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真導士サキと第三の地  作者: 喜三山 木春
第三章 咎の果実
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境界線の男心

「どうして逃げる」


 黒が揺れる。

 屈んでいるせいで、いつもより深く前髪が垂れて、黒の瞳を遮っている。時折、種火のような光が、そこから漏れているように思えた。光の正体がわからず、身体が勝手に慄いてしまう。

 どこに行くと、子供のように問いかけてくる彼。だがその声音は間違いなく大人のそれで、感覚の隔たりが思考を混乱させていく。


 こんな状況で、いまさらながらに思い出す。

 彼は男なのだと。


 忘れていたわけではない。ただ、あらためて事実が鮮烈に刻まれる。

 日々寂しさを訴え続ける場所が、胸の奥で大きさを変えた。すべてをさらけ出したら楽になれると、訴える声もある。しかし、自身の羞恥で、それをどうにか抑えて留めていく。

 平静を失ってしまったら、この張り詰めた糸に支えられたすべてが崩壊してしまう。

 崩壊してしまったら自分は。彼はどうなってしまうのか。

 その結果を見ることが怖い。


「ローグさん、お願いだからどいてください」

 切な願いを、低い声が否定する。

「いやだ」

 彼はそう言いながら、上から覆い被さるように動いた。あっという間に身体の全てが包まれる。両腕で彼の胸を押しのけようとしてみた。しかし、効果はまったくなかった。

 苦痛を感じるような力ではないのに抵抗しきれず、すっかりと腕の中に収められてしまう。

 自分の頬と、彼の首が触れ合った。

 押し潰された耳に、強い調子で刻まれている彼の脈が響いてきた。

「……だ、めっ」

 胸の奥に疼くような痛みが生まれた。その甘く鈍い痛みと、ローグの熱に翻弄される。守られていた日々で、あまりにも馴染んでしまった彼の体温。そのぬくもりは自分を焦がしもするのだと、ようやく理解した。

 この関係は何だろう。

 いつの間に、ここまで近づいてしまったのだろう。離れたくない気持ちにばかり目が行って、彼との距離感がわからなくなっていた。

 自分とて子供ではない。この状態が、相棒とひとくくりにしてしまえる形とは違うと理解している。では何かと聞かれても、明確な答えを紡げなかった。その先は未知の領域だ。

 知らないという感覚が、何よりも身を竦ませる。


「ローグさん、駄目!」


 無理矢理出した大声を聞いて、ローグがはっと息を飲み、拍子に腕が緩んだ。その隙を逃さず腕からすり抜け、全力で部屋まで駆ける。勢いよく扉を閉じて、そのままずるずると床に座り込んだ。

(ああ、もう……)

 包み込まれていた温もりを失い。少しずつ冷えていく身体を抱える。

 焦げた頭と身体を抱え、一人悶々と夜を過ごすはめになった。




 朝になり、警戒しながら扉を開けて居間を見渡す。

 誰もいないことを望んでいたのに、長椅子の上に寝転ぶ影を見つけて、ついびくりとなった。窓はちゃんと閉められていたが、ローグは自室に戻らず、長椅子で寝てしまったようだ。

 そろりそろりと音を消しながら近づいてみれば、規則的な寝息が漏れてきていた。寒くはないのか。何も掛けずに寝ているローグを見て、自分が寒さを覚えてしまった。

 なので取り急ぎ自室へと戻り、毛布を取ってきて彼に掛ける。毛布を掛けている最中も気が気ではなかったのだが、起きる気配は一切なかった。


 平静を取り戻すまで起きないで欲しい。

 心で念じた声が、女神の耳に入ったのだろうか。朝と言える時刻が過ぎても。昼と呼ぶ時刻になっても、ローグが起きる気配はなかった。

 さすがにそれだけの時間が経てば、常の心を取り戻せた。さらには昨夜の所業に対する憤りも湧いてきたので、もう起きても怖くないと思ってもいた。

 そもそも、最近は悪戯が多過ぎるのだ。昨夜は酔っぱらったせいであんな……ことになったけれど。

 反応を見て、楽しんでいるのは明白だった。今日こそはきちんと抗議せねばと決意し、厳めしい顔を作りながら彼を起こしてみた。

 起こしてみて呆れた。自分をこんなにも悩ませていた相棒は、まんまと二日酔いに陥っており、長椅子から抜け出すこともできなくなっていたのだ。


 寝ていても楽にはならない。ヤクスが念のためと置いていった二日酔いの薬もある。何とも気が利く友人に、心から感謝をしつつ。頭痛を訴える相棒のため、湯を沸かす支度をはじめた。

