四対の長い脚が生えており、全体像を大きく見せている。
また、頭に近い第一歩脚は、硬く太い。大蜘蛛の特徴とされる、剣脚と呼ばれる武器である。
ユパニガルは首から下げた牛角の笛を持ち上げ、唇を当てる。
ぶーーーーーん……と低い音が、草原に広がった。
その音を聞いたキドが顔を上げ、馬車の上から迷惑そうに、御者と兵士たちを見下ろした。
「……その音は耳障りダ。折角の再会に水を差すなヨ」
笛を下ろしたユパニガルが、キドを睨む。
「そこから降りろ、大蜘蛛!ここはお前が来ていい場所ではない!」
「黙れ馬車馬ガ!!」
びゅっとキドの剣脚が振るわれた。
切られた風を胸の前に感じ、ユパニガルは後ずさりをする。
「……っ」
何もできない自分が不甲斐なくて、ユパニガルはぎりっと歯を噛み締めた。
彼はただの御者であり、戦闘訓練を受けた兵士ではない。丸腰でキドに近づけば、切り裂かれてしまう。
ユパニガルはキドを知っている。
仕事中に何度か目にしたことがあるからだ。
だが、レナーミアを運ぶ途中で襲われたことはなかった。
キドはレナーミアを狙って現れるから、城郭町周辺に潜むことが多い。
そのため、兵士たちが定期的に巡回をしている。
キドを見かけた場合、誰かが角笛を吹けば、魔王伯爵と魔物の兵士がすぐに駆けつけて、追い払ってくれていたのだが。
……レナーミアが留学してからは、大蜘蛛を全く見かけなくなった。兵士の警備は続いていたらしい。
三年という年月が経ったせいで、兵士の警戒が鈍ったのか。それとも怠慢になっていたのか。
キドはツェルナリオ領の住民ではなく、領外に棲む、野生の魔物である。
野生の魔物は残忍で凶暴だ。人を殺すことも躊躇わない。
安易に接近したり、話しかけたりしていい魔物ではない。
「キド!」
レナーミアの声が、馬車の中から響く。
「キド、人を傷つけるのはやめて! ユパは貴方を攻撃しないわ!」
「邪魔者を払っただけだヨ」
キドはしれっとレナーミアの言葉に答えた。
「ここは騒がしいからサ。ねェ、降りておいデ。何処かに行こうヨ。二人きりになれる場所にさァ」
「……」
レナーミアは困った顔をして答えない。
しかし、キドは返事を待つ気はないらしい。
剣脚をガンと馬車に叩きつけて、壁に刃物で抉ったような傷をつけた。
馬車はほとんど木製である。
貴族が乗る豪華な作りのものではなく、大きな板で上下左右、前後をシンプルに囲んだものだ。その板をくりぬいた空間が、窓として機能している。
外開きの扉は蝶番がついており、閂で勝手に開かないように固定されているが。閂が折られるか、それを通す鎹の部分を壊されたら、扉は意味をなさなくなる。
キドの剣脚がバシャンと窓を砕いた。それでもレナーミアを引きずり出すには幅が足りないと感じたらしく、また何度も壁を打つ。
一人の小鬼兵士が居合の声をあげて、剣脚の内側に細槍を突いた。
とすん、と深めに刺さる。
キドは、ぎろりと兵士に視線を移す。そして蚊を散らすように、ぶんと槍ごと兵士を払い飛ばした。兵士はころころと後転した。
「キド……!」
「出てきてヨ。ボクも無駄な喧嘩はしたくないからネ」
レナーミアは降りない。
代わりにまた言葉を述べる。
「キド、角笛が吹かれたから、すぐに他の兵士たちがくるわ。早く逃げて」
「……」
「ここにいたら危ないわ! 馬車を襲ったことをお父様たちが知ったら、今度は本当に殺されてしまうかもしれない!」
大蜘蛛は顔周りの触脚を揺らす。
くつくつと笑って、とても満足げな表情をした。
「……あア。嬉しいなァ。ボクを心配してくれるんだネ」
「お互いに傷つけあって欲しくないのよ」
「じゃア、ボクのものになってヨ」
「それは……」
「レナーミアがボクの雌になれバ、他はどうでもいいからネ。それとモ、レナーミアはボクのこと、嫌いになっタ?」
「そんなことはないわ。私はキドが好きよ」
でも……と、レナーミアは続ける。
「私は、貴方だけと一緒にいることはできない。お父様やお兄様に、屋敷のみんなにも、心配をかけてしまうもの」
「ボクが好きなのニ?」
「私はみんなが好きだから。家族も、領民も、キドのことも。どちらかを選んで、どちらかを悲しませるようなことはしたくない」
レナーミアは俯き加減の顔を上げた。
「ねぇ、キド。前にも言ったけれど、考え直してくれないかしら? 貴方もツェルナリオ領の住民になること。住民票を取るまでは大変だけれど、登録ができれば、私とも一緒に……」
「嫌だネ」キドは即答する。
「どうしてボクが人間の暮らしをしなくちゃならないのサ?」
「でも、そうしないと、お父様とのいがみ合いが続くだけよ」
