豊かな人間
「目に見えないものに振る舞えば、もっと速い?」
サユリのつぶやきに、男性がにんまり笑う。
「そう。彼らは、あれが欲しいとかこれが欲しいとか、少しも催促しない。振る舞ったからって、ありがとうと礼を言うわけでもない」
たしかにそうだ。
だから、無意味だとしかおもえない。
でも、無意味ではないというのだろう。
それも、言ってみれば、気分の問題なのかもしれなかった。
「そういう相手に惜しみなく振る舞える人間っていうのは、豊かで器がでかくて、目先のことにとらわれたり、損得勘定なんてしないもんだ」
それはそうだ。
損得を考えるなら、目に見えるものにお金を使うに決まっている。
せめて、増える可能性に賭けて宝くじを買う方が、よほど夢があるではないか。
「でもな。そういう人間だから、振る舞うんじゃない。そういう人間になりたいやつが、そういう気分で、振る舞うんだ。それが自然で、あたりまえの感覚になるまでな。自然であたりまえの振る舞いになったときに、要は、そういう人間になってるわけだ。わかるか?」
「わかります!」
力強く応じたのは、青年だ。
男性が、くすりと笑う。
「まあ、ここでどんと金を使えっていうのは不安だろうけど。その不安を抱えたままじゃ、いつまでたっても不安な人生とはおさらばできないからな。不安とか恐怖は、つかまったままじゃぜったい上には行けない、ずるずると足を引く手のようなものだから。どっかで、おもいきって、不安や恐怖とはちがうものを選ばなきゃならない。豊かな人間っていうのは、不安や恐怖をとっくに手放した人間のことだ」
サユリは、男性の足元を見た。
そして、自分の足元を見る。
左右の足首に、まとわりつく重い手を見た気がして、ぞっとした。
「日本で銀行ができたのが、明治だろ。だから、貯金なんて文化もそれ以降のものだろうに、恐怖が絡むと、ほんと、あっという間に常識として根付いてしまうものなんだな」
「うちの親も、ガキのころから貯金しろ、貯金しろ、って」
「貯めた金を持ってれば安心だ、っていうのは、要は、金を持ってないと不安だ、って言ってるのとおんなじだ。実際、不安だから貯めるわけだが」
うんうん、と青年がうなずく。