第伍話 好奇心は猫を殺す ⑤
言葉遊びという遊戯がある。
これは日本語の美麗さと残酷さを最大限にまで昇華したものと言えるだろう。
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≪わっちは狸ではありんせんっ!≫
目に涙を溜めながら必死に訴える狸の姿は、庇護良くを誘い保護欲を湧かせ情に訴えるものがある。
視覚から与えられる情報のみで判断するならその発言は誤り。だが、視覚以外の情報。つまり聴覚や常識や知識といった情報を見て総合的に判断をするならその発言は正しいと言える。
受け取り手次第でどれ1つ同じ形を魅せる事のない言葉は、くるくると回る万華鏡を連想させた。
「あれは何に見える?」
「……えっと」
かさねは否定し続ける狸を心底楽しそうに見ながら、先程から様子を見守っている蓮に視線を向ける。
投げかけられた質問に言葉が途切れた。視界の中には目に涙を溜めながら、違うと言って欲しいと必死に訴えている姿が見えたからだ。視線の動きがかさねと狸の間をうろつき曖昧な表情をうかべることで時間を稼ぎ、妥当な答えを探すが中々見つからない。
かさねに是と答えれば狸の意志を無碍にしてしまう。狸に是と答えれば目に見えるものを否定するだけではなく、かさねの意見と対立することになる。
どちらが正しいのか判っているにも関わらず、情に絆されそうになった。
「正直に答えないと面白おかしく話を捏造して語る事を検討しようか?」
「狸に見えますっ」
先程の迷いが幻であったかのように即答すると、ガーンと効果音が聞こえそうな表情をする狸が見えた。その様子に僅かな罪悪感が湧き上がり心の中で謝罪してしまう。
ここで質問された内容に対して正しく答えない場合、かさねは手法を凝らし親族の中でもまだ判断力も未成熟である幼児や児童達に面白おかしく蓮に関する知られていない逸話を語り聞かせるのが容易に想像出来た。
もしこの質問の内容が見えるではなく、どう思う等であれば答えは違っていた。
見えるとは即ち、視覚情報に重点を置きその回答を答えなくてはいけない。蓮に答えられるものは最初から制限されており、頓珍漢で変わったなものを答えたとしてもかさねによって論破されるだけでなく撃退し追撃されていただろう。つまり蓮が出来来たのは曖昧さは必要とされない、その質問に対して真摯に答えることだけだったのだ。
「素直は美徳だ。そう思わないか?」
言外に聞こえてくるのは正直に認めた方が良いという副音。そして足を組み口元だけで微笑みを浮かべている姿は覇者の風格を覗かせているが、目に宿る輝きは相手を心底揶揄って楽しんでいるのが見え隠れしている。
こちらの反応1つに対し面白い反応と行動を返してくれる狸の存在が気にいったようだ。こうなってしまえばかさねは満足するまで揶揄い続ける。蓮はそれに気づき少々……ではなく、かなり呆れた。
≪わっちは……ほんにっ≫
「狸である事を認めれば今すぐ楽にしてやる」
≪楽とは何でありんすか?!≫
「詳細を語れと言うのなら原稿用紙4枚程度で語ろうか?まぁ少しばかりR指定が入る内容かもしれないが問題ないだろう」
≪問題ありでありんす!ぬし様は意地悪でありんすっ!!≫
「それは期待に応えろと言っているのか?仕方ない。そういうことなら仕方ないよな?」
≪そねえなこと言っていんせん!!≫
テンポ良くやり取りされる会話は聞いていて楽しいし微笑ましいものがある。
だが、そろそろ潮時だ。
「反応が楽しいからって揶揄うのも程々にしてあげたら?」
≪え………≫
「気づいていたのか?」
「どれだけの付き合いだと思っているの?そんなの分からないはずないじゃない」
「少しは乗ってくれても問題ないような気がするが?」
「あのね………」
楽しげに笑うかさねの態度に頭痛がする。
面白い事や楽しい事が大好きなことから幼少の頃から色々付き合わされてきた。
ある時は冒険だと言って家の裏にある堤防へ行き秘密基地を作る為に。またある時は近所の友人達を巻き込んで罰ゲーム付きの対戦ゲームで遊んだりと毎回こちらの予想を裏切る行動を取ってくる。どれも想い出話しをするには丁度良い内容ではあるが、それは巻き込まれず傍観を取った者達であればこそだ。
巻き込む天才。これはかさねを知る友人や幼馴染、親戚一同の共通見解である。
≪からこうてる?≫
「かさねの悪い癖だから直して欲しいんだけど、こればかりは大人になっても直らなかったんだよね」
「失礼な奴だな」
「だったらその性格直してよ」
「人間の性格は余程の事がなければ20歳前後で固定される。よって現段階では無理だ。諦めて受け入れろ」