 憤りの気配を感じ取ったのか。居間の方から、巨大な芋虫が毛布から脱皮し、食卓の椅子に掛けた音が聞こえてきた。

 湯が沸くまでの間に一度様子を窺ってみたところ、頭を抱えて食卓で神妙に俯いていた。

「ローグさん、どうしてそんなになるまで飲んだのですか」

 自分でもつんつんしていると感じられる声だ。何かが突き抜けたいまの自分に、怖いものなどない。

 今日こそは、今日こそはと、胸の決意を固めていく。

「……面目ない」

 対する彼は、かつてないほどの弱気な声で返事をしてくる。声が掠れているから風邪かと心配したが、二日酔いが喉にもきているだけだと了解した。

「途中で止められなかったのですか?」

 追及の手はゆるめない。昨夜のようなことが繰り返されても困る。

「いや……、うちの家系は元来酒に強くてな。最初の内に苦しむだけ苦しめば、その後は何も感じなくなると……そう聞いて」

 もごもごとした、歯切れの悪い返事が聞こえる。

 薬湯が出来たので食卓まで持っていく。黒髪が下がっていて、顔色が窺えなくなっている。そんな相棒の目の前に、作ったばかりの薬湯を置いた。

 そのまま席には着かず、上から見下ろし続ける。視線は合っていない。しかし、厳めしい顔だけは忘れない。

 傍で立ち続ける自分の気配に戸惑ったのか、黒髪の隙間から窺う視線があった。種火のような光は見えなかったので大丈夫だと思い、ひたすらに見下ろす。

「それに、ヤクスも同じくらい飲んでいたし……」

 ほほう。

 黒髪の相棒は、対抗意識を燃やしていたらしい。悪戯好きで負けず嫌いなんて、まるで子供ではないか。

 そこまで考えて勘が何かを告げた。手掛かりをつかんだ感触がある。その感触を逃すまいと、透明な糸を手繰り寄せていく。


 ローグはとても大人びている。最初のうちはあまりにも出来た彼に恐縮し、自分のふがいなさを嘆いてもいたが、さすがに変だとも思っていた。

 自分達は同い年なのだ。いくら男女の差があるといっても、そこまで大きな差が出るだろうか。確かに自分の知見は狭い。けれど、村ではしっかり者で通っていた。

 それに一月も一緒に暮らしていれば、色々と見えてくる部分もある。いいところも悪いところも、何かを隠しているということも……。

 酒を飲み慣れていないのにそれを隠し。誰も咎めないのに焼き菓子を食べているのを隠し。自分が一人で苦心していれば、もっと頼れと過剰に言ってくる。

 三つ目は、やさしさや心配という部分が大半であるとは思う。しかし、前の二つは明らかに変だ。


(まさか……)


 体調がいいと勘も冴えるようだ。一月ほどもやもやと抱えていた疑問が、いま一本に繋がった。

 ローグは、大人の男としてありたいと思っているのではないのか、と。

 はっきり言ってしまえば、ただ大人ぶりたいのではないか。ちらりちらりと黒髪の隙間からこちらを窺う彼と。昨夜のあどけない口調の彼と。種をせっせと植える子供が重なっていく。

 ローグは無言を貫いたままの自分を窺い、そうっと薬湯をすする。そうして顔を隠すように、両腕で頭を支え、また俯いた。


 微笑ましい彼の本心を。ついにつかんだ。

 普段なら黙って見逃すが、今日だけは絶対に駄目だ。

 自分にも――覇気の薄いローグの相棒にも、小さいながら牙があることを、知っておいてもらうべきである。


「酔っぱらったローグさんには、本当に困りました」

「面目ない……。許してくれ」

「記憶はあるのですか?」

「だいたいは……あるとは思う。たぶん……」

 では、ちゃんと教えてあげよう。

 カルデスの悪徳商人らしからぬ怯えを見せている彼に、ゆっくりと。それこそ子供に諭すかのように告げる。


「昨日のローグさん、すっごく子供っぽかったですよ」

 彼の両腕から力が抜けて、乗っているだけだった頭が食卓に落ちた。痛そうな音と共に、掠れた呻き声が聞こえてくる。

 その有様が、自分の読みは正しかったと答えてくれていた。


 ついこの間まで少年だった青年は、やはり背伸びをしていたのだ。

 完璧に見えていた自分の相棒の、あまりに意外な弱点を確認し。ついつい悪い顔で微笑んでしまった。

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