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日常断片  作者: 藤野 羊
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猫になる病

情報屋さん番外 相棒猫

 願えば叶うと誰かが言った。

 に、したって。限度がある。


 そのように、制服姿の女子学生は悪態をつく。心中に閉じ込めた苛立ちは、ーーヒト耳に代わって頭頂部から現れた、三毛色の獣の耳に顕れていた。

「鬼化変異の稀少症例ですね。猫になる病……と呼称してよいものか、わかりませんが」


 討伐対象にはならない程度の呪力値が幸し、即処分とはならなかった。

 むしろ貴重な幸運だと歓迎された。凶暴化、精神異常を伴わない安定した症例、それも稀少例の彼女を研究したいと手を挙げる研究機関や企業が少なくなかった。鬼となり、人権が保障されない存在にとっては破格の申し出だった。少しとはいえ報酬が出る。なにより、命も生活も無闇に脅かされることがない。

 学校に通えなくても、外出に制限がかかっても、問答無用で殺される他の鬼たちよりはマシなほうだと思っていた。


 ◾️


 研究所と家の行き帰りで、世界はずいぶん狭くなった。

 尻尾が邪魔になり、手持ちの服の多くが着られなくなった。

 小さく不自由になった手は、箸を持てなくなった。フォークとスプーンを握りこむように使った。

 体がだんだんと小柄になっていった。体格の変化につれ筋力も落ちて、普段の生活にも家族の介助を必要とした。顎が小さくなったせいで舌足らずになり、声帯の変化で媚びた高い声が出るようになった。

 どこかから情報を得たマスコミが、猫に変わる奇病として彼女の話を面白おかしく書いた。

 研究者たちは記者たちの対応までは手が回らず、彼女の家族が矢面に立った。家と研究所への往復路を警護して、記者の勢いが苛烈なようなら研究者へ直訴し、彼女の付き添いで研究施設へ泊まり込んだ。

 子供がえりのようになった彼女の手を握り、家族は笑って不自由を共有してくれた。

 両親や祖父母、兄姉みな同じだ。日々変わっていく彼女の周りは、ずっと変わらず暖かかった。


 小さく小さく縮んだ彼女は、とうとう赤子の大きさになった。

 つるりとした皮膚はふわふわの毛皮に変わり、骨格が猫のそれへと。人の言葉を喋れなくなり、意思疎通は頷くか首をふるかしかできなくなった。感覚が鋭敏になり、強いニオイや騒音が特にだめになった。

 柔らかな肉球のできた手は、もうフォークすら持てない。

 猫のマズルでは、人間と同じ食事はできなかった。魚のすり身や野菜を混ぜて柔らかくした、半固形の離乳食に似たものが提供されるようになった。

 人間のころ使っていた茶碗に盛られたペーストを、何十分もかけて丁寧に食べた。それでも食べこぼしが多く、恥の感情からテーブルを拭こうとするのに猫の手ではうまく片付けることができない。困っている彼女を見つけた家族が「こっちでやるよ」と嫌な顔ひとつせず、彼女の食べこぼしを掃除する。


 彼女は家族から愛されていた。

 鬼化変異を起こした彼女を軽蔑するものも、排除したがり邪険にするものもいない。いまも家族の一員として愛し、不便があるなら助け合う。偽りない家族愛を持って彼女をサポートした。害をなす他者がいれば断固として怒り、彼女の慎ましやかな平穏を守った。

 彼女はそれらを憤りながら受け入れ、申し訳なくおしいただき、疑いながらも感謝を示した。自分の存在を受容し助けてくれる身内の存在は、客観的にみて得難いものだと理解はしていた。


 けれど時々わからなくなった。

 自分の健康を心配する家族の目は。毛並みをブラッシングして触れる手の優しさは。

 彼女をお風呂に入れて「きれいになったね」とにこにこする家族の愛情は、愛玩動物に対する感情ではないのかと。

 家族として、人として尊重されていた自分の居場所は、本当に残っていると言えるのか。

 だんだんと稚児へ接するものへ変容する家族の態度を問い質したいのに、喉からは気味悪い甘えた鳴き声しか出ない。


「みぃちゃん、いつも食べづらそうにしてたでしょう? 食べやすそうなお皿があったの、使ってみて」

 食卓の上が床の上に、茶碗がペット用の餌皿に変わった。

 目前の景色を正しく認識して、彼女は家を飛び出した。


 ◾️


 四つ足で駆けるのは初めてだったが、身体能力の優れた獣の体は、すぐ走り方を教えてくれた。

 高く跳躍し、車を避け、雑多でくねった路地を抜けて、彼女自身も寄り付かなかった裏街ーー鬼の巣窟と呼ばれる深層へと。そこなら、同類とは言わずとも似たようなものが集まっているはずだと。

 結論として、彼女と同じ境遇のものは見つからなかった。

 同じ鬼の目にも、彼女は猫としか見えないらしい。

 野良猫と追い払われ、逆に食糧として追いかけ回され。下手な鳴き真似で呼び寄せようとする鬼がいたと思えば、別な鬼からは石を投げられた。

 暴力を振るわれる直前で命からがら逃げ出し、空腹に耐えかねて倒れ込んだ。


 人間として生きることはできない。

 鬼にもわかってもらえない。猫としていたぶられるのも嫌だ。袋小路のように思えて、全てが嫌になって目を閉じた。

 路地ばたの隅っこで身体を丸める。

 自殺は嫌だ。まだ生きていたい。ーーおとなになりたい。

 もう叶わない望みだと、分かっている。



 コンクリートの冷たさに慣れたころ、硬質なものが彼女の頭をちょいと突いた。

『お嬢さん、まだ息はあるか?』

 黒々した瞳と目が合った。大きな、たくましいカラスだ。

 猫の毛皮で暖をとっているとばかり思っていた数匹のネズミが『心臓は動いてるけど』と声をあげている。隊列を組んでマルをつくり、カラスに意図を伝えていた。


 彼女はほどなく思い知る。

 猫になった彼女の声が、人間以外の哺乳類や鳥類となら意思疎通できること。複数の種族に心を通じさせる術で、自分の居場所を作れるかもしれないという希望。

 そして何よりーー裏街の動物たちが、連帯感を持って彼女を助けたその理由。

「はじめまして。僕は、裏街のみんなから助けてもらって情報屋をしてるんだけど……あなたが元人間だって、カラスさんから教えてもらったんです。僕に出来ることがあれば、いつでも頼ってね」

『……わたしのことばがわかるの?』

「うん。あなたたちとお話できることが、僕の唯一の取り柄だから……」

 彼女を隣人として尊重してくれる、ちょっと卑屈で優しい鬼が、彼女の新しい家族になる。


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