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真導士サキと第三の地  作者: 喜三山 木春
第三章 咎の果実
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鈍色の雲

 簡単な昼食の後。食べ終えた皿と、薬湯を入れていたカップを一緒に下げる。

 室内が暗い。

 外を見やれば、いまにも降り出しそうな分厚い雲が垂れこめていた。

「暗いですね……」

「ああ、一雨来そうだ」

 居間にはいくつかランプを置いてある。

 そのうちの一つ。食卓の上に掲げてあるランプの輝尚石を三回つついた。輝尚石から真円と共に炎が立ち上がり、食卓を明々と照らしていく。

「点けなくても本は読めるぞ」

「……わたし、暗いところが苦手で」

「そうだったのか。ではランプが切れそうになったら早めに言ってくれ。すぐに輝尚石を造るから」

 ようやく平常心を取り戻したらしいローグは、いつもよりずっと親切に言い募ってくれる。反省をしているらしい態度を見て、憤りの炎はようやく鎮火へと向かう。

 わかればよろしい。


 炊事場の洗い桶に食器を並べ、桶の上に吊るしてある輝尚石をまた三回つつく。

 水晶がまばゆく輝き、とうとうと水を流しはじめる。水は天水の真導士でも扱えるので、この輝尚石は自分が真術を籠めている。いまにも雨が降りそうな時に、外に出ないですむのはありがたい。真導士になれて感謝するのはこういう時だ。


 居間の方で、かたりと音がした。

 ローグが読書をはじめるのだろう。頭痛が治まってきたのかもしれない。この調子なら、夕飯は普段の量に戻してもよさそうだ。

「ローグさん、いま何の本を読んでいるのですか」

 洗い物をしながら声を掛ける。

 機嫌が直ってきたと察知したのか、ローグの声が明るく返ってくる。

「真円の本だ。真円を大きく保つにはどうしたらいいかと思ってな」

 それは是非聞いてみたい内容だ。でも自分は、本を読むのが大の苦手。読めたとしてもローグの十倍は時間がかかってしまう。少しずるいかもしれないが、ローグに訳してもらおう。

「真円って、念じてもそこまで大きくなりませんものね。どうしたらいいのですか」

「どうも気力の方が重要らしい。真円の大きさ。それ即ち、気力の頑強さである……と書かれている。気力が充実していれば、大きな真円を描けるということだろうな」

 気力か。

 では今日の自分なら、前よりも大きく描けるかもしれない。

「気力だったら、ローグさんは大丈夫そうですね」

 覇気の強さは、先日しっかりと確認した。彼なら気力も十分過ぎるくらい備わっているだろう。

「……そうでもない。ちっとも大きくない」

 めずらしく自分を卑下する言い方をしたので、かなり驚いた。


 彼は自信家である。

 自分に絶対の自信がある、ということではなく。必要な事柄さえ抑えれば誰でもできるようになる。つまり自分もできるようになる、という理知的な自信家だ。現在はできずとも、諦めずやればそのうちできるという考え方をするので、いまのできない自分というものをあまり卑下しないのだけれど……。

