セックス・フレンドシップ
「最初はマグロにしよう。そうだな、トロじゃなくて赤身がいい。アイラは?」
「じゃあ、あたしも先生と同じのいただこうかしら」
八代先生はそう言って、大将に注文した。わずか六つのカウンター席、その向こうには寿司屋の大将ともう一人。この店では、一日に二組しか予約を受け付けていないらしく、今日はあたし達以外に客はいなかった。北新地の名店。先生はそんな上等な店に私を連れてきてくれた。
あたしはビール瓶を傾け、先生のグラスにビールを注いだ。手酌で済まそうとしたあたしを見て、先生はあたしの手からやんわりと瓶を取り上げた。
「そんな味気ないことをするなよ。僕が入れよう」
満たされたグラスを持ち上げ、あたし達はビールに口をつけた。
先生は通ぶったりしない。こんな隠れ家みたいな店を知っているんだから、相当舌は肥えているはずなのに、気取った態度で、得意げに、タイやヒラメを最初に頼んだりしない。マグロが食べたいからマグロを食べるんだ。
でも、お酒にはこだわるの。前に行ったフレンチのレストランではとびきりのワインを飲んだし、その次に行った日本料理屋では聞いたこともないような銘柄の日本酒を頼んでいた。そんなところが好き。
先生は東京の人で、言葉には訛りひとつない。夜の仕事をしていると、色んな人と出会う。標準語を話していても、ふとした時に郷里の方言が出てくるものだけど、先生の口からはそんなの微塵も感じない。
「今日はお店、休みなのかい?」
「うん、久しぶりの休み。先生も大阪来るの、久しぶりね。前会ったのは半年前だっけ?」
「明日、講演会があってね。前日入りしたんだ」
八代先生の仕事は知らない。初めて店に来た時、「先生」と呼ばれていたから、あたしにとって八代先生は「先生」。弁護士かもしれないし、医者かもしれないし、教員かもしれないし、もしかしたら政治家の卵かもしれない。本当のところはよく知らない。
「大阪には友人がいなくてね、アイラみたいな気の置けない友人がいて本当によかったよ。で、最近どうだい?」
「毎日変わらないよ。でもね、もう少しでお金が貯まるんだ。ちょっとずつ贔屓にしてくれるお客さんが増えてきて、お小遣いくれたり、ご飯をご馳走してくれたりするのよ」
「ははは、僕もお客さんの一人ってことだ」
「やだ、八代先生は特別」
「誰にでもそう言っているんだろう」
「もう、先生ったら」
あたしは先生の腕にしなだれかかった。もちろん、どのお客さんにも「あなたは特別」って言ってる。でも、先生が特別なのは嘘じゃない。
「最近は女の人も店に来るんだよ。ほら、あたし達って男だけど、男じゃないでしょ? 気兼ねなく、安心して飲めるんだって」
「へぇ」
「あたしとしては八代先生みたいな素敵な男の人に来て欲しいんだけどなぁ」
八代先生は曖昧に笑った。肯定するでも否定するでもない、ニュートラルな笑み。
「お金が貯まったらどうするんだい? 工事するのか?」
「その言い方、なんだかイヤだわ。まぁ……そうなんだけどね、胸とアソコ、どっちから手をつけようか迷ってて」
「上からする子の方が多いよね」
「胸入れる方が、女の子らしい身体に見えるもん。店も工事するなら上からにしたらって勧めてくる」
「アイラは何もしなくても女の子らしいけれどね」
あたしは赤くなった顔を隠すように、ビールを飲み干した。八代先生は不意打ちでこんなこと言うから困る。本当に困る。
迷っているのは八代先生のせい。あたしは八代先生に抱かれるために早く女の身体になりたい。あたしの身体にある、あたしではないものを一刻も早く取り去ってしまいたい。それは確かにあたしの一部ではあったけれども、どうしてもあたし自身がそれを受け入れられなかった。
ママはどちらでもいいと言う。でも、店長は胸からにしろと言う。アソコを取るのは後だって。それもそのはず、胸を入れた方がショーで見栄えがするから。薄暗いバーの小さな舞台で行われるショーでは、水着を着たり、露出の高い服を着て踊るの。下だけ隠して全裸になったりもする。そういう時、胸がある方がお客さんが興奮するってわけ。
「先生は……」
あたしの身体が女になったら、あたしのことを抱いてくれる?
