不出来なひと
風見と氷崎(風見視点)
職員室の扉を開ける。
「失礼しゃーっす」
ぬくまった空気は随分ふかふかとしていて、冷え切ってしまっていた顔も耳も、指先も。じんわりと暖まる心地がした。
夕方だというのに窓ガラスは黒一色に寒々しく、煌々とした蛍光灯の明かりが反射する中で、沢山の大人が立ち働いている。廊下も教室も外の気温に相応しい寒さであったから、余計。この空間を羨ましく感じる心も二割増だった。
いや。そうなると単に、こころもちの問題なのかもしれない。
「ごとーちゃんセンセー、オレにもコーヒーいーれーてっ」
「駄目に決まってるでしょ」
「げー、先生ばっかずりい」
風見が一直線に向かったデスクには、比較的若手の男性教員がひとり。彼はマグカップに残るインスタントコーヒーを飲み干してから、デスクの薄い抽斗を開ける。
クリップで留められた書類を一枚、風見へ手渡した。
「目当てはこっちじゃなかった?」
「おっ、ごとーちゃん気が利く! さっすが!」
賞賛した勢いのままボールペンを借り、彼の隣――いまは丁度不在である教員のデスクに堂々と着席する。
さて書き始めようかと、風見が文面を読み始めた矢先だった。
「志願兵なんて、やめておけばいいのに」
人間からはみ出た化物――鬼を殺す為の組織は、この時期から学生隊員を募る。
申請書類とセットにするべき、北支部のパンフレットが遅れて渡された。
風見が見上げた彼の表情は明るくない。
志願理由を問いたそうな気配を嗅ぎとり、見えた影には知らないフリをして笑った。
「やー、上のアネキがバイトで稼ぐもんだから、オレも小遣い制じゃなく働けってさ。……アネキがオレくらいの歳の頃はまだ小遣い貰ってたんだぜ? ふつーにひどくね?」
「それは親御さんに直談判しなさい。……ほら、コンビニとかは駄目なの? それならまだ学生隊員より、」
「だってやるなら給料良い方が絶対イイじゃん? オレ身体動かすの好きだし。つか対策部にいりゃ、あわよくば任務でズル休みできっかもしんねーじゃん」
「……言っておくけど、緊急事態なら必ず、北支部から学校に連絡が入るからね。バレるよ」
「……ウソ、それホントにマジで言ってる?」
パンフレットを受け取った風見は、項垂れながらも書類との格闘を再開する。
教員はそれ以上の『説得のようなもの』をやめて、風見の横顔から視線を逸らした。
「なあ、ごとーちゃんコレって、……あり?」
いくらか時間が経っていたらしい。
頼りにしていた教員は影も形も失せている。代わりに一人の男子学生が、彼の不在のデスクを借り、よく知った書類にペンを走らせている。――風見とは違い立ったまま。長身を少しだけ屈めた彼に、とくべつ面識は無い。
風見の座るキャスター付きの椅子が、ごろごろと低い音で鳴った。
「なあ。同じの書いてんならさ、ちょっとコレ教えてくんね?」
特に、そう。態とではない。純粋な事故として、その記入内容が見えてしまっただけ――名前は、氷崎すばる。
風見に肩を叩かれ振り向いた氷崎は、無言のままだった。黒縁眼鏡の奥、涼やかな一重の瞳が不審そうに眇められている。
風見はその記号に疑問符を浮かべたまま、とりあえず、というふうに言葉を継いだ。氷崎が記入する書類の隣に、自身の書類を広げながら。
「? いや、解ってそーなヤツに聞いた方が早えーじゃん」
「……どこに、僕が解るっていう保証があるの?」
「だってアタマ良さそーだし」
実際良い――のではなかっただろうか、と。風見は氷崎の顔からぼんやりした記憶を掘り起こす。
「うちのクラスには学年トップがいるからな」などと、何かの折、隣のクラスの友人が自慢げに指した先には、確か。静かにひとり読書にふける、やけに大人びた姿があったような気がした。
「なんつーか、すげー意外。氷崎って、体育とかキライなんじゃねーの? だと思ってた」
「ああ、そう。……とりあえず質問、あとはいい?」
