クリスマス小噺
棗と雨屋
「ええと……25日も、お仕事ですよ?」
フリーター男が首を傾げる。
外で降りしきる雪よりも温い、ミルク色の髪の毛は、動作に倣って柔らかに揺れた。
「……は? お前が?」
「クリスマスから年末年始は、何処もかしこも人手不足ですから。アルバイターとしてはかきいれ時というものです」
バイト先から帰宅したばかりの雨屋は、身支度を解く気配がない。これから再び夜勤に向かう、その前の小休止と準備の為に、底冷えする部屋のあちこちをぺたぺたと歩き回っている。
我が物顔で炬燵に居座る棗は、忙しく動く足取りを追うばかり。
放置しきりの客人を気にして、当の家主がひょこりと顔を出した。
「繁忙期という点では、棗さんとてお変わりないのでは?」
澄んだ疑問が真っ直ぐ棗を射貫く。
青い瞳は一瞬揺れて、大仰に、呆れの色へと塗り変わる。
「クリスマスだからって、勝手に休みにされたんだよ。……若手に優しい職場で何より。余計なお世話くらい受け取ってやらなきゃ、善良な僕の顔が立たないからね」
「それは僥倖。聖なるクリスマス、ゆるりとご堪能くださいませ」
「この部屋、丁度いいからセーフハウスとして貸せ。貴重な休日、妙なことに巻き込まれたくないからね」
「構いませんよ。お好きにどうぞ」
(――……そう仰っていたはず、なのですけれど)
大学生然とした団体客は、その当人が指導を務める演劇サークルの面々と思われた。
居酒屋の喧騒から、言葉を拾うコツにも慣れた。飲み放題メニューの注文を端末に打ち込みながら、酔っ払った声の世間話に意識が逸れる。
「棗先生お休み取ってたみたいだし。邪魔できないじゃん、クリスマスだろ?」
「今ごろ美人の彼女と高級ホテルの最上階レストランで、たけーワイン開けてんだろうなー。いいなー先生」
そうだ悪いか。期待していた。暇人を巻き込んで、生誕祭に浮き立つ喧騒など無縁の安アパートで、祝祭を自堕落に浪費してやる算段でいた。
炬燵から動く気も起きないまま寝落ちていた。火を落として沈黙した暖房器具に、棗ひとりの体温が移っている。ぬるい炬燵ぶとんに顔を埋めて、ずるずると身体ごと潜り込んだ。
残り香も微かだ。かきいれ時との申告通り、ほとんど家に寄り付いていないらしい。
暗闇が心地良い。室内灯がいやに眩しく目障りだった。時刻は知らない。夜中だろう――子供じみた期待をしたとて、冷えきった空気の痛みで答えがわかる。
腹の底から、ふつふつと苛立ちが沸いてきた。
引く手数多の僕が。この僕が家に居るんだぞ。わかってんのか。予定あったって死に物狂いで空けるだろうが誰が優先かくらい分かれ――
言いながら嫌気がさした。恨み言が萎んでいくのがわかる。
相手の顔を見て順位を決める。感情優先で、ドタキャンしようと迷惑だろうと構わない。そういう輩が嫌いなのは自分であって、同時に雨屋はやらない側の人間だ。知っている。
誰との予定かは関係ない。損得勘定や心持ちは挟まず、先にできた約束が優先というだけ。それがあのフリーターの価値観だ。さっぱりした態度が心地よいから此処にも居着いた。
袖にされてへそを曲げる方が身勝手かつ女々しい。
なのに本音の自覚があるから逃げられない。
あの甘い手が欲しかった。祝祭の夜を選んだことに、なんの私情もなかったといえば嘘だろう。夜と朝の境目すら溶かして、柔く微睡むような休暇を共有したかった。
いやに、強い酒を呷りたくなった。
どこで油売ってんだ馬鹿野郎。くそ。
「お姉さん、随分と酔われていらっしゃるようですけれど……」
赤い外套に包まれた腕を支え、力の入っていない身体を、自身の外套を敷いたベンチに寝かせた。
歩道の幅いっぱいにふらつく千鳥足を放っておけず声を掛けたのが数分前。雪は深く、人通りの絶えた夜明け前、帰路の聞き取りもままならないほど泥酔した身柄を抱え、腰を落ち着けられる場所までようやく辿り着いた。
救急車は呼んだ。もうしばらくで来るだろう。
「……だれ? おにーはん…………」
「ええと、決して怪しいものでは……病院までもうしばしお待ちくださいね。気分が悪くなったらすぐ教えてくださいまし」
訪ねてくれた親しい人を、持て成しもなくほったらかしている。そういうときほど帰れなくなるのは何故なのか。
救急隊に説明を済ませ、解放された頃には朝日が見えていた。不可解な嘘をついた友人の意図は依然読めないが――娯楽も何も無い部屋だ。とっくに帰っているだろう。
埋め合わせをさせて頂けたらいいのですけれど。
救急室を出る前に、意識を戻した彼女に呼び止められた。
「あげるわぁ。あたし、つかえなくなったし……」
屑紙同然に握り締められた紙を押し付けられる。
何か言う前に、彼女の家族がなだれ込んできた。押し退けられた痩身にこれ以上の居場所はなく、大人しく帰路につきながら丁寧に紙を広げてみる。
