迷いの森
どれほどそうしていただろう。
人影が消え、声も聞こえなくなった森の前で、ようやく自分を取り戻した。
すこしも動かさなかった身体は、湿気た風に吹かれつづけて、肌寒ささえ感じるほどになっていた。立ちつくしていたせいだろう。わずかに動かしただけで、ひざがきしきしと軋む。
草原はどこまでも広がっていて、聖都ダールの街並みも、女神パルシュナの神殿も、なにひとつ視界に入らない。
戻るすべはないようだ。胸中はひどくささくれ立っていたけれど、森に進まなければと考え、ひたいに開けと念じる。戸惑うような白が、二度ほど明滅してから世界に光をもたらした。
世にいう真導士の力。
真導士のおこなうすべての奇跡、これまさに朝日のごとくと聞いたことがあった。限られた者にあたえられるという恵みの光。しかし、いまの自分にとって、その光はあまりに虚しいとしか思えなかった。
苦痛を運んでくる白。
よどんだ気持ちをかかえながら、森に足を一歩ふみいれる。一歩入っただけで、湿気た大気がより濃くなったのを感じた。
森の樹木は、大半が古木である。長い年月のなかで太い幹を育て、生い茂る葉を生みだした。木漏れ日がすくない森。本来なら、幹に厚く張りついている苔の色で、不気味な暗さをたもっていることだろう。
森のなかに、真円がいくつか輝いていた。すべてが誘うように光をはなっている。その事実を見て、どうしようかと考えた。どうも複数の道があるようだ。どれが正しい道なのか。
ほかの人たちは、どれを選択したのだろう？ できるかぎり、会いたくはない。
真円はあまりに均一で、差を見つけられそうになかった。まさか、自分だけがわからないのだろうか。真力が低い "落ちこぼれ" には——。
さらに開けと念じても、輝く円は同じ形をたもっている。最初から正解を選ぶのは不可能そうだ。進んでいけば、行き止まりになっているかもしれない。
そう考えて、もう一歩だけ進む。動いたのと同時に、森の奥から大勢の悲鳴が聞こえてきた。
反射的に身体が跳ねあがる。そんなに遠くはない場所で、逃げろと口々にわめいている。
（なに）
女の甲高い叫び。「そっちに行くな」と、はげしく怒鳴っている者もいる。
（なにかいるの……？）
全身に鳥肌が立った。胸に叩きつけるような衝撃が走る。ついで、耳鳴りが頭をしめあげていく。
（あれが、来る——）
あの悪夢のつづきが、追いかけて来る。
うしろをふり返った。広がる草原には影ひとつない。なにもないその景色が恐ろしい。隠れられる場所が、どこにもないのだ。
いまの自分は冷静ではないと、どこかで知っていた。けれども、あとからあとから湧き出でる恐怖が、背中ごしに走れと追い立ててきている。
なにかに急かされ、かけ出した。真円など見てはいなかった。森の緑も、枝も、枯れ葉も。いっさい目には入らなかった。葉にかかれ、根につまずきながらも、足を止めることができない。
逃げなくては
どこまでも走って
隠れて
決して見つかってはいけない
見つかったらきっと、きっと——
たおれた樹木を飛びこえようとして転ぶ。助けてくれる人はいない。信じられるのは自分だけだ。逃げて、隠れるしか、生きのびられない。
転んだ場所で、太い樹木を見つけた。這いながら進み、樹皮に手の平のやわい皮膚を裂かれつつも、冷たいそれにすがる。
歯を食いしばった。走りすぎて息が苦しい。それでも口を閉じていなければ。声をひとことでも発したら、見つかってしまう。
目頭が熱い。でも泣いてはいけない。泣いたらもう独りで走っていけない。
来た方向とは逆側にまわりこみ、うしろから追いかけて来るはずのなにかに見つからないよう、必死で隠れた。
唇をかみしめすぎて痛い。けれど決して声を、涙を出してはいけないのだ。
来る……。
——落ち着いて
追いかけて、来る……。
——あれとはちがう、ちがうから
隠れないと、見つかる……。
——ちゃんと見て、あれじゃない
見つかったら……。
——ちがう
見つかったら、食い殺される！
その瞬間、下から突きあげるような力がきた。
見やれば、地面がぼこりぼこりとふくれ。沸騰した湯のような様相になっている。
熱もないうえに、湯気もない。それでも絶え間なく地形が変動する。すがっていた幹が、ぎしぎしと悲鳴をあげはじめた。
視界が白く染まった。周りの樹木が、いっせいに輝き出したのだ。悲鳴をあげることさえできない。ただただ、白の洪水に飲みこまれていく。
身体が浮遊する。
浮遊と同時に地面が割れて、闇が大きく口を開けた。助けを求めようと腕を伸ばしてみたものの、なにもつかむことができず。指先が空をむなしくかいた。
