真導士サキと第三の地

第二章 鼎の道

甘い晩餐

　よく眠っている

　にぎる癖は、変わっていない

　さっきまで泣いていたから、目が真っ赤だ

　ごめんね。今度はちゃんと守るから

　君は、ぼくをすっかり忘れているみたいだね

　それが、すこしだけ悲しい

　でもいいか

　また一緒にいられるから

　ねえ、サキ——

　まず天井が見えた。見なれた自室の天井ではないので、どこだろうと首を巡らし、居間の長椅子に寝かされていると知る。

なつかしい声を聞いたような気がした。でも、疲れ切った頭では、なにも思い出せなかった。お腹の上にジュジュがいるのを確認する。右手がそのかわいい尻尾をにぎっているのを見て、大あわてで手を離した。……痛くなかっただろうか。

　居間の食卓には四つの椅子。そのひとつにローグが座っている。本を読んでいた彼は、自分が目を覚ましたことに気づき、こちらに笑顔をむけてきた。

「起きたか」

　身体がふらついていて、起きあがることがむずかしかった。あくせくした挙句、どうにか座る格好をとる。

「もうすこしでヤクスが食堂から帰ってくる。持ち出しができるというから、夕食はそれにする」

　結局、夕食は食堂から取ってくるという結論になったのだと、霞(かすみ)のかかった頭で考えた。

「大丈夫ですか、ローグさん」

　食堂で出される、甘めの料理はきらいなはずだ。

「……今日は我慢する」

　空腹には勝てないのか、しぶしぶといった声で答えた。

「明日は絶対に、ステーキを作りますね」

「期待してる」

　そう言ってから、ローグが炊事場の方に歩いていく。しばらくして戻ってきたときには、その手に濡れた布を持っていた。

　自分の右頬に布が当てられ、そのあまりの冷たさに身をすくめた。

「今日はもう真術が使えないだろう。冷やしておくといい」

「はい、すみません……」

　答えてからしまったと思った。彼の右手は、早くもひたいの前に陣取っている。やってくるはずの衝撃にそなえて、ぎゅっと目を閉じた。最近は回数が減っていたのに、油断をしたと後悔する。

　ところが目を閉じて待っていても、なかなか衝撃がこない。おかしいと思い、左目だけ開けて様子をうかがう。そうしたら、ひたいの前に掲げられていた右手は、すでに下ろされていた。

「今日はほかの約束を守ったから、勘弁してやる」

　約束。

　それは、ずっと手に取れなかった、ローグのやさしさのこと。

「これからもちゃんと呼んでくれ。絶対に助けに行くから」

　胸で凝っていた言葉は、ついに形になってくれた。これも一歩進んだことになるだろうか。

「はい」

　返事をしたら、ローグの表情が変わった。彼は、悪戯を思いついたような顔で自分を見ている。

「あと、ずっと気になっていたことがある」

「え？」

　彼は、なにを思ったか唐突に顔を近づけてきた。触れそうなほど近くまできて、その動きを止める。咄嗟に後方へ逃げようとした自分の顔が、やってきた彼の両手に包まれる。頬は、濡れた布ごと固定されてしまった。

「……ロ、ローグさん！」

　あせりを楽しむように、黒い目が笑っている。顔が紅潮していくのがわかった。彼の両手に潰されている耳朶(じだ)が焼けるように熱い。

「サキ」

「な、なんですか？」

　声が近い。彼の息が唇に触れる。その途端、悪寒ではないなにかが、全身を走り抜けていった。

「今日は、俺もがんばったと思うんだが」

「はい……、がんばったと思います」

　混乱で極まった思考は役目を果たさず、ただ同じ言葉を繰り返す。

「ならば、謝罪以外に言ってほしい言葉がある」

「なんでしょうか」

　すぐ言います。いますぐ言います。だから顔をどけてくださいと、心で叫ぶ。

「わからないか？」

　からかいを含んだ声。答えを探せ、見つけてみろと悪徳商人が笑う。笑った拍子に、また吐息が唇に触れる。完全に血がのぼった頭のなかで、理性のかけらが大急ぎで答えを取って戻ってきた。

「助けてくれて、ありがとう……」

　言えば、目の前に満面の笑みが広がった。そのまぶしさに時が止まる。時を止めた自分のほうへ、ローグがさらに近づいてくる。焼き切れるほど白くなった頭に、こつんという音が届いた。

「わかればよろしい」

　触れあったひたい。彼の体温が鮮明に感じられて、残されていた理性も粉々にくだけ散った。

　こんこんという音が、居間にひびいたのは、まさにそのときだった。ローグは笑顔を崩し。小さく息をついてから扉を開けにいった。

「お待たせ！　夕食取ってきたよー」

「……ああ」

「あ、サキちゃんお目覚め？　よかった、じゃあいっしょに食べようか！」

　にこにこと笑っているヤクスは、熱に染まった自分を見て「うん？」と首を傾げた。そして、不機嫌なローグと交互に顔を見比べ、のんびりとした声で問う。

「なにかあった？」

　ヤクスが取ってきてくれた料理の味は、とてもではないけれど記憶に残らなかった。

　ふわふわとした気分のまま、寝床に横たわる。すこしだけ眠ったものの、それだけでは足りなかったようで、またもや睡魔に襲われている。

　明日こそはステーキで祝勝会をしようと言って、ヤクスは帰っていった。ローグは……やはり食事が甘すぎたらしく、胸やけがするとうめき、早々に自室へと引きあげていった。あのあと、ふたりきりだったらとても冷静ではいられなかっただろう。思い出すだけで心音が高くなる。

　ただの悪戯だ。気紛れで、自分をからかっただけに決まっている。

　思いこもうとしても、乱れた心音は踊りつづけている。彼のことを考えるたびに、鳴りをひそめていたさびしさが、胸を締めつける。本当に、自分はどうしてしまったのか？　悪い病気にでもなったのではなかろうか。同じ家にいるのに、さびしくて、苦しくてたまらない。

　自分と共に寝床へ入っていたジュジュが、心配そうに鳴き、頬にすり寄ってきた。そのまっしろい毛をなでて、どうにか落ち着きを取り戻す。

「ジュジュ」

　呼べば小さく鳴き声が返ってくる。自分を呼んでいるとわかっているらしい。頭のいい子だ。

　この子の顔を見たとき、真っ先に思い浮かんだ精霊の名前。これしかないと天啓のように閃いた。これが真導士の勘というものだろうか。

「ねえ、ジュジュ。お姫さまは旅人が好きだったけれど、旅人はどうだったのでしょうね」

　絵本には、お姫さまの気持ちは描いてあった。でも、旅人の気持ちはどこにも描かれていなかった。その後のふたりもよくわからないままだ。ほかの絵本にあるような幸せな結末は描かれていない、不思議な絵本。

　いろいろとあったせいか、おかしなことが気になってしまう。今日はもう、寝たほうがいいだろう。

「幸せになっていたらいいね……」

　ジュジュが、もう一度だけ小さく鳴いて、お腹の上に乗ってきた。どうも、ここがお気に入りのようだ。

「お休みなさい……」

　その晩、久しぶりに夢を見た。あの馴染み深い悪夢ではない、とてもおだやかな夢。どこかの森の古木の下で、ジュジュと一緒にお昼寝しているだけの夢。なんの変哲もない夢だったのに、朝起きたら涙が出ていて。ローグが呼びにくるまで、部屋から出ることができなかった。

　自分の奥で、何かが動き出している。

　そんな気がした。