人魚の棲む水底
紫乃と和泉
毎週土曜の夜。喫茶店で、ピアノの生演奏が聴ける。
紫乃から知らされたイベントに、和泉が目を見張る。
「あのピアノ、弾けるの……!?」
「らしいよ。店長さん、気が向いたら調律してるって言ってた」
諸々の遊びといい喫茶店といい、あの店主は娯楽の類に死角がないのか――紫乃の口をつきそうになった冗談は、きらきら輝く和泉の笑顔で、勢いよく喉に詰まった。
喫茶店の内装として、空気そのものに馴染むアップライトピアノを見逃していない辺りは、音楽に魅入られている彼らしいといえば、らしい。
「もし良ければ、なんですけど」
「行きたい! 行こう!」
「はやいよ」
良かった。好きだと思ったんだよなと思うなど。
待ち合わせた駅前のコンビニをさまよいながら、紫乃はぼんやりと口元を緩ませていた。待ちきれなさを誤魔化す足で店内を回り、浮かれた頭は商品をまるで認識できていない。
鏡を見る。多少ましだ。いつもよりは。
心配ごとは無いはず――なのに。小骨の引っ掛かる違和感がある気もする。
「気もする」は気の所為のまま、コンビニの外で手を振る和泉と目が合った。最後にもう一度鏡を睨んでから、喫茶店を目指して合流する。
駅前の裏道のいくつかを過ぎ、街灯の途切れる路地を進んだ先。
鈍い金属の把手を掴み、昼よりも陰鬱な雰囲気の風除室を通り抜け――
「……未成年の夜歩きは感心しない」
生演奏の件をリサーチする過程で、店主から全く同じ台詞を向けられていたことを、もう一度言われてから思い出した。
「雪平さん、こんばんは! ピアノの演奏が聴けるってお聞きしたんですが、まだお席はありますか?」
「それは気にしなくていい……が、…………」
渋面の視線が紫乃に刺さる。和泉の好感触に浮かれきって忘れていたとは口が裂けても言えない。
ひとまずは、風除室から店内に招き入れてから。昼よりも照度を落とした明かりの下で、雪平が学生の帰路の安全を案じる。
「とくべつ治安がいいとも言えないからな。誰か呼ぶか……ああ。明るい通りまで、俺が送って行ってもいい」
「え。それはさすがに申し訳、あの」
「店主としても、未成年を守るのはある程度の責務だ。いや、閉店後になると余計遅いか、……あれに頼んで送らせた方がいいな」
黒のベストを探る。スラックスに伸ばした手が腰巻きのエプロンに阻まれ、店主は自分が仕事着であることを思い出したらしい。
端末を取りに奥へ向いかけた雪平を、和泉が引き留めた。
「安心してください。これでも俺、北支部で訓練してますから。紫乃ちゃんは責任もって送り届けます」
どうして和泉が現地集合を選ばなかったのか――そんな理由にいまさら気づく。
雪平が驚きに目を丸くし、じき、笑いに眦を緩めた。二人がけのテーブル席を示し、着席を促す。
「あまり慢心するなと言いたいところだが、……まあ。野暮な提案だったか」
「……な、なんでこっち見るんすかニヤニヤしないでください」
「和泉。深夜にはならないと思うが、気を付けて帰れよ。自分の身も守れるように、な」
言い含め、手短に注文を取る。「……雨屋せんぱいは?」「夜はいないことが多い。一人で回せるからな」
伝票を伏せた。菫の瞳に、落ち着かなげに店内を見回す子どもを映す。
「知り合いのピアニストに店内演奏を頼んでいるだけだ。コンサートでもないから、そう気を張らなくていい」
楽しんでいってくれ、と。落ち着いた声を残して、革靴の音は遠ざかった。
「……恥っずかし……てか、追い出されなくてよかった……」
「うん、良かった。楽しみだなあ」
テーブルに突っ伏し、段取りの悪さを悔やむ正面で、そんな事など欠片も気にしていない笑顔が緩んでいる。
紫乃の背筋が自然と伸びた。にこにこと楽しげな空気が、彼女の唇に伝染る。
「……そうだね。楽しみ」
和泉は紅茶、紫乃は珈琲。セットにお揃いのロールケーキを頼み、控えた音量で言葉を交わす。
「わたし、演奏会とか行ったことなくて……詳しくないんだけど、いいかな?」
「いいんだよ。『良いなあ、素敵だな』で充分」
和泉の口元がほころぶ。愛おしげに呟いた。
「音楽には、言葉も知識も要らないから。あなたが聴き惚れてくれたのなら、それが最大級の賛辞だよ……なんてね。母さんからの受け売り」
演奏があるからといって、特別に客入りが多いわけではなかった。いつもと変わらず、各々の時間を楽しむ客ばかりだ。
雪平から聞いていた開演時間を五分遅れて、客とは違う風体の男が来店した。
和泉と紫乃が目配せして、フォークやカップをそれぞれ置く。
