無知と知恵
「江戸時代みたいにゆったりと生活していたら、近所の寺に出かけて行けば良かっただろうけど、みんなが忙しい時代になったからこそ、家の中に仏壇があるって有り難いことだろ。でも、豊かに、安らいで、健やかで暮らすために必要なものなんだよ、ってことを知らずに、仕方なくでも祀ることさえせずに生きてきて、精神がいよいよエネルギー不足になってる人間がたくさんいる。宗教っていうのは、例え無知でも、そういう人間を生まないための知恵だったんだろうに」
「知恵……?」
「本当に無意味なものが、古代から人間の生活の中で大事にされているわけはないんだ。それに囚われるのは良くないし、恐怖に駆られてすがるものでも断じてないが。それでも、目に見えないものがあるとか、ハートこそが大事なんだと、人々に伝える役割は担ってたんだ。ただ、既存の宗教のおしえなんかに従わなくても、高次に至る道はある。むしろ、囚われてたら本質を見失って、これ以上上には行けないなんて限界をあっさりと受け入れてしまう。ふつうの人間だから無理、なんてな」
この人は自分の心を読んでいるのだろうか、とサユリはぎょっとした。
男性は、青年に向かってうなずいてみせる。
まるで、自分のようになりたいと言った彼に、そんなの余裕だ、と言っているみたいだった。
「自分より偉い人間なんて、いやしない。偉そうな人間、っていうのは見てくれはどうでも精神は低次だ。高次な人間なら、ありようがちがうだけで、人間の能力や可能性に差異なんてないとわかっている。ましてや、価値なんかまったく変わらない。宇宙にとっては、みな公平だ。だから、太陽も雨も風も、人を選んで避けたりしない。希望に燃えてようが、絶望に打ちひしがれていようが、雨には公平に降られるし、風にも公平に吹かれる。その感じ方が、人間の側でだいぶちがうってだけのことだ」
男性の話には、深く納得できる点が、多々あった。
サユリの常識からかけ離れている点もまた、多々ある。
ぜんぶを受け入れるか、ぜんぶをデタラメと切り捨てるかの二択なら、サユリは受け入れる方を選びたかった。
それは、誰かに言って欲しかったことばのようにもおもえたから。
おまえにも価値はあると言って欲しかった。
負け組とか、勝ち組とか、本当はそんな差はないのだと、言われたかった。
失敗して、すっころんで、みじめなきもちを味わったとしても。
もういちど、胸を張って生きていいのだと。
自分がそうしたいかどうか。
自分がそうするのか、しないのか。
ただ、どちらを選ぶかだけの差でしかないのだ、と。




