第陸話 好奇心は猫を殺す ⑥
別れは突然だ。
残酷に、そして無慈悲に襲いかかる。
☆..:*:・゜'★,。・:*:・゜'
「待ってっ!」
伸ばした手は虚空を切り、札は蓮とかさねの足元に叩きつけられた。
叩きつけられた札はそれを中心に青金の光が生み出し、直径1メートル程度の円形魔法陣を描き出す。円形の中には三角と方形を組み合わせた何幾何学模様が複雑に配置され、ルーン文字に似た文字がそれを囲むように表現されている。それは絶佳を感じさせ、目を奪い行動を止めさせるには十分な威力があった。
時間にして数秒。だが、その数秒が分かれ目となる。
魔法陣は完成し中にいる者を決して逃さないよう不可視の壁が形成された。蓮が動き出した時には既に遅く魔法陣内から1ミリたりとも進む事が出来ない。
囚われた。無意識で理解した事実に蓮の背筋が冷える。
五月蠅いくらいに心臓が騒ぎ立て始め、口の中が渇き始めた。
「魔法使いの弟子はこのようなことも出来るのか」
混乱に陥りそうになる蓮の心を救い上げたのは冷涼さを含むどこまでも冷静なかさねの声。
日傘の中央部分を左手で握り、手元で2、3度軽く叩き不可視の壁の状態を確認している。
≪わっちの役目は「結び目」を作ることでありんす≫
先程までの行動からは想像出来ないくらい落ちついた狸の声が心臓を逸らせた。そしてそれと同時にかさねの思考が酷く冷えていくのを感じる。
予定外。想定外。
このような状況下に置かれた場合、必要とされるのは相手に浴びせる罵詈罵倒ではなく現状を正しく分析することだ。それを元に相手に言葉を投げかけ波紋を生み出す。生み出された1つの波紋は、相手にとって真実に近ければ近い程大きな波紋となって返ってくる。それを正確に読み取り、窮地を好機に代える手段を講じなければ望まぬ結末が待っていることをどこかで理解している自分がいた。
だからこそ思考を止めてはいけない。止める事、即ちそれは人間である事を放棄すると同じ意味だから。
「役目が結び目……ということは綻びがあるのか」
≪!!≫
狸の不自然な動きと瞠目で推測し投げた言葉が当たりを引いた事を確信させた。
そしてもう1つ。確証はなかったがこの術式完成まで時間がかかり、尚且つ強度も本家本元より弱いのだろう。先程の当たりで揺れ動く青金の光がそれを証明してくれている。
つまり付け入る隙が出来た。好機を見つけたのだ。
僅かに高揚した気分のままに手に中にある日傘を半回転させ、手元を両手で握り上段に構える。
その瞬間、かさねの雰囲気が伝達するように空気に冷涼さが付加された。
≪そねえなもので壊せると思いんすか?≫
魔法に対する絶対の自信があるのか、声は僅かに上ずっているものの口調は強気だ。
かさねは口元に不敵な笑みをうかべると同時に斜め下に日傘を振り下ろす。日傘とは思えない空気を切り裂く重音は、不可視の壁に石突当たり薄い硝子が罅割れる音が車内に反響した。それは魔法という現段階において解析不能な現象に対し物理攻撃が有効であると証明された瞬間だった。
≪……あり得んせん≫
驚愕に見開いた目をする狸の姿が視界に映る。
想定範囲内の衝撃が日傘から痺れとなり余韻のように残り続けた。学校や道場で行った試合とは違い、制限時間の判らない現状は四肢に余計な力を生む。それを理解しながらも理性と衝動を切り離す事が出来ない自分を笑ってしまいたくなった。
(予想以上の効果だな………)
現状を確認した途端、これを受け取った時の状況を思い出す。
この日傘はただの日傘ではない。じい様がばあ様の為に馴染み深い店主に特注として作らせたものだ。骨組は鉄で作られているだけではなく幾つか隠し機能があることを食えない笑みで説明してくれた店主に表情が引きつった。それらの機能は平穏な日本でお目見えする機会は極稀であり、尚且つそれが表沙汰になれば間違いなく警察の世話になることだろう。
このような日傘をばあ様に贈るだけならまだいい。だが何故、郵送という手段を使うことなく態々かさねに取りに行かせたのかという疑問はある。だが、そのお陰で現状を打破する手段があったことを感謝しなければいかないのかもしれない。
例えそこにどのような意図があろうが、現在助けられているという事実に変わりないのだから。
≪どうしてそねえなもので罅を入れることができんすか?!≫
「人間、気合いと根性とその他諸々でどうにでもなるからだっ」
「それ、かさねだけだと思うよ」
予想以上の効果に引きつりそうになる口調を無理矢理押さえ込み、声を荒げると蓮のあまりな感想が届いた。
それ対して瞋恚が籠った目で睨む。そのあまりの強さに蓮は即座に視線を逸らし、以降に続くはずだった言葉を飲み込んだ。実に賢明な判断である。
≪あり得んせん!あり得んせんっ!≫