「ヤクスの真円を見ただろう。……やってみたがあんなに大きくは描けなかった」

 ああ、そうか。彼は負けず嫌いなのだった。

 ちらちらと幻の少年が顔を出す。弱みがばれたので、どうも開き直ってしまったようだ。


「あれは、すごかったですね……」

 思い出して嘆息を漏らす。

 真円の独特さも目を引いたが、あの真円の大きさは驚くばかりだ。この家を囲めるくらいはあったように思う。

 自分は身体を囲うくらいがやっとだ。ヤクスの描いた真円とは、比較にもならない。

「本人にコツを聞いても、やってみたら出来たとか言うからな。さっぱり参考にならん……」

 それがまた悔しかったのだろう。声音が完全に拗ねている。

「気力の頑強さとは、心根の素直さ。心根の素直さとは言霊の素直さなり……。ずいぶん説教臭いな」

 思わず愚痴も出てきたようだ。いきなり素直になったので、せっかくつかんだ弱みの意味が失われそうだ。

「言霊の素直さですか」

「表情だったらサキが一番だけどな。全部出てるから」

 おや? これは反撃だろうか。ならば受けて立ちましょう。

「ローグさんもですよ。嫌いな人と話している時、表情でわかりますもの」

 ぐっと黙る気配がする。

 その気配に向かって、小さいけれど爪もありますよと、心で呟く。


「……言霊の素直さね。確かにヤクスは素直かもしれんな」

 彼が話題を変えたので勝利を確信した。今日は本当に負ける気がしない。

「そうですね……。ヤクスさんみたいに話せれば、わたしでも真円を大きくできるのでしょうか」

「サキ……、"わたしでも"は駄目だ。そう書いてある」

 言われて息を飲み込む。説教臭いその本は、なかなか的は射てるらしい。

「書いてある注意の正反対が、ヤクスの性格を言っているようなものだな。あんな真円を描けるわけだ。基本的に悪い奴ではないから……」

「ローグさん、きっとそれも駄目ですよ」

 居間から息を飲む音がする。しばらくして二人同時に噴き出した。

「……真円を大きくするのは難しそうですね」

「そうだな、これは少しずつ慣れていくしかない。新しい規則を追加しよう。この本の注意を守れなかったら駄目ってことで」

「すぐにはできませんよ」

「点数制にしよう。十点で何か一つ、相手の言うことを聞くというのはどうだ」

「かまいませんけれど。二人ともすぐ満点になってしまいますね」

「辛いが、これも修業だ」

 少し悩んだが、デコピン以外なら大丈夫かと思い、了承を伝えた。


 その時、扉を叩く音が居間に響いた。

 二人の家を訪ねてくるのは一人しかいない。今日、その唯一の友人は、聖都に買い物に行くと言っていたはず。

 ローグが立ち上がった音がした。

 来客の応対は、ローグの役割となっている。彼が応対している間、洗い物をしていては失礼だ。急いで輝尚石を二回つつき、水を止めた。

「誰だ」

 問いかける声音は、どこか冷たい。

 彼もヤクスではないと思っているのだろう。

「ローグレストだね。キクリ正師からの連絡を伝えにきた。開けてくれないか」

 炊事場に掛けていた布で手の水を拭いつつ、どこかで聞いたことがある声だと扉を注視する。

「お前の名は?」

 ローグは扉を開けずに応対する。

「イクサという。君と同じ導士だ」

 相手が名乗り、ローグが扉を半分だけ開いた。

 わずかに開かれた隙間から、ずいぶんな応対を受けているというのに、笑顔を浮かべたイクサの姿が見えた。

「イクサさん……」

 驚いたように、ローグが振り返る。

「知っている奴か?」

「はい。ローグさんも一度お会いしていますよ」

 再度イクサの顔を確認していたけれど、彼はどうも思い出せないようだった。イクサはそんなローグの様子を気にもせず、自分を見て柔らかに笑んだ。

「サキ。よかった、元気になったみたいだね」


 とても好意的な挨拶だというのに、ローグは露骨に眉根を寄せた。何故か焦る気持ちが胸に走ったので、急いで扉の方へ向かう。

 ついさっきまで穏やかに会話をしていたのに、ローグの様子が変だ。イクサが苦手なのだろうか。

 輝かしい金の髪をしたこの人は、誰にでも好かれそうな印象だ……。彼はいったいどこに引っ掛かったのか。

「はい。もう大丈夫です」

 リーガ達の騒動は、もう伝わっているのだろう。

 とても心配していたと続けるイクサを遮り、ローグが無理矢理に話を戻した。

「キクリ正師からの連絡とは何だ」

 声音が厳しい。

 ローグは、本当にどうしてしまったのだろう。自分が扉のところまで近づいた途端、半分しか開けていなかった扉を、さらに少し閉めた。

 これではイクサの表情が窺えない。雲はいまにも冷たい雫を落としてきそうなのに、中に入ってもらうつもりはないらしい。

「そうそう、ローグレストとサキに連絡なんだ。明日実習だから準備をしておくようにって」

「実習?」

 扉越しに聞こえるイクサの声の調子は変わらない。ローグの態度で気分を損ねてしまったらと心配したけれど、どうも杞憂だったようだ。その事実にそっと胸を撫で下ろす。

「ああ、里の外で活動するのだそうだ。……導士の初仕事だね。明日、"一の鐘"が鳴ったら、学舎の門に集合するよう連絡しにきた」


 初仕事――。

 ついに、この時がやってきた。

 真導士は里の指示で仕事をこなす。導士にも、数は多くないが依頼が割り振られると聞いていた。

「それで……、準備とは何をすればいいんだ」

「大したことではないよ。動きやすい格好と、必要なら輝尚石を籠めるくらいだね。初仕事だからそんなに大変ではないのだと思う。あとローブだけは絶対に着てくること、だそうだ」