良いことを閃いた。同時に、つきっぱなしの部屋の明かりに気付く。
■
――寝るのも飽きた。
元々睡眠時間が長いほうでもないのに、意識を無理矢理眠りに押し込めていたせいだろうか。石の詰まった頭が揺れるたび、視界の端がざらざら霞んだ。
「赤い外套をお召しでしたから。きっと、サンタ様であらせられますよ」
頭は覚醒しきっていない。が、恐らく、きっと、目の前の男の言い分の方が遥か上をいって寝惚けている。
「……道端で拾い食いしたことあるクチ? お前」
「そこまでの蛮勇は、流石にいささか持ち合わせが御座いません」
自称「高級温泉宿お食事付き優待券」とかいう得体の知れない紙切れ持って尻尾振りながら帰って来やがったこいつ。
出処を尋ねれば「頂き物」、おまけが付いて「知らない人の」。信用に足る理由を訊けば「特にない」。
「……ザル同然な君の危機回避能力つついてたらキリないし、いっそ問題にしないでおいてやるけど。その紙切れ十中八九ゴミだろ」
「日付も暦も、現在のものですよ。付け加えれば今週末……以前、縁あって現物を拝見した身としては、本物とみておりますが」
「精巧な模造品なら尚のこと悪質だろうが。だいたい、印刷物ごとき幾らでも偽造できんだろ、なに馬鹿正直に信じてんだって話」
「では、賭けますか?」
安からくない色調と、箔押しされた金の光沢。端末を取り出し数字を打ち込む操作に淀みはなく、彼自身の「以前、縁あった」という自白を裏打ちする。
「私は本物、棗さんは偽物に賭ける。敗者は、勝者の願いをひとつ聞く」
棗が頷くよりも先に、白い指は、発信のボタンを押していた。
「問題なく使えるそうです。シリアルナンバーもお伝えして確認頂きましたから、大丈夫かと」
雨屋はそう笑う――棗の機嫌が急降下していくことなど知らない顔で。
「私が手配したものではありませんのに『お待ちしておりますね』、なんて仰られるものですから。些か、返答に困ってしまいました」
「……それで、なに。賭けはお前の勝ちって? 僕は受けたつもり無えけど」
「ええ。ですから、棗さん」
「何だよ。ふざけた要求のんでやるほど、僕いま機嫌良くな――」
「どうぞ」
「――……は? なに」
「? ですから、はい」
「だから何、」
「お受け取りくださいませ、と。申し上げております」
綺麗にしわの伸ばされた紙が、棗の手に渡る。
妙な顔をしながらも受け取られた「埋め合わせ」に、雨屋はほっと口角を緩めた。
「棗さんの貴重なお休み、クリスマスというイベントを、御持て成し出来ませんでしたから。私からのお詫びとして、お使いになってくださいませんか」
「……出処も分からないモン使えってか」
「ですから先ほど、先方に確認を取ったではありませんか。ふふ、可笑しなことを仰る」
困ったように眉を下げて、雪まみれの外套を脱いだ。氷を払い落とすため、玄関先へ踵をかえす。
「お誘いする方のいない人間では、持ち腐れというものです。些か日取りは急ですが、きっと棗さんのお誘いなら、どなたでもお暇になられますよ」
さらりと背を向けた薄い肩を、棗が無言で掴んで止めた。
雪の塊が床に落ちる。
ゆるく振り向いただけの間抜けは、棗の言葉をまるで予測できていない。油断すると口をつく悪態を無理矢理押し込めて、格好も何もつかない言葉を吐き出した。
「今週末。空いてんの」
分かっていないにもほどがあった。詫びと称して、こんなふざけた提案を持ってくる時点で。呆れるほどに。
腑抜けた頬を抓りあげてやりたい癇癪を、いまばかりは懸命に堪えた。
「暇、……ですけれども、?」
「ならそのまま空けとけ」
顔も知らない持て成しを喜んだ覚えはない。欲しかったのは、懐を許した相手との時間だ。それをどうして理解しない。
肩を突き放した。軽い身体はぽんと離れる。念押しに「温泉宿優待券」とやらをひらつかせれば、雨屋は驚きに目を丸くした。
理解できないという顔だ――知るか。これ以上親切丁寧に言ってなんかやるかボケ。いいから一緒に来い。
僕の為の埋め合わせなら、お前が付き合うのが大前提だろうが。
「……ご多忙なのではありませんか? ただでさえクリスマスに休暇をいただいていたのですから、」
「別に? 関係ないから。僕は君と違って出来が良いからね。繁忙期だろうと定時で上がる。どっかの愚図みたく深夜まで長々と非効率極まりない残業なんかしない」
「帰ってくるんじゃないか」、なんて――ほんのささやかな期待を鮮やかに裏切り続けて、夜通し友人を待ち惚けさせることもない。僕は、な。この僕なら。当たり前に。
ヒモ臭さが抜けきらないどっかのふらふらしたフリーターもどきとは違って。
「せいぜい、間抜けヅラ晒して待ってなよ」
僕は正真正銘、折り目正しい社会人だからね。感謝してくれていいよ。