「おー、ありがと。めちゃくちゃ分かった。サンキューな。つか座れば? ごとーちゃん今いねーし」
誰も座っていない椅子のキャスター音は、とても軽い。
席を勧める風見に対して、氷崎の視線は――椅子と、並んだ二枚の書面と、元の席に戻る素振りもない風見を巡る。
静かな声で「何でもない」と言い、残り少ない空欄を埋める作業に戻った。「あと少しだけだから、椅子はいいよ。ありがとう」とも。
「何で学生隊員になりてーの?」
「遊ぶお金欲しさ」
「えっマジ? オレらお揃いじゃん。やべえ」
「そうだねはいはい、やばいね」
「お、完成? てか、ごとーちゃんいねーけど、多分机に置いときゃ気付くぜ?」
「担当は後藤先生だけれど、実質の処理は事務室だから。直接そっちに提出しに行くつもり」
「へー、そうなんだ。詳しーのな」
一人の教員から呼び止められた氷崎に、風見は先に出ている旨だけを伝えた。
廊下に出ていまさら職員室の暖かさが沁み――つんと冷えた空気に、温まった全身の熱を一気に奪われていく。
学生隊員になるのは止めた方がいいと、言葉を尽くされているのだろう。
確信が生まれた矢先、それを裏打ちする教員の声が漏れ聞こえた。
『風見君くらいなら分かるけど……氷崎君。あなたは成績が良いんだから、もったいないことしなくても』
まあ、だよな。オレもそう思うし。
多少傷つかないではない、が――もっともな言い分だ。そう、納得する気持ちの方がずっと勝る。そもそもこの程度、とうに慣れっこだ。
(あれ、でも……つーか。何が『もったいねぇ』の?)
学校だって、受験だってそう。出来の良い人間なら選ばれる。褒められる。評価される。
出来が良いなりの立場で、その高い能力を行使するから――氷崎のような優秀な人間なら北支部は歓迎するだろう。治安維持に欠くことの出来ない機関にそれが生きるなら、心強いのではないのか。
教員が憐れむ理由が、よく分からない。
軽く考え込んでいるうちに職員室の扉が開いた。待ち伏せのつもりは無かったが、自分一人では事務室の手続きが分からないのも事実だったから。
風見がそう弁解する前に、氷崎が風見へ手のひらを差し出す。
「置いてくるだけだから、ついでに渡してくるよ」
「あ、マジで? いーの?」
「いいよ」
風見の「ありがとう」に対しての「どういたしまして」も。
話してみるまで知らなかった。気さくではないが終始丁寧で、相手を蔑ろにするところがない。イメージよりもずっと「普通に話せる相手だった」けれど。
同い歳には思えない、学年一の秀才は。良くも悪くも大人の声をしている。
「氷崎はさ。オレって、何なら出来そーに見える?」
だから。ふと、聞いてみたくなった。
風見はまだ、学生隊員の仕事すら知らない。要は勝手な先入観だが――どう転ぼうと、氷崎は風見を使う側の立場になるものだと思っていたから。
自分が不出来な頭で思い悩むよりも、優秀な氷崎なら答えを知っているのではないかと。その程度の思いつきだった。
廊下の向こうで呼び止められた氷崎が、首だけ少し傾けて風見を振り向く。見えた横顔にお世辞の気配は無さそうで、どこか安堵のようなものを覚えながら、風見は返答を待った。
飾り気の少ない声が、冷えた廊下に落ちる。
「何でも出来るんじゃないの。知らないけどさ」
――用意していた言葉は、見当違いのがらくたに変わってしまった。
「……、は?」
「何となく、器用そうに見えたから。じゃあね」
口がうまく回らない。何を言われたのか、暫くの間飲み込めなかった。
氷崎が階段を降りていく。上履きの音だけが控えめに遠ざかっていくのを、風見は最後まで聞いてしまっていた。
「……え、マジで、どういうこと?」
あれはあれで、氷崎なりに精一杯のジョークだったのかもしれない――とは、後から思った。ただ。それを想像したのも、不出来な自分であるから。
結局なにひとつ、確かなことなど分からない。
指先だけが、ほんの少しだけ暖かかった。