バレンタイン+氷崎誕(後編)
ほぼ会話文です 高校生組
2月14日
18:03 高校 生徒玄関
「受験生ってこんな遅くまで授業あんの? やべーな」
「たまたま先生に捕まっただけだよ。……もしかして、ずっと待ってたの?」
生徒玄関でずっと待ちぼうけを食っていた風見が、漸く、その場で軽く伸びをする。鼻を赤らめ笑うその顔を前に、氷崎は分かりやすく疑問符を浮かべた。
冬至が過ぎ去り、日が長くなってきたことをやっと実感出来るようになってきた時候だが、午後六時ともなれば、夜の帳が下りはじめる頃合だ。空に雲はなく、藍色から徐々に薄らいでいく青が、まだ少し明るい。
「だってすばる、連絡入れたところで端末見ねーじゃん」
「うん、そうだね」
未だ道は雪で覆われ、固められた雪が、氷にも似た滑らかな表面に、ちらちらと光を反射している。
「そーいやすばる、二年の女子に呼び出されてたよな? 本命チョコ、貰ったんじゃねぇの」
「お断りしたよ。応える気がないものを受け取っても、あとが困るから、……何で知ってるか聞いていい?」
「オレはさー、貰った分、さっき全部食っちまった。玄関さみーから、腹減ってちょうどよかったし」
普段の別れ道よりも、だいぶん手前。駅前方面に向かう裏道の手前で、氷崎が足を止めた。すこし考えてから、風見に手を振る。
「雨屋から変なメッセージ来てたから、喫茶店寄って帰るよ。じゃ博己、またそのうち」
「あ、オレも喫茶店行くぜ?」
「そう? なら、五分くらいずらして来るといいよ。僕の方は、すぐ終わる用事だと思うから」
「一緒に行こうよとかねぇの!?」
18:20 北地区往来→喫茶店
会話が、無い。
というより、風見が何を話しても、氷崎からの返答に変化がない。駅前通りの遊歩道を抜け、喫茶店に向かう道すがらも、「もしかしたら何か感づかれたのかもしれない」と、風見は気が気でなかった。その不安が、浮つきだす口と、口数の多さに表れる。
喫茶店の扉に手を掛けた氷崎が、風見を振り向かず、片手間に問い掛けた。
「あのさ、どうしたの? 今日は一段と、……というより、さっきから気持ち悪いんだけ」
小気味よい、チープな破裂音がふたつ。
氷崎の重心が、後ろにぶれた。脊髄反射に近いそれを見越して、風見がほんの一瞬、肩を軽く支える。寄越された視線と表情は、確かに「サプライズ成功」という評価に相応しく。
「一日遅れたけど、誕生日祝い。勉強のジャマかもしんねーけど、息抜きにさ。ケーキぐらい食っていかね?」
言いつつも風見は、表情が綻ぶのを止められそうにない。
和泉と紫乃が、クラッカーを構えていた。少し遠巻きに、雪平と雨屋が見える。
周囲からの緩みきった喜色にあてられ、氷崎の表情はやっと、平静を取り戻した。クラッカーの吐いた紙吹雪が事務的に払いのけられ、ややあってひとこと、
「……サプライズの人選に博己使うのは、止めた方がいいと思う。どう頑張っても成功はしないから」
「お前だって揺さぶりかけてきたろバカすばる!!! こええんだよ!!!!」
19:30 喫茶店
門限のある紫乃を、和泉が送っていくと申し出た。短い誕生祝いの席がお開きになった切っ掛けは、そんなことだ。
特段用事も門限も無い氷崎は、小ぶりのホールケーキを切り分けたひと切れを、ゆっくり食べすすめていた。微妙に膨らみ切らない、へんてこな焦げ目のチーズケーキ。それももう、残り少ない。馬鹿騒ぎの挙句寝落ちている風見の茶髪頭と、焦げ色がよく似ていた。
「……誕生日だからって、何があるわけでもないと思うんだけど」
その日に偶然生を受けたというだけの日で、――そもそも他人の誕生日など、そこまで気にするものかと。祝いの席でかけられた言葉の数々を思い返して、フォークを動かす手が止まる。
「『祝ってくれてありがとう』、とか。言わないよ」
上辺だけの感謝など、向けられたところで、嬉しくもないだろう。
他者から祝われるかどうかで、氷崎の人生において、実質的な何が変わるわけではない。「誕生日だから」、ご馳走が特別美味しくなるわけでもない。
三百六十六日もある一年のうちの、たった一日。他の何でもない日と差分の見当たらない、平凡な一日だ。
空になった皿に、フォークを添える。
