カルデス商人と甘い果実
キクリ正師の"転送の陣"によって、隠し倉庫から脱出できた。
隠し倉庫には、里の高士達が調査に入ることになったようだ。
今回の一件は大手柄であると、キクリ正師に褒められながら馬車に戻る。
馬車の中では、他の導士達が疲れ果てた表情で座り込んでいたが。自分達の姿を認めると、大きな歓声が上がった。口々に無事を喜んでくれる彼等からは、もう侮蔑の気配を感じることはなかった。
例外はディアだけで。彼女はこちらを睨みながら、それでもこの時ばかりは何も言わず、静かに座り込んでいた。
馬車に揺られ、自分もローグもすっかり寝入ってしまった。
聖都ダールの"転送の陣"まで戻った時、ジェダスが起こしてくれた。どうも自分は眠っている間、ずっとローグに寄りかかっていたようで「お邪魔をして申し訳ありません」と余計な一言を頂戴した。
次に会った時、どのような顔をすればいいのだろう。鬱々と悩みながら慣れた道を歩いていく。
足元には、かわいい白イタチ。
今朝、家においてきたはずのジュジュ。この子はどうやって、自分のところまでやってきたのだろうか。
「ジュジュ、どうやって出てきました? 家からは出られないはずなのに……」
聞いてはみるものの、ジュジュからの返事は期待していない。どうしてあの場所にいたのか。理由がさっぱりつかめなかったので、あふれる疑問を外に出してみただけだ。
「変なこともありますね。……聞いていますか?」
並んで歩いているというのに、黒髪の相棒は黙りこくったまま。疲れているのはわかる。でも、ここまで無言になられると気になって仕方がない。
ローグに視線を送ってみれば、ただ黙って見つめ返してくる。感情を落としてきたかのような彼に、ひどく胸がざわめいた。
「……あの」
「また、覚えていないのか」
抑揚のない声音。
だが、彼が何を聞いているのかは理解している。
「全部は、覚えていません……」
全部は覚えていない。けれど、全部を忘れてもいない。
記憶を辿りながら、視線を手の平に落とす。夕闇の中に浮かび上がった手の平は、青白さを強調されているように思える。
「あの時、自分の中にある何かが外れて……」
ずっとずっと、そこにあった大きな蓋。
それがあると気づいたのは、あの穏やかな夢を見た時だ。
「その奥に、懐かしいものが詰まっていたから。夢中で引っ張り出して……」
蓋の奥には、たくさんの何かがあった。いまとなっては、よく思い出せないけれど、とても懐かしい何か。
両手を天に差し出した。
「青くて、幸せで……。知っているはずなんです、わたしは」
夕闇の空に、自分の両手を掲げた。
「すごく、よく知っている――」
このまま両手を差し出していれば、つかめるような気がして、無心に腕を伸ばしていく。
もう少し、あと少し……。
そう思えた時。骨ばった熱い手に、道を遮られてしまった。つかむ形のままの右手を、彼がゆっくりと下ろしていく。
届かなかった何かへの寂寥が、胸を占めた。
「やめてくれ……」
不安を映す彼の顔。何故か悲しくなってしまう。
「いまは、もういい。どこかに行ってしまいそうだ……」
わたしが?
そんなことはない。いまだってこうやって一緒に家に帰ろうとしているのに。
ローグが、右手を連れて歩き出す。
「あの!」
疲れてはいるが、支えられないと歩けないほどでもない。
手を離してもらって大丈夫だと、そう告げたのだが。彼は手を解いてくれない。
「ゆっくり、行こう」
「え?」
「無理して急いでもいいことはない。少しずつでいいんだ……」
ローグさんと呼びかけようとして、追加規則を思い出す。
あと二点だ。
危ない、危ない。
「俺はまだ待てるから、ゆっくりでいい」
待つ?
彼は何を待っているのだ。
「まあ、虫よけくらいはしないと、そろそろまずいのかもしれん」
どこかで聞いた覚えのある話に、妙な予感を覚える。
「ロー……。あの」
呼びかけようとしてみたが、恥ずかしい。
意識してしまって、とてもではないが言葉にできなかった。
「今度ばかりは失敗したくないからな。時間をかけてやらないと」
ぞわりと、背中が震えた。
何故だか急に鳥肌が……。今度こそぶり返してしまったのか。ふるふると震えていたら、ローグが足を止めて自分の正面に立った。
「あ、あの!」
この気配は覚えがある。身の危険を感じて、一歩下がってみたが、彼がその一歩分の距離をまた埋めてしまう。
ローグが笑っている。
魅惑的なその笑顔は自分の弱点で、いつもなら目が離せない。しかしいまは、視線を集中させて黒の瞳を確認する。吸い込まれそうな黒の奥……。
そこには、あの種火のような光があった。
逃げようと後ろに足を伸ばしてみたが、彼の両手が顔を固定してそれを阻止する。いつかを再現するような状況。忘れていた羞恥が一気に立ち昇っていく。
「慣れたわけではなかったのか?」
熱に染まってしまった顔を、ローグが楽しそうに眺めていた。彼の中の少年が、悪戯をしかけてきている。必死に思い込もうとしてみたけれど、彼の言葉が思い込みを否定する。
「きっと、美味いはずだ。だから時間をかけても惜しくはない」
彼の手が頭の後ろに回されて、より顔が近づいてきた。正面から届くその低い声に、あらぬものが混ざっていると……わかってしまった。
もはや意識をしないようになど、できようはずもない。
「甘く実れよ」
耳に直接注がれた色めいた声は、すべてをあっさりと打ち負かしていった。
のぼせた頭を抱え、家路を辿る。
しばらくは果実など見たくもない。胸中で呟いたその声は、生憎と女神には届かなかったようで。
次の日、長身の友人から白く透き通る果実を贈られ、思わず天を仰ぐことと相なった。