「レナーミアを奪い合ってるからネ。当然だヨ」
キドは剣脚を振り下ろして、また馬車の一部を破壊した。
レナーミアと猫メイドが、「きゃあ!」「にゃあ!」と、大きな揺れに対して、短い悲鳴を上げる。
「ボクが欲しいのはレナーミアだけダ。あとは全部余計だヨ。"縄張り"も"群れ"も、必要なイ」
また小鬼兵が細槍を突こうとするが、キドに弾かれる。
「さっきから鬱陶しいんだヨ!!」
キドが薙ぎ払うように剣脚を扇いで、兵士たちの槍を何本か折った。
「キド、暴力はやめて! 兵士たちも! キドを攻撃しないで!」
「こんにゃ時に何ゃに言っているんにぇすか!?」
猫メイドが信じられないと言わんばかりの声を上げる。
「だって、そう言う以外にとめられそうな方法がないもの!」
「え、いにゃ、おおもとにょ原因はレニャーミア様が……」
ばきんと、馬車の天井が剥がされた。
キドの剣脚が、レナーミアを掬い上げるようにして、引き上げる。
「レニャーミア様!」
「捕まえたヨ。さテ、行こっカ?」
キドはレナーミアを胸と剣脚の間に挟むように抱えて、ばっと跳ね上がった。
「ま、待て、大蜘蛛! レナーミア様を離せ!」
ユパニガルが叫ぶ。
キドは長い距離を経て、馬車道にすたんと着地する。
走り出そうとしたその瞬間、地面にいくつもの、黒い影が通った。
「……チッ。飛行兵カ」
双剣を足に掴む人鳥たちが、キドを空中から取り囲む。
キドは草の中に飛び込み、体を低くして右に左にと走り回った。だが、飛行兵の追跡から逃れきれていない。
やがては進行方向にぱぱぱぱっと矢を落とされて、キドは一、二歩後退し、動きを止めた。
「……危ないなァ。レナーミアに当たったらどうするのサ」
キドは矢が飛んできた道筋を目で辿る。
飛行兵よりも後に来た、動物の馬に二人掛けで跨る小さな弓兵たちが、道脇にずらっと並んでいた。
「キド……」
レナーミアが不安そうにキドを見上げる。
「心配しないデ。キミのことハ、ボクが守るからネ」
キドはレナーミアを抱える剣脚に、優しく力を込めた。
「茂みに入って広がり、奴を囲え! レナーミアが捕らえられている! 決して逃すな!」
張り上げられた若い男の声に動かされ、様々な形をした魔物の兵士たちが、キドの周りに集まった。
レナーミアの護衛をしていた小鬼兵たちの近くに、黒馬に乗った"人"影がある。
「……やはり現れたな。大蜘蛛キド」
魔物に指示を出した声の主。
ドルゼストは馬の首をキドの方に向け、鞍の上から視線を下ろした。
キドはドルゼストの記憶がなかったらしく、「誰だこいツ?」という顔をする。
「お兄様……!」というレナーミアの言葉で、ようやく合点したようにせせ笑った。
「……あア、なるほどネ。魔王伯爵の息子カ」
キドはざっと周りを見渡して、見覚えのある顔がいないことを知る。
「グアナーはどうしたのサ?」
「体調が優れないゆえ、私が魔物軍の大将として代理をしている」
「ふーン。あのクソジジイがねェ……」
ドルゼストは顔をしかめる。「クソジジイ」が、父への侮辱に聞こえたからだ。
「レナーミアを離せ。どちらにせよ、お前は完全に包囲されている」
「アイツと同じこと言うんだネ」
「当然だ。父上に何度も追い立てられておきながら、性懲りもせず妹に手を出す、無礼な蜘蛛を許すと思うか?」
「レナーミアは嫌がっていないヨ。それに、追い立てるのはそっちの都合だロ」
「……ああ、そうかもしれないな。だが私も、お前の都合に合わせる気はない」
大蜘蛛に対し表情を崩さないドルゼストと、若き領主代行を嘲るキドを交互に見比べて、レナーミアが「喧嘩はやめてよ……」と小さく呟いた。
「今レナーミアを離せば、命だけは助けてやろう」
「結構だヨ。ボクの邪魔をした奴から、八つ裂きにしてやるからネ」
片方の剣脚を高く掲げるキドを見て、兵士たちがそれぞれに武器を構え直す。
「キドやめて!」
「わざわざ近づいて来なければ当たらないヨ」
レナーミアを手に落としたことで、キドは気分が高まっている。
自信に満ちた残虐な笑みを浮かべていた。
「……まあいい。ならばひとつ、確認したいことがある」
そんな気迫を無視するかのように、ドルゼストが冷静な声をかけた。
「いつ、レナーミアの帰国を耳にした?あるいは何処で?」
「はァ? そんなこと聞いてどうするのサ?」
「秘匿事項か?」
「そういうわけじゃないけド。特定の情報元があるわけじゃなイ」
「風の噂を聞きつけたと?」
「だから何ニ?」
「お前は野生の魔物だからな。このツェルナリオ領以外で、人間との交流はないはずだ。どのようにして話を得たのか、不思議に思うのだ」
