保健室のオトノさま
――やぁやぁ、諸君。僕は、保健室の招き猫だ。左手を耳より高く上げているから、僕には遠くの人を招く力があるのだ。だから、気まぐれに呼び寄せては、適度に養護教諭の卜野くんを多忙に追い込むことにしてる。もっとも、彼は僕のお陰だとは思ってないだろうけどね。えっ? お陰じゃなくて仕業だろうって? そんな間違いを犯すほど、僕は智慧の浅い猫ではないよ。ちょうど江口くんが来たところだから、様子を見て判断するが良い。僕が正しいと納得するだろう。
「江口先生。昨日は、何を食べましたか?」
「昨日は、……アレ? 何か食べたっけなぁ」
「もう、結構です。問診するだけ無駄でしょうから、さっさとベッドで寝てください」
「相変わらず、患者を労わる気持ちが、一マイクログラムも伝わってこない」
――目の下の隈の色黒さから察するに、少しでも短時間でクリアしようとして、ろくなものを食べずに土日を過ごしたツケが、今日になって表出してきた。まぁ、そんなところだろう。
「ご自身でご自愛いただけると、こちらとしては手間が省けるんですけどね。まっ、もうすぐ白衣の天使が来ますよ。ほら、ドタバタと賑やかな足音が聞こえてきました」
――ドアの開閉は静かに、という注意書きを完全に無視する形で、慌しく安田くんが乱入してきた。誰か、彼女にイエローカードを。レッドカードでも可。
「邪魔するで。薩摩芋とキャベツのお粥を炊いて来たで、シエロくん」
「ビーカーと薬匙を調理に使う人間は、安田先生くらいでしょうね」
「そんな褒めんといてや、オトノさま」
「トノではなくウラノです」
「卜野は一ナノメートルも褒めてないぞ、ヤッサン」
――それにしても凄い色である。実験は成功だったのだろうか? 江口くんの表情が変わらないので、ここは発言を待とう。陶器の置物なので食物の摂取を要さないが、生身の身体だったとて、危険を冒す気になれない。試食というより毒見に近そうだからね。
「無言で食べてんと、何かリアクションしてぇなぁ」
「どうなんですか、暗黒物質のお味は?」
「悪くは無い。ウン。これほどまでに見た目と味がリンクしない料理を作れるとは、ある種の天才だな。いや、天災かな。フードディザスター」
「ヨッシャ。体調が戻ったら、おビールで乾杯しような。――何で、あからさまに距離を取るんよ、オトノさま?」
「アル中と関西弁がウツルといけませんから」
「空気感染も接触感染もしないって。――そっちのビニール袋は何なんだ、ヤッサン?」
「エエ質問やね、シエロくん」
――出てきたのは、輪ゴム、クリップ、画鋲、マッチ、爪楊枝、綿棒の六つ。どうやら百円ショップに寄ってきたようだ。
「百円相当分も必要無いし、探せはあると思うんやけど、どこになおしたか思い出されへんから、しゃーなしで買うてきたんよ。ほんでな。レジの行列に並びながら思うたんやけど、レジスターの代わりにカードリーダーを置いて、プリペイドカードで買い物するようにしたらどうやろう? 全国共通で、五百円、五千円、五万円のカードを発行して、貨幣を駆逐してもうたらエエと思うんよ。どない? なかなかエエ線いってると思わへん?」
「そんな中途半端なことをするくらいなら、いっそのこと一枚のアイシーカードに集約すれば良い、と我輩は思うね。それを誰が管理するかってことが信用問題になってくるけどな」
「行き着くところは、ソコかもしれませんね」
「そこって、どこよ? 底辺か?」
――サラッと真理に辿り着いたところで、今日の話は、この辺にしよう。何せ、このあとに二人が教頭に呼び出されるまでにした議論といえば、パリで紙袋にバゲットとオレンジを入れて歩く人間は、世田谷で籐製の買い物籠に大根や葱を入れて歩く人間と同じくらいステレオタイプだとか、ルートを幾何学的にイメージするには、一辺が一メートルの正方形や立方体の対角線や対頂線を図示すれば良いなど、取るに足りない話ばかりだったものだからね。
えっ? サゲは無いのかって? 月並みだけど、いずれ終わるとわかっていても何かせずにはいられないのが、ヒトという生き物の、特に教師という生き物の、摩訶不思議な性質だ、という一言に尽きる。ずっと観察してても、一向に飽きないよ。フッフッフ。