「直す気もつもりも全くないんだね………」
「この性格は気に入っているからな」
死ぬまで直すつもりがないことが良く分かる台詞だった。
今後も間違いなくかさねの騒動に付き合わされ、巻き込まれ、誰もが想像できない方法で解決していくのだろう。不思議なことにそれを不愉快に感じることなく楽しいと思うのはかなり毒されている証拠なのかもしれない。
かさねはそうやって多くを巻き込み、多くを助けていく。実にかさねらしい。らしすぎて大人しい素直な性格をした姿はあまりに歪で空恐ろしく感じてしまった。
≪………全部、嘘でありんすか?≫
「全く違―――」
「そうそう!かさねの冗談だよっ!」
≪安心しんしたっ≫
咄嗟に言葉を続けさせないようにかさねの口を両手で塞ぐ。
横から感じる怨嗟の籠った視線をやり過ごしながら空笑いを続けた。これ以上続けられれば折角収拾した事態が再熱してしまい、更に面倒なことになるかもしれないからだ。冷房が効いているはずだというのに背筋に冷たい汗が流れるのが止められない。
1つ片付いたものが蓮の行動でまた1つ生まれる。今度はどう収拾すべきか思考を廻らそうとしたその時、グゥーという腹鳴が聞こえた。音源の元を辿ると狸に行き当たり、2つの視線を浴びた狸は恥ずかしげに下を向いている。
(そう言えばさっき……)
蓮が食べようとしていたチョコチップクッキーを横から奪おうとしていたことを思い出す。あの行為はお腹が空いていたからの行為であり、今まで鳴らなかったのはかさねの行動のせいで体が忘れていたのだろう。
ちらりとかさねの方に視線を向けると蓮の意図する事が判ったのか、呆れたように小さく頷くのが判った。塞いでいた手を外し、かさねが片付けた袋の中からチョコチップクッキーを2、3枚ティッシュの上に取り狸の目の前に置く。
「良ければどうぞ」
≪……良いのでありんすか?≫
「お腹空いているんでしょ?」
ふんわりと鼻腔を擽る甘い匂いにごくりと喉が鳴る。匂いだけでもそれが美味しいのか判り前足を伸ばし器用に1枚取ると口の中に放り込んだ。
≪美味でありんす!≫
「良かったね」
美味しそうにチョコチップクッキーを食べる狸の姿は見る者を和ませる。ほんわかとしたような、ほのぼのとした空気が蓮を中心に漂い始めるのをかさねは視界の端で確認すると片付けておいたペットボトルを掴み御茶を喉に流し込む。そしてついでとばかりにチョコチップクッキーを1つ摘み口の中に放り込んだ。チョコレートの甘みが口に広がり始めたとき、昔読んだ本の内容を思い出す。
チョコチップクッキーの中には動物に与えてはいけない成分が大量に含まれている。
例えばチョコレートにはテオブロミンという成分が含まれており、それを動物が大量摂取した場合体内から排出されず嘔吐、下痢、痙攣といったチョコレート中毒を引き起こす可能性があるのだ。そして砂糖は高カロリーな上に糖分が多量に含まれているため肥満と虫歯の原因となる。玉葱と比較すれば中毒性は弱いが、動物に与えてはいけない食べ物として挙げられていたはずだ。
ちらりと視線を向けると既に数枚食べているので今更どうこうする事は出来ない。狸ではないという言質を免罪符とし、視覚情報は都合の良いように無視することに決め景色を楽しむことにした。
窓から流れる景色が見覚えのあるものに変わっていき、最寄駅が近づいている事を教えてくれる。
それはこの奇妙で不思議な旅が終わるということだ。
最後に見た記憶と一致する景色と一致しない景色は、目に見える形で時の流れを突き付けてくる。それを1つ見つけるたびに眉を顰めてしまうのは変化を嫌う田舎の人間らしい考えかもしれない。だが、それでもかさねは生まれ故郷が変わらずそこにあり続けている事を望んでいた。願っていた。
これが如何に身勝手で我儘で、絶対に叶えられないことは判っている。それでも唯々愚直に願う事を止められない。
(帰るつもりは全くなかったんだがな……)
かさねはとある理由により、死ぬまで帰郷するつもりがなかった。
学生時代は卒論を理由に。社会人になってからは仕事を理由に帰郷していない。両親からは電話で何度も帰郷を促す言葉を言われたが、一度も首を縦にふった事はなかった。5歳年下にいる最愛の弟も休暇の時期になると何度もメールで今度こそ帰ってくるのかを聞かれたが、それでも帰る事はなかった。
今回も帰るつもりは全くなかったのだが、蓮と共通の友人が共謀し強制手段を取られたせいで帰郷する運びとになったのだ。もし、この手段を取られる事がなかったら今頃クーラーの効いた部屋で買い溜めをした新書を読んでいただろう。
