雨と陽の花
和泉と紫乃(紫乃視点)
梅雨と猛暑の変わり目は、頭が重い。湿気のせいか、気圧なのか、それとも酷暑の夏バテか。
――あれかな、珍しく真面目に部活動してたからかな。
スケッチブックから目を離した先。窓はすっかり藍色だ。雨雲が立ち込めているからだろう、暗くなるのが早い。
同じ姿勢で固まったまま、腰と背中が動かなくなっめいた。右手が鉛筆を離してくれない。そんなに勤勉じゃないだろ。動け。
鉛筆を剥がして、ぐっと背筋を伸ばす。骨がぱきぱきと鳴った。美術室にはもう誰も残っていない。
わたしも帰ろうかな、なんて思っていた矢先だ。
「――……えっ」
美術室の扉を力いっぱい開けてしまった。
がん、と。静かな廊下と美術室に物音が響いて、勢い余った引戸がレールをよろよろ戻ってくる。なのにわたしはそんな事も眼中に無くて。
階段に走っていって、美術室のある三階から、ひとつぶん階段を駆け上がる。
北校舎四階。今は閉鎖された地学室があるだけの、誰も来ない場所――未だ震える端末に届いた着信が、間違いでないと確かめた。
「……もしもし。和泉、くん?」
息切れがひどかった。でも、コールが長かったから。切れちゃったものをかけ直す度胸は正直無い。
じっくり一分くらい、返答がなかった。わたしはわたしで、ぐちゃぐちゃな前髪を整えるくらいの余裕と、この電話の意味を考える冷静さを取り戻す。
イタ電かな。イタ電というやつか。だとしたら、和泉くんの電話使ってるだけのカザミン先輩辺りだ。たぶん。
『……ええと。もしもし?』
おかしい。正しい持ち主が応答した。
「はーい、もしもし。繋がってるよー」
『紫乃ちゃん。どうしたの? なにか用事とかあった?』
「いや、きみからの着信なんだぜ、イズミンや」
そう言うと、やけに長い沈黙のあと――
『あれ!? ご、ごめん! へんなとこ押しちゃったみたい!』
「あっはい。いいよぉ全然。わたしはきみがドジっ子属性ってよく知ってる」
写真を撮ろうとしていたのに、なんでかうっかり通話ボタンを押してしまっていたらしい。
いざカメラを構えたら、画面が通話中になっていて、おかしいと思った――ドジっ子認定が不満らしい和泉くんはそうやって、言い訳っぽく経緯を説明した。
「大丈夫? シャッターチャンス逃してない?」
『動くものじゃないから大丈夫だよ。……あのね。紫陽花がね、すごく綺麗で』
「ほおー、季節ですねえ。みやびみやび」
どうやら彼は徒歩で帰っている途中らしい。彼の目に映っているのだろう景色を、楽しそうな声が描いていく。
雨に濡れたタイル敷きの通り、は。ちょっと足元が滑る。
紫と黄緑が奇抜な色の傘――持ち主の小学生男児よ、そのセンス嫌いじゃない。青の水玉長靴というのもすばらしい。
紫陽花。うすい空色と赤紫が、隣あって植わってる。
『ここの道はね、よく猫さんと会う道なんだよ』
「イズミン、ねこさんとは仲良し?」
『うん。気が向いたときに遊んでくれるから、その時に触らせてもらったり』
「えっうらやま……うん、動物に好かれる人っているもんね。そうだよね」
営業してるのか分からないお料理屋さんの二階の窓、ひとつだけオレンジの灯りがついてる。
紫陽花。これは、咲いた盛りのあとのほう。すこし元気がなくて、きっと元々は鮮やかな群青色だった花だったんだろうって予想。
やっと、すれ違う通行人がひとり。
やわらかい匂いが香った。お風呂みたいな――どっかの民家のシャンプーの匂いなんじゃないかなあ、それ。
「写真、撮らなくていいの?」
多分というか、和泉くんにとっての本題はそっちだ。
さっきからお喋りばかりで、写真を撮ってる気配がない。それって本末転倒ではないの? などと
『撮らなくても、直に紫乃ちゃんと話せたから。いいかなって』
考えて、いた。
「…………あ、の」
『電話に付き合ってくれてありがと。部活、遅くまで頑張ってるんだね。無理はしちゃだめだよ』
えっと、とか。はい、とか。その程度しか、口が回らなかった。
電話を切ってしばらく放心していた。電話の内容が八割飛んでいる。わたしはきちんと、彼の言葉に受け答え出来ていただろうか。
手摺を頼んだまま三階に戻る途中、二階に降りていこうとする知ったひとが見えた。
こんにちは、なんて上から挨拶したら、きょろきょろした後で真上を仰いで、黒縁眼鏡のレンズにわたしを映す。
「氷崎先輩どうしたんすか、こんなあっづい三階までわざわざ」
「物理部にね、ちょっとした用事」
「え、あそこって活動してんですか。初耳」
氷崎先輩、化学部だからさ。三階には普通いないんだよね。まず会わない。
でも、そうか。科学系の部活の繋がりってものがあるのかもしれない。わたしが知らなかっただけで――
「……さっきの、……通話してた声、とか。聞こえて、ました? ……なんて、」
階段の近くにいると、上からも下からも、別な階の話し声が届くのである。
手摺の隙間に落し物なんてした日には、下手したら一階までストーンと。一直線だしね。こう、遮るものがすくないというか。
「階段って、音がよく響くよね」
…………まじですか。はい。……そうですね。