桜に狂う
冬部と和泉
澄んだ青空と、桜色の映り込む堀。花弁が浮かび、華やいだ装いを見せる水面は、地面よりも低い位置にある。
安全の為に設けられた木柵が、春の陽気にすっかり暖められている。節ばった指先は、一見滑らかな木肌に、小さなささくれを見付けていた。
視線を上げればーー見渡す限り一面の桜が、冬部の視野をうずめている。
零れんばかりに咲き誇る桜の一団は、もとの枝ぶりを何倍にも大きく、大樹のそれに錯覚させる。重なりあい密集して開いた、薄桃の群れ。そこに覚えるのは、霞のように掴み所のない、それでいて無視することも叶わない、ひっそりとした気味の悪さだった。
"射竦められている"。
何の気なしに落ちた言葉は、時間とともに重さを増していった。動かすことを忘れた手足から、感覚が遠のいていく。緊張がぴんと、糸のごとく張り詰め、硬直を強いる。
これは、花ではない。では、何だ。
ーーこれは、"眼"だ。
一つ一つが独立していながら、根元で意識を共有している"大衆"。それらが一様に、じっと、冬部を見詰めている。瞬きは無い。意識が他に逸れることもない。何故ならそれは、瞳であると同時に、桜であるのだから。
何時までも、千とも万とも知れない視線がーー
「冬部さん」
背後から呼び掛けられた。誰がーーとは、振り返ってから気付いた。
黒髪がぴかぴかと、藍を弾いていた。その金色の瞳も、まったく慣れ親しんだ、和泉のものだ。
発された言葉は、他愛もない。
「危ないですよ。落ちちゃいます」
和泉の指摘を、回らない頭のままで追いかける。木で作られた境界は、いつの間にか消えているーー柵がちょうど途切れる区切り、堀の端に立っていた。
不安定な土手に乗り出しかけていた足は、水をたたえる堀まで、あと半歩。重心をこちらへと引き戻した瞬間、元いた足場は、大きな土くれとなって転げ落ちた。
塊は音も無く、水面に吸い込まれて消える。桜を映した鏡の向こうへ、呑まれるように。
波紋の僅かな揺らぎとともに、冬部の耳に、祭りの喧騒が戻ってきた。
ーーそうだ。自分はいま、花見に来ていたのだ。
宴席の酔っ払い連中から離れるためだったか、いやーー屋台の煙が染みたビニール袋を提げている辺り、祭りの雰囲気に空腹を覚え、席を立ったのだろうか。
どれもしっくりくるような感覚も、どれも違うような感覚もする。わけもなく滑り出した言葉には、まだ、実感が追い付かないまま。
"桜"に背を向け、桜の彩る道を歩き出す。
「世話かけたな、和泉。随分探したんじゃねぇのか」
「そこまででもないですよ。……あ、いいなぁお好み焼き!」
「……あぁ、食いてぇんなら、ひとつやる」
「それなら、こっちの唐揚げと取り替えっこにしませんか?美味しいって評判なんです、このお店の」
散逸で他人事じみていた記憶と思考が、ひとつずつ、確りとした実体を帯びていく。手を引かれ、声に応えて。華奢な背中を追いかけ、足を踏み出す度。紛れもない自分の持ち物だという、"当たり前"を取り戻していく。
辺りに満ちるうららかな陽気、大気の暖かさに、じっとりとした冷や汗の感覚を、嫌という程思い知らされる。
「ねえ、冬部さん」
暴れていた心臓も、ようやく落ち着いてきた。和泉が冬部へと、唐揚げの刺さった串を差し出す。肉汁の染みた油の匂いには、屋台から流れてきた煙が混じっていた。
「どんな所で迷子になっても、俺が迎えに行きますから」
中性的な少年の声は、少女のような無邪気さで、いとも軽やかに。春の祭りの現へと、冬部の意識を引き戻した。
「……俺は迷子のガキでも何でもねぇぞ、アホ」
「えへへ」