(己を狸ではない、異世界出身で魔法の存在を明言している。言葉を理解し話す事が出来ることからロボットかと思っていたが、現代科学に置いてこうも精巧で精密なものを完成させるだけの技術はまだないはず。……それに感情等のプログラミング多岐にわたる問題から確立されていない)
会話をする相手がいないため、先程の狸の言葉を反芻しながら己の考えをまとめていく。
滑らかで自然な動作に奇抜な発言に対する反応速度と感情表現。そして飲食可能な仕様を見る限り、最新の現代科学と技術を結集しても作り上げる事は不可能だと考えられる。仮に可能だとしても態々狸仕様にする必要は全くない。万人に愛される動物である兎や栗鼠、猫や犬にするのは通常だろう。
確実な証明として魔法を見せてもらうということも考えたが、それは瞬時に却下した。
相手にとって小規模魔法が、こちらの世界基準でいうところの大災害では割に合わない。そして魔法使いの弟子ということは未だ誰かに師事を仰いでいる半人前だということになる。安定しない力は方向を失うと自分自身に返ってくるだけではなく、その周りを巻き込む可能性が高いのだ。
そして何より場所が悪い。現在位置は密室空間であり、未だ移動を続ける車両の中だ。未知なものを試すには不適切な場所であり、最悪を想定した時の被害総額は計り知れない。賠償金額を脳内算盤で弾いてみたが、一生かかっても返済しきれない額が見えたような気がした。
疑問は生まれては消える。
それは回答のない問題を永遠と解き続ける作業にも似ていた。
例え答えが出ない内容でも思考を止める事が出来ないのは職業柄かもしれない。
『まもなく――駅に到着いたします。お下りのお客様は――――』
思考の海に漂い続けていた意識が瞬時に浮上した。
車掌のアナウンスが告げたのは蓮とかさねが下車する駅の名前であり、かさねにとっては家族との再会までの秒読み開始が開始された瞬間でもある。何せ駅には母親が迎えに来ると弟から連絡が入っていたのだ。
正直、今までの行動を返り見ると逢い辛いものがある。
「そろそろ着くから準備をした方が良い」
「あ、そうみたいだね」
意識が沈みそうな杞憂を無理矢理振り払い立ち上がる。
蓮も膝に乗せていた狸を座席に降ろし、上の棚からキャリーケースを降ろす。乗客の邪魔にならないように、防犯のために棚に上げていたが結局誰1人としてこの車両に乗車しなかったため無駄な行為として終わってしまったが。
狸の魔法が継続されていたのか、それともただの偶然が起こした産物なのか。この事象を解析することは出来ないが、ただ1つだけ確実な事が言える。もしこの号車に蓮やかさね以外の乗客が来た場合、混乱と混沌を生み出す結果を生み出していたということだ。そうなれば情報化社会に相応しい手段で瞬く間に世界に世にも珍しい狸の情報が配信されただろう。
そのことを考えれば狸の取った選択は最良であり、最善だったと今なら言える。
≪どこへ行かれんすか?≫
「次の駅で下車して実家に帰るんだよ」
「狸も早急に帰った方が良い。そうしなければ面白……じゃなかった大変なことになるからな」
≪まだ信じてくれんせんか?!後本音が隠し切れていんせん!≫
「ネットに流されたら研究機関が意気揚々確保するためにやってくるかもしれない。そうなれば何らかの形でこの世界の発展に繋がるだろうが………」
≪そのようなものになりたくありんせん!!≫
「残念だな」
≪いい加減狸じゃないって認めるでありんす!≫
「何をもって認めろと?」
小さめのリュックを担ぎ、キャリーバックのプルドライブハンドルに実家宛のお土産袋を通す。中に入っているのは強い衝撃を与えると型崩れが起きる生菓子も入っているため、出来るだけ丁寧にそれが安定するようにサイドハンドルの上に置く。
この時、視線は完全に狸から外れていた。
だからこそ気づくのが遅れてしまった。
そしてその一瞬が致命的なミスを引き起こすことになる。
≪証明してみんしょう。わっちが狸ではないということを≫
僅かに低くなった声色に異変を感じ視線を向ける。そこには右前脚の指を使い長方形の札を持っている狸の姿があった。札には複雑奇怪な模様と三角を組み合わせて作り上げられた紋章が中央上部に描かれている。
そのどれもが蓮とかさねが持ち合わせている知識に当てはまるものがない。
誰かの心臓がとくり、と鳴った。
書き足したい部分がありましたので、流れを少し変えました。
その影響により、本来1話だったものが2話分になります。
前回読まれた内容とは流れが変わりますので、少しでも面白いと思っていただければ嬉しいです。