重たげな布の鞄を肩にかけ、彼は雪平へ何事かを話し掛ける。これからピアニストの演奏が始まるとは知らないのか、男の来店を怪訝に観察する顔もいくつか見える。
店主とみっつ言葉を交わし、彼はピアノの椅子を引いた。
ぎ、と。椅子が鳴る。鍵盤の位置、ペダルとの距離と据わりを確かめ、背もたれに回って高さを調節する。譜面台に楽譜を広げ、置ききれない譜は横に積む。
前口上の類は無い。
――融けるように、空気が震えた。
静かな音だった。冬の朝を思わせる、しんと積もりゆく粉雪の音。
物悲しい旋律に、光の結晶がまたたく。低音が幾重にも、胸の詰まる翳りを秘めながら揺れている。
微かにあった歓談は、示し合わせなく消えていた。自己の主張は控えめに。それでいても凛と場を締める音の粒に、聴衆の意識は引き寄せられた。
雪平がグラスを磨きながら、普段は見慣れない年齢層の聴衆を気にかけ、安堵に薄く笑う。
爛々と瞳を輝かせて演奏を見つめる二人は、飲み物が冷める心配などしていないだろう。
自身も音の響きを心地よく味わいながら、昼間に演奏を依頼するのもいいかもしれないと思案していた。
終いの余韻が薄れゆき――違和を感じさせない滑らかさで、次曲の演奏が継がれる。
「……あ。この曲、……和泉くんも知ってる?」
「うん。分かる」
「……クラシックだけなのかと思ってた」
「現代作家さんの曲が多いってことかも。皆が楽しめるように」
世界的に有名な、ある映像作品の主題だ。
古典も織り交ぜながら、時折、慣れたメロディが耳に触れる。多くは知らない曲目ばかりでも、その尽くが、克明に情景を描いた。
光も届かない海の底。かすかに弾む、小春の日和。鬱蒼と茂る針葉樹林と、夜の雪原に舞った、細かな氷晶のきらめき。
曲の合間、譜の繋ぎ目。旋律がゆるむ小休止に、譜面を捲る音が響く。やわらかな紙の音すら、演奏の一部として調和する。
二人組が席を立ち、会計を済ませる。また、ドアベルを鳴らして顔を出した客が、静かにカウンターのひと席を選んだ。
コンサートではない、気の張らない生演奏だという形容の通り、曲目が続くにつれ、ピアノの音が自然と店に溶けていく。
陶器の擦れる音、料理を楽しむ食器の音。店の空気そのものが演奏に彩りを与える。
偶然とその日限りの選曲に、一期一会の縁がかさなる。
「……こんなに綺麗なんだ、」
音楽に――演奏という舞台に。夢中になったのは初めてだった。
ひとつも聴き漏らしたくない。この一瞬きりだ。同じ夜は二度と訪れない。その儚さが、どうしようもなく美しかった。
和泉の表情を盗み見る。また来たいね、なんて。戯けた言葉が喉元まで出かかっていた。
この綺麗なものを、魔法のように扱うその人は。海の世界へ帰ってきた人魚みたいに穏やかな顔をしていた。
「――懐かしい?」
ぱっと紫乃を振り向く。驚きに丸まっていた瞳は、「敵わないな」と言いたげな苦笑に変わる。
「そういう顔、してた?」
「まあ、なんとなく」
「……うん。やっぱり、こういう場所が好きだなって、思ってた」
この特別にうつくしいものは、彼にとっての日常なのだ。
一夜限りに逢える幻想。儚くも鮮烈な舞台こそが、彼が息づき帰る場所。今も愛する世界そのものだった。
「別世界のにんげんなんだなあと」
「紫乃ちゃんだっておんなじだよ。俺は絵はかけないもん」
「ただのお絵かき野郎と音楽おばけさんを一緒にしないでくださいー」
「それ、良いなあ。かわいい」
素直に嫉妬が混じった手前、毒気なく喜ばれてしまうと惨めさばかり直視してしまう。徳の高さが目にしみた。
でも。知ることが出来たのは、良かったのかもしれない。
彼が、こんなに美しいものから寵愛を受けていること。彼自身も間違いなく、これに魅入られているということ。
果たしてそこに、他のものの入る隙があるのかということ。
「いつか、見せられたら良いなとは思ってたんだ。俺の大好きな景色が、こんなに鮮やかだってこと」
金の瞳に紫乃を映して、秘密の宝物を明かすみたいに笑った。
きっと一夜の魔法だった。ただの人間が、うつくしい化物の棲む世界を垣間見たのだから。
粒揃いの音がきらきら降りて、澄んだ光でまたたく。満天に散りばめられた一等星も、星降る情緒も。紫乃が生きてきた此処には、ひとつも覚えが無いけれど。
それでも彼が、此処で一緒に居てくれるのなら――気が変わらない間だけで構わない。
「また一緒に、聴きに来てくれませんか」
格好のつかない指切りを、すこしだけ、許してほしい。