(その気持ちは痛いほど良く分かるよ………)
狸の混乱が手に取るように分かる。
異常で異質な状態を強いられた場合、冷静さを持続させ続ける事は困難を極める。突破口を見つけだし結果を生み出す事が出来る者は更に少ないだろう。何故なら人間は異常や異質を生命の危機と捉え無意識のうちに避けるようになっている。それは生きるために、生き残るために最も必要とされている本能であると同時に弊害でもあるのだ。つまりその状態に対する抵抗力や対応力がない。
だからこそ精神を安定させるため混乱し現状を否定することで自己防衛が働くのだ。
だが、かさねはそういう状況に置かれても冷静に行動を起こす事が出来る。
だからこそこの異常な状況に置かれたとしても最善の手を掴み取るため、冷静な思考を止めることなく行動に移す事が出来るのだ。それがかさねの最大の強みであり利点。それと同時に最大の欠点であることを理解する者はあまりに少ない。
≪どうしてそねえなもので罅を入れることができんすか?!≫
驚愕と絶叫の混ざった声を完全に無視し、罅割れした部分に振り下ろした状態から上段に向けてに攻撃を加える。
長年体に刻まれた経験と技術は数年で衰える事はない事を証明するかのように1打撃目とほぼ同じ位置に打ち込まれた。正確無比な攻撃はかさねの腕が衰えていないことを証明し、障壁の割れ目を拡大する。
それは巨大な蜘蛛の巣を連想させ、打撃で薄くなった部分は小さな粒となり空気に溶けていった。
「己の物差しで図る常識など所詮己基準っ」
≪でもでもっ!≫
「絶対などこの世に……ないっ!」
― 絶対なんてこの世にはないの。
耳朶に届くかさねの声と脳裏に響く優しくも残酷な声は因果のように蓮を縛る言葉。
過去と現在の境界線が混じり合いかけたその瞬間、不可視の壁を完全に粉砕した音で意識が現在に戻る。欠片が太陽の光に反射しながら消えていく様はダイヤモンドダストのような幻想的な光景にも似ていた。
召喚術により作られた魔法陣は障壁の粉砕と同時に音もなく消え去る。
完全にその機能を失い無に返ったのだ。
「そうゆう訳で覚悟はいいけ?」
≪近づかないでおくんなんしぃぃぃぃぃ!≫
笑っていない目はかさねの容姿と相俟り妖艶さを感じさせた。それが更なる恐怖を生み出し狸はその場から逃げようとするが、かさねから発せられる殺気に似た怒気は鋭く冷涼させそこから動く事が出来ない。
だからこそ子供が癇癪を起こすかのように身に着けていたものや手近にあったものが蓮とかさねに向かって投げつける。
「物を粗末に扱うな。器物破損で訴える前に捌くぞ」
≪ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!≫
日傘を使ってそれらを叩き落とすかさねに片手で頭を抑える。
この状況を第3者が見ればまず間違いなくかさねが警察に事情を聞かれることになるだろう。何せ車内は台風一過のように座席のシートは全て捲り上がり、魔法陣粉砕の影響で所々床が陥没している。祈るのは警察沙汰にならないことだが、確実に無理であろうことは蓮の中にある知識が結論を弾きだしていた。
(損害請求されたら幾らくらいになるのかな?)
脳内算盤を弾いて計算すると恐ろしい額になっていく。この時ばかりは幼い頃に通っていた算盤塾の癖が酷く酷く疎ましい。
それが油断に繋がったのか。目の前に差し迫ったものを条件反射で掴み取っていた。
掴み取ったのは1つの銀の鍵だった。
(これってどこの鍵?)
通常の鍵の長さとは異なり全長13センチ程。奇妙なアラベスク模様に表面が覆われ、凝視すればする程数分前まで存在していた魔法陣と似通ったものがあった。
家でも倉庫でも今時この長さの鍵は使用しないはずだ。
― あら、珍しい子の手に渡ったわね。
「………え?」
明るく陽気なボーイソプラノの声は警戒心を与えることなくするりと蓮の心に入り込む。
聞き覚えのない声。ここにいないはずの声。本来なら警戒しその鍵を手放す、あるいは放り投げるのが正しい行動だと理解している。が、本能が警戒する事を忘れたかのようにだただ鍵を凝視することしかしなかった。
― いいわ。妾が特別に招待してあげる。
― こちらへ戻っていらっしゃい?………の末裔さん。
この日、浅黄蓮は世界から殺された。
大変お待たせいたしました。
そして拝読していただき本当にありがとうございます。
さて、次話では最後に登場した声の主が登場致しますので、楽しみにしていただけたらなぁと思います。
捕捉ですが、第零話を割り込み投稿しています。
これはあらすじに乗せている台詞がどのような場面で使われたのかが判るかと。
どうしても急に執筆したくなったので載せましたが………。次話投稿でなければ更新と見做されないと初めて知りました。
ちょっと切ないです。