あぁ、聞けそうにない。
「なんだい?」
「やっぱり胸のある子の方が好き?」
ズラした質問に気づいたかしら、それともうまく隠せたかしら。とぼけた様子でうーん、と悩む八代先生は、気難しそうに腕を組んだまま、ある意味あたしが一番求めていた言葉を口にした。
「アイラはどんな身体で抱かれたいんだい」
きゅうん、と胸がしめつけられる。この人は分かっている。女になりきれないことに戸惑うあたしを見透かして、最も色っぽい答えを出してみせる。どんな答えよりも、あたしの心にストレートに届く模範解答。
「なぁに、それ、答えになってないわ。じゃあさ、先生はどんなあたしを抱きたいの?」
余裕ぶっても、きっと無駄。こんな返しじゃ先生の心は掴めない。先生ならこう答えるんだ。僕は――。
「どんな君でも構わないよ」
ほら、やっぱり。
あたしは途端に切なくなる。それは、あたしを抱く気がないってことの表れだから。この人は欲しいものなら何でも手に入れようとするって知ってる。どんなあたしでもいいなんて、どんなあたしでも変わらないってことと同じじゃない。
「アイラ、嬉しいな」
優しい言葉なんて鵜呑みにしない。自分を磨いて、女になって、いつか先生を狼にさせたいの。ただ、それが今じゃないっていうだけ。
「それじゃあ、アイラ、また大阪に寄る時に連絡するよ」
「うん、先生、約束ね」
寿司を八貫とお酒を少し、今日はこれでお開き。泥酔よりも、ほろ酔いの方が興奮する。この後、ホテルの部屋に来ないか、なんて言われたら先生を夢中にさせる自身があるのに。
八代先生の瞳の奥で炎が燃える。あたしに欲情してるんだ。だからといって、この人はすぐに本能を剥き出しにしたりしない。フツフツと体の奥底で滾らせ、一気に放出するタイプなんじゃないかしら。八代先生が爆発した時のことを想像するだけで身体が疼く。あたしのアソコが求めているのを悟られまいと、ハンドバッグでサッと隠した。早くお金を貯めて取ってしまわないと。盛り上がったミニスカートなんて不恰好。
先生はそっとあたしのアソコに視線を移した。そして、ハンドバッグを見て満足そうに唇を歪めた。
「アイラ、君はどんな女よりも女らしい」
去り際に残した先生の捨て台詞が、ねっとりと鼓膜にまとわりついて離れない。気の利いた言葉で答える前に、先生はあたしに背を向け、夜の雑踏の中に消えていった。
追いかけたい。でも、追いかけないよ。いつかあなたがあたしを追いかけるその日まで、あたしは絶対追いかけない。
あたしはバッグからスマホを取り出し、ここ最近で一番着信回数が多い客の番号にダイヤルした。コール音が一度、深夜だというのに、相手はすぐに電話に出た。
「あ、アイラちゃん、どうしたんだい……?」
「ケンジさん、こんばんは、ごめんね、夜遅くに。あのね、アイラ、なんだか寂しくて……」
八代先生の残り香は消えない。先生が座っていた左隣に、特にこびりついた香りは高級な、葉巻の香り。
こんな夜は一人じゃいられない。あたしの火照った身体を、抱きしめて、意識の果てまで導いてくれる誰かが欲しい。
「今から、ケンジさんの部屋に行ってもいいかしら」
街のネオンが皮膚に突き刺さる。まるで、あたしの衣服を全部剥いで、丸裸にしているみたい。
ネオンだけが知っているの。あたしの本当の心を――。