真導士サキと第三の地

第一章 静白の門

選定の儀

　儀式はとどこおりなく進み、ついに手前まできた。

　黒髪の男が壇上にむかう。身体をこわばらせている自分とは対極に、男はいたって平静。こともなげに進んでいく。

　娘たちの声が聞こえてくる。高めの歓声を聞いて、壇上にひかえていた真導士のひとり——壺の横で水さしを持っている人物が、苦笑いをした。

　どうやら、この真導士は女性だったらしい。肌にはえる趣味のいい紅が、唇をいろどっている。

「よくぞ参りました。選定をおこないます。これを手に取り、壺へと進みなさい」

　艶やかな声は、そう大きくはないのにとてもよく通る。

　うながされた彼は、水さしを手に取って足を進める。そして、ごくあたり前であるように、淡々と水をそそぎはじめた。周囲がさわぎになっているのに、気にもとめない。なんとも肝のすわった人だ。

　しばらくして。高い声に占領されていた神殿が、とまどったようにゆれはじめる。しだいに娘以外の声も聞こえてきて、いまとなっては神殿のすみずみまで、ざわめきにつつまれていた。

　長すぎはしないか。ほかの若者たちとくらべて、あまりに時間がかかりすぎているのではないか。通常ならとっくに途切れているだろう水は、とうとうと流れつづけている。三人の真導士は、そのさまを静かに見守っていた。

　ついに——水さしから最後の一滴が落ちた。落ちると同時に、壇上から感嘆の息がもれた。

「なんと！」

　最初に声をあげたのは、年若い男の真導士だった。

「こんなことが……」

　女性真導士は、おののいたように両手で口をおおう。

「五つ目まであふれさせた者など、聞いたこともない！」

　壺の背後。右手側に立つ真導士は、しゃがれた声をはりあげた。

　三人の真導士の前にいる男は、姿勢もくずさずにいる。われに返った年若い男の真導士が、興奮でうわずりながら語りかける。

「よくぞ……、よくぞ参った！　そなたを歓迎しよう。さあ扉へ進みなさい」

　巻きおこった怒号のような歓声が恐ろしくて、きつく耳をふさいだ。神殿のなかに、称賛と羨望のさけび声がうずまく。ふさいでも、ふさいでも、骨を通して胃の腑にまで侵入してくる狂喜。竜巻のようなうずに飲みこまれ、頭がぐらぐらする。すべての声が消えるまで、しばらくの時間を要した。ふさいでいた両手をおろし、いつのまにか閉じていた目をうっすらと開ければ、壇上の女性がこちらを見ていた。あの黒髪の男は、もう歩み去ったあとのようだ。

「おつぎの方、どうぞ壇上へ」

　よりによって彼のあとに選定をうけるなんて。自分の間のわるさを、本気で呪いたくなった。

　周囲は、さきほどの興奮から冷めきってはいない。いままでのだれよりも注目をあびながら、壇上へと進む。さながら罪の宣告をうける囚人のごとく。頭をたれ、つきささる視線に身をすくませながら、もくもくと足だけを動かす。

　冷や汗が止まらない。ひたいと首筋は、鳥肌が立つほど寒いのに、背中だけは火にあぶられたような熱を感じる。

　やっとの思いで上りきった自分に、女真導士がほほえむ。心づかいにこたえる余裕もなく、ただ見返した。耳鳴りはまだ止まっていない。

「選定をおこないます。この水さしをお持ちなさい。……重いので気をつけて」

　手縄をかけられるような気分で両手をさし出し、銀色の水さしをうけ取る。ひやりと冷たくて、まるで氷の塊のようだった。

　急ぎながら壺へと歩み寄る。なかをのぞき、困惑をおぼえた。

　どのような理屈だろう……。さきほどまで、絶え間なくそそがれていた水が見あたらない。いったいどこに飲みこんでしまったのか。

　乾ききった壺の内側。全長のちょうど半分にあたる高さで、太い線がぐるりと一周していた。太い線のうえから壺の口へとむかう途中で、いくつかの細い線が等間隔に引かれている。二つ目、五つ目といっていたのは、この等間隔の細い線のことだろうか。

　自分を丸ごと飲みこもうとしているような大きな壺。よくない予感にふるりとふるえ。せめて落とさないようにと、冷たい水さしをしまっっかり持つ。

　そろりとかたむければ、口から水が流れ出てくる。若者と女真導士を往復していて、あらたな水がくまれることはなかった銀の水さし。こちらの理屈もわからないけれど、たしかに水の重みがあり、ちゃぷんと音もしている。

　清涼な水の香りが、鼻に届いた。涼しい香りに気持ちを押され、手に力がこもる。

　とくり、とくりと水が壺にそそがれていく。

　早く……、早く終わってほしい。耳鳴りがはげしくなってきた。悪寒のせいで、身体のふるえがさらにひどくなっている。けれども、そのような願いなど知らぬとばかりに、水がそそがれていく。壺のなかでは、水かさが徐々に増してきている。水さしを支えている指先は、ぬくもりを盗まれ、痛みすら感じはじめていた。

（……なんで）

　どうして終わってくれないのか。こんなに恐ろしいのに。こんなにもおびえているのに。

　いやだ。

　これ以上はいやだ。

　もうたえられない。いっそ逃げてしまおう。

　いますぐにこの水さしを放りなげて、右の扉から逃げ出してしまおう。

　恐怖と混乱でかき回された思考は、ぐるぐると旋回をつづける。しかし身体は、壺の前から動かない。心をなぶるように、水はその高さを増していく。

　願いがかなえられ、ようやく水の流れが止まったのは壺の中央。太い線にぴたりと重なったその瞬間だった。

　線よりも決して高くなく、ただの一滴もすくないとはいえない水を見て、三人の真導士が顔を見合わせた。

「選定線とおなじですわね」

「ええ、そのようです」

「どうしたものかの、これは……」

　壇上に満ちた形容しがたい空気。その空気に刺激された周囲が、ふたたびざわめき出した。

「ぎりぎりではありますが、合格でしょう」

　こちらに笑顔をむけたのは、年若い真導士。その言葉が信じられず、目を限界まで開いた。

　——そんな。

　なにかの間違いですと言いつのろうとした矢先、しゃがれた冷たい声がもろい心をうつ。

「これが合格とは言えぬだろうて。真導士で一つ目の線を越していない者など、いまだかつていたことがない」

「しかし、このとおり選定線は越しています。規定では選定線を越した者すべてに、知恵と知識をあたえるべし、とされておりますでしょう」

「選定線にかかっているだけだ。越してはおらぬ」

「……失礼ながら、それは屁理屈ではございませんか？」

　年若い真導士の言に、しゃがれた声の壮年真導士が不快感をあらわにした。酷薄そうな唇が、いびつに曲がる。

　壇上の事態に興味をいだいたのか、前にも増して視線が強くなる。黒髪の男のときとはちがう。おもしろがる、嘲笑まじりの視線。くり返しおこなわれる単調な儀式に、皆が皆して飽いていたようだ。あらたな事態を、だれもが楽しそうに注視している。

　こちらとしては、たまったものではない。ただでさえ苦手な人前で、険呑な事態の中心から、どうしたってぬけ出すことができないのだ。絶望的な心地で、棒のように立ちつくす。

　茫然自失となった自分を見つめ、女真導士が動いた。

　女神に祈りをささげるときのように顔をあげ、目を閉じる。フードのすきまから、あわい藍の前髪がさらりとこぼれた。

「慧師。ご相談したい儀がございます。おいでいただけませんでしょうか」