表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
日常断片  作者: 藤野 羊
6/40

桜に狂う

冬部と和泉

 澄んだ青空と、桜色の映り込む堀。花弁が浮かび、華やいだ装いを見せる水面は、地面よりも低い位置にある。

 安全の為に設けられた木柵が、春の陽気にすっかり暖められている。節ばった指先は、一見滑らかな木肌に、小さなささくれを見付けていた。


 視線を上げればーー見渡す限り一面の桜が、冬部の視野をうずめている。


 零れんばかりに咲き誇る桜の一団は、もとの枝ぶりを何倍にも大きく、大樹のそれに錯覚させる。重なりあい密集して開いた、薄桃の群れ。そこに覚えるのは、霞のように掴み所のない、それでいて無視することも叶わない、ひっそりとした気味の悪さだった。


 "射竦められている"。

 何の気なしに落ちた言葉は、時間とともに重さを増していった。動かすことを忘れた手足から、感覚が遠のいていく。緊張がぴんと、糸のごとく張り詰め、硬直を強いる。


 これは、花ではない。では、何だ。



 ーーこれは、"眼"だ。


 一つ一つが独立していながら、根元で意識を共有している"大衆"。それらが一様に、じっと、冬部を見詰めている。瞬きは無い。意識が他に逸れることもない。何故ならそれは、瞳であると同時に、桜であるのだから。


 何時までも、千とも万とも知れない視線がーー



「冬部さん」


 背後から呼び掛けられた。誰がーーとは、振り返ってから気付いた。

 黒髪がぴかぴかと、藍を弾いていた。その金色の瞳も、まったく慣れ親しんだ、和泉のものだ。

 発された言葉は、他愛もない。


「危ないですよ。落ちちゃいます」


 和泉の指摘を、回らない頭のままで追いかける。木で作られた境界は、いつの間にか消えているーー柵がちょうど途切れる区切り、堀の端に立っていた。

 不安定な土手に乗り出しかけていた足は、水をたたえる堀まで、あと半歩。重心をこちらへと引き戻した瞬間、元いた足場は、大きな土くれとなって転げ落ちた。

 塊は音も無く、水面に吸い込まれて消える。桜を映した鏡の向こうへ、呑まれるように。


 波紋の僅かな揺らぎとともに、冬部の耳に、祭りの喧騒が戻ってきた。



 ーーそうだ。自分はいま、花見に来ていたのだ。


 宴席の酔っ払い連中から離れるためだったか、いやーー屋台の煙が染みたビニール袋を提げている辺り、祭りの雰囲気に空腹を覚え、席を立ったのだろうか。

 どれもしっくりくるような感覚も、どれも違うような感覚もする。わけもなく滑り出した言葉には、まだ、実感が追い付かないまま。


 "桜"に背を向け、桜の彩る道を歩き出す。


「世話かけたな、和泉。随分探したんじゃねぇのか」

「そこまででもないですよ。……あ、いいなぁお好み焼き!」

「……あぁ、食いてぇんなら、ひとつやる」

「それなら、こっちの唐揚げと取り替えっこにしませんか?美味しいって評判なんです、このお店の」


 散逸で他人事じみていた記憶と思考が、ひとつずつ、確りとした実体を帯びていく。手を引かれ、声に応えて。華奢な背中を追いかけ、足を踏み出す度。紛れもない自分の持ち物だという、"当たり前"を取り戻していく。

 辺りに満ちるうららかな陽気、大気の暖かさに、じっとりとした冷や汗の感覚を、嫌という程思い知らされる。


「ねえ、冬部さん」


 暴れていた心臓も、ようやく落ち着いてきた。和泉が冬部へと、唐揚げの刺さった串を差し出す。肉汁の染みた油の匂いには、屋台から流れてきた煙が混じっていた。


「どんな所で迷子になっても、俺が迎えに行きますから」


 中性的な少年の声は、少女のような無邪気さで、いとも軽やかに。春の祭りの現へと、冬部の意識を引き戻した。




「……俺は迷子のガキでも何でもねぇぞ、アホ」

「えへへ」



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