振る舞う、実践
すると、お嬢ちゃん、と男性の声にいずこからか呼ばれた。
「ハイ?」
「この棚の中、線香っぽい。開けてもいい?」
あきらかに仏壇とはちがう棚の前に立ち、男性が手招いている。
そういえばこんな棚があったかもしれないが、一日に何度もそばを通っていて、中を見ようとしたことは一度もなかった。
ガラスの向こうをのぞき込んでみたら、たしかに線香とおぼしき箱が並んでいる。
男性とサユリで、左右の扉をそれぞれ開くと、ふわっとお香のにおいが香った。
値札を見れば、外に並べてあったものよりも、いくぶん価格帯が高い。
なるほど、高級な線香は、香りの逃げない場所に仕舞ってあったのだ。
やって来た青年が、ぱっと目を輝かせて、箱を見回す。
「これ──」
と言って手を伸ばしたのは、黒い箱だ。
この人は単に黒が好きなのだろうか、とおもうが、黒い箱というだけなら他にもなくはない。
ただ、その箱についた値札は、サユリがぎょっ、とわが目を疑うほどに、高かった。
ふたを開けて中の香りをかいだあと、青年は二度、うなずいた。
「これがいい。これにしよう」
「ほ、他の香りは……?」
「いい。大丈夫。これを焚けば、ぜったい満足できる。値段はおおっ、とおもうけど。だからってもっと安いの買って、やっぱりあれにしとけば良かった、とおもうくらいなら、はなからこっちを選ぶ方がいい」
「あ、……ありがとうございます」
サユリはなるべく丁寧に頭を下げた。
箱を渡しながら、青年があ、と声をかける。
「自分のだから、包装はいいけど。ただ、料理するところに持って行くから、匂いだけしないように、ビニールに入れてもらえますか」
「かしこまりました」
たしか、小さな紙袋もあったはずだ。
ビニール袋に入れて口をしっかりと結んでおいてから、サユリは紙袋に改めて入れることにした。
その方が、はたから見ても中身が線香だとはわからなくていいだろう。
サユリが線香の箱を袋に入れている間に、青年は様々な経本が折り重なるように並んだ陳列ケースのところで、手にした経本をめくっていた。
青年は、いかにも経本、といった体のものから、般若心経だけの金襴表紙の特別製、最後に豆本というちっちゃな経本までを手にとってから、サユリに豆本を差し出した。
何やら、うれしそうな顔をしている。
「それと、これ。かわいいから、これにする」
サユリも開いてみたが、字が細かくて唱えるにはかなり見にくそうだ。
でも、彼はこれが気に入ったのだとわかる。
こちらまで、うれしくなりそうな表情だった。
裏返して見れば、値段はこんなもんなのか、とおもうくらいに安い。
とたん、わけのわからない閃きが、ふと浮かんだ。
「こちらのお代はいいです。サービスさせてください」
「え!」
青年もおどろいた声を上げたが、言ったサユリもおどろいた。
マニュアルどおりに接客していたときなら、考えられなかったようなセリフだ。
男性が、おもしろそうな目を向ける。
「いいの? 店主に怒られない?」
「というか、そのお代は私が出します。ごめいわくをかけた上に、いろいろとおしえていただいたので」
「なるほど、そういうことか」
「やった。おしえたのって、師匠なのに。ありがとう。じゃあ、遠慮なく」
青年はほくほくとうれしそうに笑うと、札入れを取り出し、線香の代金を払ってくれた。
他人に振る舞う、と言うには、ささやかすぎる金額だ。
それでも、ふしぎと胸がウキウキする。
彼が、素直に喜んでくれたからかもしれない。