「ケーキ、美味しかったよ。だから、ありがとう」
とりあえず、当面の問題――眼の前で動かない悪友を誰に預ければ良さそうかと、店内を見渡した矢先、入口のドアベルが鳴った。
金髪の男の視線が、氷崎に留まる。
「ああ、氷崎。いいや丁度よかった」
棗が無造作に放り投げた小さな紙袋は、さして身構える必要もなく、氷崎の手元にぴたりと収まった。中からは微かに、鈴の転がる音がしている。
「うちの大学の付き合いで連れてかれたやつ。僕はいらないから、やるよ」
深い青色をした、学業成就の御守り。
「まとも」な気遣いにはとても似つかわしくない、目の前の男を見やる。常識的である事が、どちらかといえば奇行。氷崎は暫く思考を止めていたが、どうにかひとこと、言葉を絞り出す。
「……どうも、」
「別に。君にやるのが一番無駄にならないと思っただけだから」
革靴の音高く、棗は一直線に店の奥へと向かった。来客の音を聞きつけたらしい雨屋が鉢合わせ、棗の剣幕に後ずさる。――氷崎は早々に諦めて、風見のカーディガンから端末を取り出し、パスワードを打ち込む。
「ずいっっっぶんと呑気なことだね、僕はお前に用があって来たんだけど? 菓子屋。あの箱の中身どういう事か分かるように説明してくれる」
「ほらほら棗さん、落ち着きましょう。今年のバレンタインもさぞご苦労なされたこととお察しいたします。だからその物騒なものは一旦仕舞っちゃいましょうか」
「仕舞っちゃいましょうかじゃねぇんだけどお望み通りぶっ殺してやろうか」
風見の姉のひとりに連絡を入れ終わり、氷崎は荷物を持って、店を出る。
見上げた夜空には、星が瞬きはじめていた。
同時刻 北地区往来
「あれ、そういや氷崎先輩受験なんでなかったっけ……今日遊んじゃって良かったの?」
「大丈夫だって。帰っても寝るだけだから、って言ってた」
「……あー、そっかまじで地頭いいのか、うらやましい」
「期末テスト頑張ろうね」
「言わないでイズミン」
紫乃の自宅を角の先に見越した地点で、和泉は足を止めた。「また明日」を約束して手を振りながら、些細な違和に袖を引かれる。
普段ならすぐ返ってくるはずの、紫乃の挨拶が曖昧であること――
「……えー、あの、……わたしも昨日、雨屋せんぱいにお菓子教室頼んでて、……ちょうどこれ作り終わったとこで、イズミ君たちと、入れ違いで帰りました、です」
紫乃が差し出したのは、藍と白の紙で包まれた、手のひらよりも少し大きなくらいの箱だった。
リボンで象った花が、柔らかさをなくしてしまっている。今朝からずっと鞄にしまい込んでいた、踏ん切りのつかなさの現れだ。
「……全然気付かなかった」
「店長さんがいい感じに隠してくれたから、どうにか」
和泉の通学鞄に、どれほどの数の想いが詰まっているのか、良く分かっているつもりだった。
訪れた女子の誰にも、明るく礼を伝える和泉の笑顔に、何度胃が締め上げられただろう。下駄箱にも、ロッカーにも、自分よりもずっときらびやかな先客が居座っていて、立ち向かうより先に、尻尾を巻いて逃げてしまった。
「ほら、あの、お世話になってるから。ともだちの、さ? あるじゃないですか」
今日だけで何度繰り返したか分からない"口実"を、地面に向かって呟く。和泉の顔など、見られそうもなかった。
「俺が、……貰っていいの?」
貰って欲しい、――と。簡単な一言すら、出てはくれない。何度も頷くうち、和泉が包みを受け取ったのがわかった。それだけで緊張が切れて、泣きそうになる。
本当ならば伝えたかった、先の言葉なんてものは――
「じゃあ、あの、引き留めてごめん!!」
涙と鼻水と、数え切れない諸々の醜態を晒すよりも速く、紫乃はその場を逃げ出した。
ひやりと澄んだ空気を、深く吸い込む。何度も深呼吸を繰返しては、ぼうっとした頭を、冷やそうとしているように思えた。
数分前の自分が、軽率に約束していた「明日」。
「……お礼、まともに言えなかったな」
どうしてか、言葉を継げなくなった自分の喉をさすり、その「明日」に。いつもの挨拶から始めようと、仄かな決意を固める。
わざわざ、そんなものが必要な理由は、――この熱に溶けて、ぼやけてしまったようで。結局最後まで、自分の言葉になってはくれなかった。