「人間と交流がなくたっテ、話を盗み聞くくらいはできるからネ」
「誰から聞いた」
「たまたま近くを通りかかった旅人だヨ。深入りしても無駄ダ。本当にそれだけだからネ」
「他には何も聞いていないのか?」
「……」
キドは掲げた剣脚を少し下ろした。腹の中を探るような目つきで、ドルゼストを睨む。
「さっきから何がしたいわケ? ボクと会話する意味があるのカ?」
「私は無駄なことを聞いてはいない。お前がどこまでツェルナリオ家の事情を把握しているか、知りたいだけだ」
「……」
キドは怪しいと感じているようだ。
だが、彼はドルゼストのことをよく知らない。
武闘派の魔王伯爵とは違う、剣も抜かずに凛としているドルゼストの意図が、汲み取れないようだった。
「父上から聞いている。お前は嘘をつかない魔物だとな。知りたい情報があるからこそ、問うている」
「取引でもしたいわケ?」
「応じてくれるのか?」
「断るヨ。ボクは等価交換っていうのが嫌いなんダ。第一、オマエの考えが読めなイ」
「ハッタリを張らないというのは真実なのだな」
「嘘つきは泥棒の始まりダ、って、人間社会では言うんでショ?」
「……誘拐犯が戯言を」
ドルゼストは嘆息してから、おもむろに懐中時計を取り出し、文字盤を確認して蓋を閉じた。
「そろそろか」
キドは一瞬首を傾げてから、はっと剣脚を見て、言葉の意味を悟る。
「……あの槍、毒を塗っていたのカ」
「!!」
レナーミアが目を大きくして兄を見る。
「すばしっこいお前を下手に追い回すよりも、一撃にかける方が労力もかからない。直接対峙の機会を減らせば、被害もだいぶ抑えられるからな」
レナーミアの護衛をしていた"特殊部隊"は、ドルゼストの作った毒薬を渡されていた。戦い方も指示通りに遂行している。
細槍をむやみやたらに振り回さなかったのは、仲間やレナーミアたちに、毒濡れの穂先が当たらないようにするためだ。
速いだけでなく、大蜘蛛は強い。
たかが六人の小鬼兵では、全く歯が立たない。
だが、力で敵わなくとも。
槍の穂先に毒をつけて、かすり傷を負わせれば、遅効性のダメージを与えられる。
問題は、その毒が回るのに十五分前後かかることだ。
十五分もあれば、大蜘蛛は十キロより離れた場所に移動できる。隠れる余裕もあるだろう。
だが、使わないよりはマシである。
もし城郭町よりも離れた場所でキドに遭遇していたとしても、レナーミアを救出できる確率は上がる。
毒で苦しませて優位に立つことも可能だ。
「……っ、ゥう……」
体に異変を感じたキドが、数本の脚を折り曲げた。
「キド!」
キドの剣脚の力が緩む。
しかし、レナーミアはキドの調子を心配して、逃げ出そうとはしなかった。
「大丈夫!? キド、ねぇ!」
「レ、ナ……ミ、ア……」
息が苦しそうだ。蜘蛛の腹部が痙攣するように、激しく上下している。
「キドを縛れ。レナーミアを保護しろ」
ドルゼストの声に従い、魔物の兵士たちが一斉に動き出した。
魔物だらけの波の中、レナーミアは二人の人鳥によって宙に持ち上げられ、馬車道にゆっくりと降ろされた。
「レナーミア様! ご無事でよかった……!」
ユパニガルはレナーミアに駆け寄る。
しかし、レナーミアの視線は、ずっとキドを捕らえて離さなかった。
「キド……」
「ここはドルゼスト様にお任せして、屋敷に戻りましょう」
ユパニガルに背を向け、レナーミアは兄の元に駆け寄った。
「お兄様!! キドを殺さないで! 彼は誰も殺したりはしないわ!」
ドルゼストは呆れたようにため息をついた。
「落ち着け。大蜘蛛相手なら、あの毒を多少掠めた程度で死にはしない」
「でも、すごく苦しそうにしているのよ!」
「筋肉を痺れさせるものだからな。少し呼吸をしずらいだけだ。しばらくすれば毒が抜けて、落ち着くだろう」
「キドをどうするつもりなの!?」
「後で気が済むまで説明してやる。お前は先に、屋敷に戻っていろ」
「お兄様!」
「早く行け」
ドルゼストがユパニガルに目配せをする。
ユパニガルは頷くと、レナーミアの背中を押して、「行きましょう」と促した。
「……ほにゃ。レニャーミア様、歩きにゃすよ」
馬車から降りてきた猫メイドにも手を引かれ、レナーミアはぽつぽつと足を進めた。
「……キド……キド……!」
歩きながら、レナーミアは甘橙色の目を擦る。
大蜘蛛の名を、何度も何度も、呟いた。
あーあ。泣ーかせた。
次回は、野生の魔物についてのお話しです。ドルゼストの「命だけは助けてやろう」(キリッ)には結構大きな意味があったりします。キド視点は次々回。