「わかった。確かに了解したので、もう帰ってもらって結構だ」

 急いで扉を閉めようとしたローグの腕を、イクサがやんわりと止めた。

「……少しだけ、サキと話してもいいかい。本当に心配していたんだ」

 ローグの表情が抜け落ちた。

 外から冷えた風が入ってきたのを感じて、ふるりと肩が震えた。

「サキは病み上がりだ。明日、実習があるというなら少しでも休ませたい」

 表情を失った彼は、とても硬質な印象を人に与える。しかしイクサは、有無を言わさぬ彼の様子にたじろぐこともなく、重ねて言う。

「手間は取らせないよ。長居はしないと約束する」


 二人の会話の雲行きが、一気に怪しくなっていく。大慌てで開いている隙間から、イクサに向かって顔を出す。ローグの腕越しに会話する姿勢となるけれど、いまは仕方ない。

「あの、少しなら大丈夫です……」

 右上の方からローグの視線を感じる。緊張で胸がざわつくが、いまだけは振り向かずイクサに視線を合わせ続ける。

 イクサの瞳は、顔立ちと同じような柔らかい色をたたえていた。初めて正面から向き合ったので、彼の額飾りがよく見える。この石は何だろう。イクサが動くたび、紫になったり赤になったりと、忙しなく色が変化している。

「サキ、無理を言ってごめん。体調はまだ優れないのかい?」

「……いえ、もう大分よくて」

「そうか、明日オレも同じ実習に参加する。何かあったら声を掛けてくれ。この間のお詫びもあるし、ディアの件もあるから……。出来る限りのことはさせてもらうよ」

 イクサも同じ実習なのか。ならば相棒であるディアも来るのだろう。少しだけ暗い気持ちになった。しかしいまの自分は、それ位でめげない力がある。

 きっと明日も大丈夫だ。

「本当にそれは気にしないでください。イクサさんが悪いわけではないので」

 伝えたら、紫の瞳がやさしい光を帯びた。

 やはり彼に見られると落ち着かない。そわそわとしてしまって、視線を合わせるのに苦労する。

「……もう、いいだろう」

 低い声が介入してきた。声からも感情が抜け落ちたようで、ローグの心が窺えなかった。

「そうだね、無理を言ってすまなかった。それではまた明日」

「はい、また明日……」

 そう言って、イクサは帰って行った。


 ローグは、イクサが帰っていく姿をしばらく眺め。それからきっちりと扉を閉めた。勢いのまま、居間に一つしかない窓掛けを下ろし、外のすべてを遮断する。

 彼の行動は明らかにイクサへの拒絶。どうしてそうなってしまったか見当もつかず、不安を抱えながらローグを見つめる。

「サキ、今夜の食材はあるのか」

 相変わらず感情を見せない声に、寂しさを覚える。

「はい。あります……」

 黒の瞳がようやくこちらを見た。ちりちりと種火が燃えているように思えたのだが、彼が一つ瞬きをした後には元の……普段通りの吸い込まれそうな黒になっていた。

 ようやく目元を和ませた彼は、イクサが来る前のローグだった。知らずに力が入っていた手から緊張が抜けた。

「今日は外に出ない方がいいな。もう雨が降ってきそうだ。……明日に備えて輝尚石を造ってしまおう」

 彼はそう言って、居間の隅に置いてある棚に向かう。水晶を取り出している手を眺めつつ、いまにも降り出しそうな雲を思う。


 すぐにやってきた激しい雨は、夜遅くまで降り続き。あたたかな大地を冷たく覆っていったのだった。

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